それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

地ビール

2013-06-27 20:55:06 | 日記
お酒はそれほど好きじゃない。

一人でいたら、ジュースの方が飲んじゃう。

おいしいお酒より、おいしいジュースを探している。

でも、この前、地ビールを買った。

父の日だったのである。

私の地元に地ビールがあるなんて全く知らなかった。

けれど、この前の元サークルのメンバーの集まりで、信頼できる筋からその話を聞いて興味が出たのである。

地ビールを探すのに苦労した。

直接工場で売っておらず(一応、電話して確かめた)、地元のお酒屋さんも閉まっているものもあって、一体どこで売っているのか分からなかったのだ。

けれど、僕の彼女が巧みに発見し(運転中に地ビールの看板を発見し)、インターネット上になかった酒店から、とうとう地ビールを買うことが出来たのである。



「ビールは一口目が一番美味しい」というが、本当に美味しいビールは何口目でも美味しい。と、ある有名な料理人が言ったそうだ。

僕も全くそう思う。この地ビールはまさにそういうビールだった。

ヨーロッパのビールが僕はとても好きだ。イギリスに留学する前、パリとベルギーに旅行して以来(その時も今の彼女が一緒だったのだが)、ずっとヨーロッパのビールをちょくちょく飲むようになった。

味がしっかりしていて、香りも高く、味わい深い。

こうしたヨーロッパのビールと、わが地元のビールを比較するのはとても面白いだろう(ちなみに、イギリスのビールはそれほど好きではない)。

この地ビールは、まるでヨーロッパのものと違う。

一口含めば、ふくよかな水とホップの甘さが口に広がり、柔らかく香るのである。

これと比べると、ヨーロッパのものはもっとどっしりしていて、硬い。

こちらの地ビールは、飲み進めれば、飲み進めるほど、口と喉がすっきりしていく。

日本のビールのあの独特の舌に残る「えぐみ」が全くないのだ。

だから、何度飲んでもおいしいのである。

父は「自分は味に疎いから」と言って、それほどこの地ビールを好んでいない様子だった。

味には好き嫌いがあるし、自分で選ぶことが重要ってこともある。

とはいえ、僕はこの地ビールにとても不思議で強い魅力を感じているのである。

おかげで、自分のためにもう一度例の酒屋に行って、地ビールを何本か買ってきてしまったのであった。

科学者の異常な性格

2013-06-18 21:32:12 | 日記
このブログのルールは、自分の研究については出来るだけ書かないということと、リンクは張らないということだ。

けれど、僕は最初のルールを少しだけ破ってしまいたいと思っている。

僕は最近、理由があって20世紀初頭の自然科学者について勉強している。

かなり集中的に勉強している。

自然科学と社会科学は、今ではほぼ完全に分離していると言っていい。

それどころか、それぞれの領域の内部ですら、細かく分離している。

自然科学者と社会科学者はひどくお互いを誤解している。と僕は思っている。

けれども、20世紀初頭、両者はお互いの研究を色々なかたちで学び、そして、お互いに刺激し合いながらそれぞれの研究を発表していた。

結果的にそれがお互いの研究を促進してきた側面と、ひどく歪めてきた側面がある。ものごとには両面あるものだ。

ここに書きたいのはそういうことではなく、自然科学者の性格についてなのである。

アメリカの心理学の一派が、20世紀初頭にアメリカの自然科学者の家庭環境から性格にいたるまで、かなり本格的に研究している。

その結果は、僕をひどく困惑させ、同時に笑わせたのである。

それによると、自然科学者は孤独を感じやすく、小さい頃から自分を特別な存在だとみなしがちで、自閉症に近い性格を示す傾向にある、という。

さらに、女性に対する興味が少なく、デートは大学に入るまでしたことがない。さらに、社会的なコミュニケーションよりも、仕事に興味を示し、研究室での労働は週7日に及ぶことがざらにある。というのである。

彼らは当然のことながら、一様にIQが高い。

僕のなかには、ここに書かれた自分が存在する(残念ながらIQだけは当てはまらないのだが)。

もちろん、僕の全てを彼が支配しているわけではない。

けれど、研究を生業としている自分は、その彼なのだと思う。

他方、授業をしている自分はその彼ではない。

それはともかく、僕が言いたいのは、つまり研究をしている人間が示しがちな「異常さ」が研究の世界ではむしろ「正常」であったということである。

けれども、読者の皆さんはこう思っているはずだ。

「研究者だって社交的でリーダーシップが無いと一流にはなれないんじゃない?」

そうだ。そのとおりだ。

しかし、ひどく社交的でリーダーシップがある人間は、自閉症と同じように一種の病気を持っている人なのである。

明らかにそんな行動は人間としては異常なのである。

つまり、両者の症状は実際には同じことなのであって、問題はその絶対値なのである。

例えて言うなら、バッドマンとジョーカーが鏡写しであることと同様なのである。

直太朗の歌

2013-06-10 19:07:15 | 日記
森山直太朗の「生きてることが辛いなら」をなんとなく聴いていた。

特にどういう意図でもない。

今、生きてることが辛いというわけでもない。

ただ、なんとなく聴いていた。

僕がカナダにいたとき、よくこの曲を聴いていた。

今までの研究生活で一番辛いときだったと思う。

イギリスの2年目の冬も辛かった。けれど、カナダの夏のたった3か月が、僕には本当にきつかった。

英語だけを毎日勉強する生活は、生きている意味を見失うような日々だった。

その日々がその次のステップにつながった、というのは後から見れば分かるのだが、あの時はまだどうなるか全く分からなかった。

「生きてることが辛いなら」は、その当時の自分の気持ちにとてもしっくりきていた。

久し振りに、本当に久しぶりにこの曲を聴いたとき、その当時の沢山の匂いや光の感じが思ってもいなかったほど、フラッシュバックした。

ホームステイ先の台所の匂い、料理の匂い、電車の匂い、学校の匂い、近くのカフェの匂い、大きな図書館の匂い、

ちょっぴり弱い日差し、少しだけさびしい青空、いつまでも来ない夜。

あの街にもう一度行ってみたいという気持ちだけは、全くおきない。

そこで出会った友達は本当に素晴らしかったのだけれど、僕は彼らと別の街で会いたいとどうしても思ってしまうのである。

テラスハウスというコント

2013-06-03 20:14:28 | 日記
「テラスハウス」という番組をたまに見ている。

男女6人が家を一軒と車二台をシェアして生活する。

見どころは、トヨタの車がどれほど高性能でおしゃれか、という点と、

ある程度同質的な日本人を一軒の家に住まわせても全然恋愛がうまくいかない、コントのような展開である。

一般的に言って、こういう類の番組は視聴率どうこうというより、「若者っぽさ」「流行っぽさ」という何だか曖昧で、人工的なフレーバーだけで出来ているお菓子のような甘ったるさが売りである。

テラスハウスをパロディにしたコントを幾つか見たが、全く趣味が悪い。

テラスハウスそれ自体がコントなのだから、パロディにする意味がないのである。

例えるなら、雑なサンプリングだけで出来た楽曲を元ネタに使うようなものだ。



そういう番組には、そういう番組にぴったりな音楽というものがある。

テイラー・スウィフトが歌う主題歌は素晴らしい。本当にポップで、甘ったるくて、舌にグロテスクな人口着色料が残るような鮮やかさだ。

残念だったのは、サカナクションの曲を部分的に使用したことだ。

サカナクションは確かにどういうわけか、やたらめったら流行し出してしまったのが、そういう流行によって消費するような軽い音楽ではない。と私は思っている。

だから、この番組にサカナクションの楽曲が使用されたことは、なんだか私をひどく不安にさせたし、何よりガッカリさせた。



この番組は、ただひたすら「軽薄」であるべきなのだ。

おしゃれなことを沢山やって、友達っぽいことを沢山こなして、夢を追っているという表象を流して、

友達から恋愛に至る煉獄をただひたすら、コントのように繰り返し見せてくれればいいのだ。

社会問題も国際問題も何もかも忘れて、麻薬のように、あるいは一度入ったら上がれないぬるま湯のように、日本の若者を心地よくさせてくれ。



たまった洗い物が見えない。

使いきれなくて腐った食べ物も、

置き場がない大量の本も、

リサイクルに出し逃した大量のペットボトルや新聞や、その他、ゴミの山も、

仕事に使うための資料も、

何も見えない。

当然のことながら、生活感を画面から徹底的な排除している。

だから実質的に言えば、(画面上では)テラスハウスとは「シェアハウス」ではなくて、「コントの舞台」のことである。

その結果、登場する人物が全員、とても軽い存在に見える。それが狙いだ。

この番組に伝えたい本質など無いのであり、人間の本質的な葛藤など雑音なのだ。

本当に素晴らしい。

見れば見るほど、空虚な気分になれる。

これは番組を批判しているのではない。

私はしばしば空虚な気分になりたいのだ。だから、全くもって需要にあっているのである。

巡礼

2013-06-02 14:41:32 | 日記
巡礼とは、宗教的に神聖な土地をめぐる行為、だそうである。

西洋的な巡礼においては、原罪というはじめから存在する「マイナス」を出来るだけ「ゼロ」に近付けることが目的とされる。

他方、東洋的な巡礼においては、宗教的な価値という意味では「ゼロ」からスタートする。

西洋と東洋。と分類したが、どの文化圏に属するとしても、どちらの巡礼も何らかのかたちで、われわれの社会のなかで形成されるのではないかと、私は思わざるを得なかった。

誰かの記憶をたどるために、その人の出会った人々や場所をめぐることは、それは決して「宗教的」というわけではないだろう。

しかし、もしもその記憶の「誰か」と、場や人をめぐる行為者としての「自分」の関係について問われたとき、おそらく多くの行為者は、その「誰か」を「自然を超えた何か」として捉えてはいないだろうか?

あるいは、自然という巨大な摂理から救い出そうとしてはいないだろうか?



私は様々な人間関係があまり拡大しすぎないように、あるいは、縮小と拡大をまったくうまくない仕方で組み合わせてきた。

つまり、私の記憶を私の外部から巡るとすれば、それはとてもつまらないものであるか、あるいは途切れ途切れということになるのかなと思う。

つい最近も、私は過去のサークルの人間関係を一度凍結する儀式を終えたような気がしているのである。

「凍結」ということは決して否定的な意味ではなく、まったく考えている余裕がない現状に鑑みて、冷凍庫の奥に置いておこうという程度のものである。

私は公私の人間関係をどこか超然的にすべて、「ビジネス=アイデンティティ」(潜在的顧客=友人)という、食い合わせの悪い資本主義と自己実現の政治というセットに入れることが出来ない。

それを入れることが出来るのは、何と言うか、アングロサクソン的ビジネスマンくらい、という気がしているのである。

このセットはとても優れている。

仕事を成功させることで顧客は満足し、自己実現でき、潜在的顧客としての友人も増加し、友人の幸福度も上昇し、そして、さらに自己実現への階段を昇るのである。

けれど、こんなものは幻想だ。