それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

爆笑問題・太田が語った「芸と感受性」:分からないものを全否定する反知性主義に抗する話芸

2016-09-29 10:01:31 | テレビとラジオ
 9月27日に爆笑問題のラジオ番組「爆笑問題カーボーイ」で、太田が語った「芸と感受性」の話があまりにも素晴らしくて、胸が熱くなった。



 太田は、言葉や感情表現の根本に立ち返れば、生まれたての赤ん坊の泣き声にたどり着く、と語り始める。

 悲しみや喜びや不安、怒り、何もかもがあの泣き声に含まれているのであり、すべての表現はそこに立ち返ることができないがゆえに模索をし続けるのだ、と。

 敬愛する文芸評論家で作家の小林秀雄が紹介する柳田國男の話を語る。

 柳田はある日、自然のなかで美しい星々を見つける。それは真昼の青空のなかだったという。小林(そして太田)は、その美しさを見て取ることができる柳田の感受性に注目する。

 太田は言う。学問が単なる学問だけのものであれば、何も面白くない。

 柳田のような感受性があってこそ、日本の民俗学は学問として誕生できたし、柳田以上に面白い研究がそこから生まれなかったのも、感受性があるかないかで学問の面白さが決まるからだ、と小林秀雄の言葉を借りて論じる。



 さらに続けて、相模原の障害者施設で起きた殺傷事件に言及する。

 太田は言う。あの犯人は、タトゥーから政治家への手紙から、何から何までわめき散らしていたが、そのメッセージはまったく誰にも届いていない。

 犯人は、施設で働いていた人が他者とコミュニケーションできないと勝手に思い込んでいたが、実際のところはまったく逆だ、と。

 施設で働いていた人のことを思う人たちが彼らの周りにいて、そこには沢山のコミュニケーションがあった。

 コミュニケーションで大事なのは、一方的に決めつけ、わめき散らすことでない。

 そうではなくて、受け取り手が意思の発信者に対して、どのような思いで寄り添うのか、である、と。

 聞き手が感受性を総動員して、相手のメッセージを受け取ろうとする。その関係性こそが本当に大事なことなのだ、と。

 その究極的関係は赤ん坊に戻る。つまり、赤ん坊は言葉をまだまったく持たない。

 ところが、赤ん坊の泣き声を周りの人間は懸命に受け止めようとし、その意味するところを懸命に感じ取ろうとする。

 そこのコミュニケーションの本質があるのだ、と。

 それでは「お笑い」とは何か。

 太田は考える。一般の人でも、そこらへんにいる高校生でも、友人同士で笑い転げている話には、本質的な面白さがあるはずである。

 もちろん、そこに技術、テクニックというものはないかもしれない。

 しかし、沢山笑うという結果がある以上は、面白さの本質がそこにあるはずだ、と。

 ネタを作っているときは、技術やテクニックというものを超えて、日々、そこに縛られることなく、その笑いの本質にたどり着こうとしている、と太田は語る。



 そこから、落語の話に向かう。

 落語はすごい。例えば、立川談志は落語の最中に消えるのだ、という。聞き手は話に引き込まれ、話し手である談志の存在を完全に忘れてしまうのだ、と。

 そして、話しは三遊亭圓朝へ。

 圓朝は江戸落語を集大成した人物で、彼の新作が現在の古典になっていると言われる。

 その彼が話芸を突き詰め、突き詰めすぎた結果、まったく面白くないシンプルすぎる話し方にたどり着き、誰も寄席に来なくなった、のだという。
 
 ところが、ある日、関西へ行く用事があって、そこでもっとずっとベタな笑いに接したという。

 そこで開眼し、客に媚びるということを嫌うあまり、笑いの本質を見逃していたことに気が付いたのだという。

 客に媚びたい自分も認めることが、実は重要であることを理解する。

 また、ある時、剣豪で禅と書の達人であった山岡鉄舟と知り合い、彼の前で話しを披露した。ところが、山岡は「舌で話しをしてはいけない」と説く。

 圓朝は悩み続けるが、ある日、ぱっと開けたという。そして、山岡に会ったとき、分かったか?と聞かれ、圓朝は「はい」と言って舌をペロッと出したという。

 その意味はおそらく、舌で話していることそのものを受け入れること、そうして初めて、その先に行けるのだ、と太田は考える。



 そして、話題はお笑いをネット上で批評する、ある一般人の親子に至る。

 この親子の評判はすごぶる悪い。

 父親は元放送作家だと言って、今のお笑いをああだ、こうだ権威主義的に語る人で有名で、

 息子の方は、様々な芸人の芸をああしたらいい、こうしたらいい、と物知り顔で説く。

 言うまでもなく、こんな人たちは無視すればいい。ブログをつけているらしいが、そんなものを読まなければいい。

 しかし、太田は彼らの言葉にずっとこだわり続けてきた。

 それはおそらく、彼らの多くの勘違いや誤解、無理解が、決して彼らだけのものではないだろうと思ってのことだと思う。

 ことによれば、テレビ局のなかにも、メディア全体のなかにも、こうした無理解や誤解は存在するのではないか。

 そのうえで、親子が評したENGEIグランドスラムの話をする。

 この親子は、番組のトリを務めた三遊亭円楽を批判する。

 しかし、太田は言う。それはあまりにも的外れだ、と。

 この親子は確かに落語に関する知識はあるのだろう。しかし、落語のことをまったく知らない人たちだ、と。

 それは落語の本質が分かっていない。つまり、ひとりで何役もやること、そして最終的にそれが劇団のような形態の芸を超越して、聴衆を引き込んでしまうこと。

 そこに落語の本質があり、名人の芸はそこに至るものなのだ、と。

 けれど、それは受動的に怠惰に見れば分かるとは限らない。

 やはり、聞き手の感受性が非常に重要になるのだ、と太田はいう。

 落語の批評とは、そうした感受性の欠如を棚に上げて、落語家を批判することではまったく成立しないのである。

 感受性をもとに、行われた落語のすべてを受け止め、そのうえで何を語るのかが批評する者に求められる。

 特に、この批評家ぶる息子は、お笑いそのものを誤解している、と太田は嘆く。

 この人物は、芸の肉体性、官能性をすべてマニュアル化してどうにかしようという浅はかな考えに取りつかれているのだ、と。

 芸の肉体性、官能性を本当に理解したければ、舞台に上がるのが一番早い。

 本当に知りたければ、舞台に一度上がってみた方がいい、と太田はその似非批評家の親子に向けて語る。


 
 私も大学で研究をし、テレビやラジオで見たことについてブログを書いている身として、太田の言葉は身につまされる。
 
 私が発している言葉に感受性はあるのか?

 私の言葉は誰かに届いているのか?

 ブログはともかく、研究については深く考えさせられるところがある。

 太田が感じている知性と官能性の往来の世界は、誰の言葉よりも「学問的」だった。

田渕ひさ子が凄すぎる:ベース・ボール・ベアーを完全掌握するギター

2016-09-25 16:52:25 | テレビとラジオ

祭りのあと2016


 バンドでも室内楽のアンサンブルでもそうだが、楽器の間の関係は完全に平等ではない。

 バンドのリズム、グルーブを決めるのは、最も説得力のある演奏ができるメンバーである。



 おそらく、こんなことを言っても意味が分からないと思うので、リンクしたライブ映像をよく聴いてみてほしい。

 リード・ギターを弾いているのは、元ナンバーガールの田渕ひさ子。とにかく迫力のある力強い演奏で有名なギタリストだ。

 彼女の弾くリフに注目してみてほしい。そして、ベースの音と比べてみてほしい。

 ベースはかなり入り込んで演奏している。しかし、曲全体のグルーブから見ると、音が少し軽く乗っていることに気が付くはずだ。

 例えば、本来ベースが8分音符を連打する場合、それぞれの♪の強さは異なる。そして、コンマ数秒の違いによって、グルーブを強めることになる。

 しかし、ここでのベースは、8分音符が少し走っていて、音も軽くなっているのが分かるだろう。

 実際のところは、田渕ひさ子が弾くギターのリフが曲のグルーブを作っている。

 ドラムとベースのリズムセクションが曲全体を軽くしそうになるところを、田渕のギターがそれを引き留めている。

 元ギターの湯浅がいた時は、湯浅は他のメンバーが作るグルーブに乗っかっていた。

 リード・ギターなのだからそれでいいのだ。

祭りのあと2015


 2015年の演奏と比べてみると、よく分かるだろう。

 2016年のライブでは、田渕ひさ子のギターのレベルがあまりにも高いため、逆のことが起きてしまっている。

 繰り返しになって申し訳ないが、田渕のギターが実質的なグルーブを決定しているのだ。リード・ギターであるにも関わらず。



 どうしてこういうことになかというと、最初のテーゼに戻るが、バンドというのは最も説得力のある演奏ができるメンバーによってリズムが決まるからである。

 「説得力」というのは、音の重さ、大きさ、さらには気持ちの良さなど、様々な要素で構成されている。

 グルーブは演奏家ひとりひとりのなかにあるが、実はそれぞれに優劣があることも少なくない。

 説得力は必ずしも音の数で決まるわけでもない。

 例えば、マイルス・デイビスはモードジャズに移行してから、どんどん音数が減っていき、最終的に最小限の音でバンドのグルーブをコントロールしていた。

 だから、結局のところ、演奏のレベルの違いということになってしまう。

 久しぶりに楽器の上手さ、ということについて考えさせられる恐ろしい映像だった。

NHK『SONGSスペシャル「宇多田ヒカル』:宇多田の6年間、僕の6年間

2016-09-25 09:58:16 | テレビとラジオ
 宇多田ヒカルは僕の一歳上だ。僕の世代はあえて括れば、宇多田ヒカル世代であり、これからもずっと宇多田ヒカルのことを考えながら生きなければならない軛を負っている。

 ここでは、宇多田がSONGSのインタビューのなかで語ったデビューから活動再開までの軌跡と、僕個人の軌跡を勝手に重ねて振り返る。

 すごく私的でどうでもいいことだろうが、しかし、同じような世代にとっては「何か」に触れるものだと思う。



 宇多田のFirst Loveの発表は1999年で、僕は高校に入ったばかりだった。最初はまったく何も思わなかったが、いつの間にか日本の音楽はブラックミュージック中心に変化し、その数年後には、ギターロックまでもブラックミュージックに寄っていくのである。

 以前、このブログにも書いたが、宇多田の楽曲のグルーブの作り方は、それまでのJPOPがやりたくても出来なかったもので、日本のヒップホップの登場と合わせて、JPOPのリズムそのものを大変革してしまった(詳しくは以前書いたので割愛)。

 そういう時代の大変革を体験しつつも、僕個人は宇多田の歌詞の世界にあまりしっくりきていなかった(楽曲は好きだったし、歌詞のあまりの見事さもある程度理解してはいたが)。

 それは楽曲の歌詞が自分のリアリティとずれていたということと、宇多田のキャラクターである「背伸びした女の子」(今回のSONGSで彼女が語ったように)が非常に苦手だったということが理由だった。



 その宇多田ヒカルが活動を休止した時、僕は勝手に納得したと同時に、どこかで安堵していた。

 関係ない一般人である私にとっても、宇多田がどんどん消耗していくのを見るのは非常に辛かった。

 楽曲の世界は前にも増して暗くなっていたし、楽曲の構造も過度に複雑化していた。

 どういうわけか、自分も研究者としてのキャリアをスタートさせながら、(主観的には)混乱の一途をたどっていた時期が、宇多田の活動休止直前と重なる。

 宇多田の活動休止は2010年で、その時、僕はイギリスにいた。日本での限界に直面し、イギリスに留学したのである。

 宇多田が人間として自分を作り直し、今回のSONGSで「遅れてきた青春」と呼んだものを体験しているとき、僕もまた「遅れてきた青春」を経験していた。

 宇多田と同じように自分も20代後半に入り、自分を成長させ、置いてきた「何か」をやり直す最後のチャンスだと思ったのは、偶然の一致だろうか?

 いや、恐らく偶然ではない。20代後半から30代前半にかけて、現代人の多くが第二の青春と呼ばれるものを体験する傾向にある。

 それは現実からの逃避ではなく、むしろ現実との戦い、あるいは現実との宥和の試みである。

 「もう少しだけ、自分を作り直したい。人間として生きる力をつけたい。」という思いを実現したり、あるいは諦めたり。それはどちらでもいい。ただ、それを終える儀式をしたいのだ。



 宇多田はその間に再婚し、母を失い、子どもを産み、人間としての大きな変化を体験した。

 そして、およそ6年間の活動休止を経て、再度活動を再開する。

 SONGSでのインタビューによれば、その過程のなかで、自分の人格を形成した多くの体験(しかも、完全に忘却する宿命にある体験)を思い出したのである。

 要するに、幼少期の記憶を子育てのなかで疑似的に「思い出した」わけである。

 そこで彼女は、おそらく色々な自分と宥和したのだろう。

 その宥和の過程が今回のアルバムの世界につながっている。

 彼女が語る言葉、歌詞は、インタビューのとおり、等身大の彼女であり、裸の彼女である。

 朝ドラの歌を聴いたとき、僕は初めて宇多田の歌詞に共感めいたもの感じていた。その理由がSONGSのインタビューでようやく分かった気がしている。

 そこにはもう「背伸びした女の子」も「傷ついて消耗した女性」もおらず、等身大でそれなりに成長した自分と向き合っている宇多田ヒカルがいる。

 だから、その世界観が僕にぴったりと寄り添ってくる。



 ところで彼女が活動を休止した6年間は、必然的に6年間でなければならなかったわけだが、どういうわけか、僕にとっても同じだった。

 僕はイギリスでの留学を終えた後、日本に戻って結婚し、大学で駆け出しの教員生活をはじめたが、すぐ東京にひとりで引っ越し、まだ自分を作り直していた。

 友達をつくったり、街を散策したり、最初から勉強しなおしたりしていた。

 30代に突入すると、体や心も大きく変化する。それは良い方向ではなく、悪い方向での変化で、僕はそれにしばらく苦しむことになる。

 自分を作り直しながら、変化している自分と折り合いをつけていく。

 妻によれば、東京で僕は大きく変化したらしい。

 はじめて自分らしい居場所を見つけ、自分なりの研究スタイルを完成させつつあった。

 そして、その終わり際、単著を完成させ、いよいよ本格的に大学教員として活動をはじめることになる。

 奇しくも宇多田が活動を再開したタイミングとほとんど同じだった。



 宇多田がSONGSに出演するとなった時、不思議な気持ちになった。彼女が語る言葉をどうしても聞きたい、と。

 それはファンとして聞きたいのでも、野次馬的に聞きたいのでもなく、ただひとりの同じ世代の人間として「君の6年間、どうだった?」と聞きたかったのだ。

 インタビューは、デビューしてからのことから、活動休止、さらに再開までのことに及んだ。

 彼女の人間としての軌跡がかなり赤裸々に語られ(離婚のことは触れられなかったが)、今回のアルバムの背景を余すところなく、映し出した(ように見えた)。

 これからも彼女は惑い続けるだろう。

 僕もまたそうなる。

 それぞれの体験や文脈は永久に交わらないだろうが、それでも同じ時代を生きていることに変わりはない。

 その時々で彼女が紡ぎだす言葉や音楽を僕はこれからも見続けるだろう。

 今そうしているように。

AXNミステリー「英国男優のすべて」:イギリスのプロフェッショナリズム、日本のアマチュアリズム

2016-09-15 11:18:59 | テレビとラジオ
 AXNミステリーの「英国男優のすべて」というオリジナル番組が非常に面白かった。

 この番組では演出家の鴻上尚史を解説に迎え、イギリスで俳優養成の「東大」にあたる「王立演劇学校(RADA)」を紹介する。

 何より鴻上の解説が素晴らしい。彼はイギリスの「ギルドホール音楽演劇学校」に留学経験があり、そこでオーランド・ブルームとクラスメイトだったという。

 RADAが東大にあたるとすれば、ギルドホールは早稲田か慶応にあたる、ということだそうだ。



 さて、そのRADAの演技指導がすごいらしいのである。

 1クラス14人、それが2クラスあり、1学年28人の学生からなる。

 そこで様々な演技のプロフェッショナルが教育を行う。教科書は存在せず、それぞれの教員がそれぞれの経験をもとに、ノウハウを叩きこんでいく。

 卒業生のひとりは、その指導は「まるで魔法のようだった」と言っている。

 つまり、どこをどうするかによって、演技の能力がまったく変わってしまう、というのである。

 RADAの卒業に際しては、プロへの登竜門となる舞台発表が行われる。

 演技において俳優を最も育てるのは舞台である、との考えに基づく。

 鴻上によれば、舞台は俳優の全身を映し出すため、演技すべてを見られるのだという。

 対して、映画やテレビドラマは編集によって、いかようにでも出来てしまうため、俳優の力量は必ずしも問われないのだ、と。

 だから、駆け出しの若手でも、映像では主演になれてしまう。日本の場合、そればかりなのである。


 
 RADAに入るのは非常に難しい。しかし、優等生ばかりをとるわけでもないし、容姿が端麗な人々を選抜しているわけでもないという。

 演劇には、様々な種類の人間が必要になる。

 物語に登場するのは、人格が複雑に歪んだ者から、ひどく醜い者、さらには天に与えられた美貌をもつ者まで様々である。

 それゆえ、俳優は多様性が重要になる。

 だからこそ、RADAに入学する人材は多様で、神学を学んできた者からオックスブリッジなどの超名門大学出身の者までいる。

 容姿が整った者から、そうでない者まで色々だ。

 教員たちは、候補生たちの人格や立ち振る舞いをつぶさに観察する。

 俳優はすべてを観客に見せるのではなく、見せない部分を持っていることもまた非常に重要だ、という。

 それゆえ、候補生たちの立ち振る舞いや人格の強さや繊細さ、複雑さを多角的に評価するのである。

 また、俳優個人で言えば、その人格に内在している様々な可能性を引出し、多様な要請に応えられる能力を身に着ける必要がある。

 卒業生のひとりは、「あなたはまだ大きな家のなかのひとつの部屋しか使っていない。まだ他にある沢山のドアを開けなさい。」と言われた、という。

 これは日本のメジャーシーンの俳優の顔ぶれとはかなり違うかもしれない。

 無論、名脇役は沢山いるが、その評価は主役を盛り上げる二番手の位置づけとされてしまいがちだ。

 

 イギリスにおいて演劇は人間が人間を究める職業のひとつとして位置づけられている。

 だからこそ、日本と違い、俳優の学歴も比較的高い傾向にあるように見える。

 イギリスの演劇が人生を賭けるに値する仕事であるとされる背景にあるのは、鴻上によれば、シェイクスピアの存在だという。

 俳優のキャリアに沿って、演じるべき役がシェイクスピアの様々な物語のなかに存在し、それを目標にして、俳優たちは成長するのだという。

 日本で言えば、歌舞伎や能、狂言に近いというが、残念ながら日本の場合、伝統芸能は基本的に世襲制である。

 それゆえ、演劇そのものがどうしても根無し草になってしまいがちだ。



 ここからは番組の内容を離れ、私が見て思ったことを書く。 

 RADAと日本の演劇学校を比べるのは難しいが、少なくとも次のことが言える。

 イギリスのように俳優養成ががっちりと制度化されたアカデミアによって固められている状況は、日本には存在しない。

 日本の場合、俳優は独自の経験、独自のキャリアパターンで偶然的にノウハウを蓄積し、上手になる。

 出身母体も大学の演劇サークルや有名な劇団、お笑いグループ、あるいは事務所にモデルとしてスカウトされた、など様々だ。

 つまり、日本ではアカデミアとしての演劇は存在せず、すべてアマチュアリズムによって成立していることになる。

 プロフェッショナリズムは非常に分散したかたちで存在するが、それにアクセスせずに映画やテレビドラマで主演になってしまうケースがよくあるわけだ。



 イギリスと日本の違いは、私にとっては、大学院での研究者養成の方法の違いを思い出させるものだった。

 イギリスの大学院での教育は、非常に制度化されている。

 例えば、学生が教育に異議申し立てできる回路を保証し、教員が独善的にならないよう副指導教官を付けるとともに、その指導割合も教員の評価につながるため、事前に書面にしておく(たとえば、主任70%と副30%など)。

 日本の大学院はこうした制度化は非常に弱い。ゆえに指導教官の良し悪しで学生の人生が大きく変わってしまう。

 その一方、イギリスは教養や経験を非常に重視する。大抵、指導教官による指導は決して機械的ではなく、相手の人格を尊重しながら対話をして指導を行う。

 それゆえ、指導のための面談の回数は非常に多い。また、日本と違い、博士課程の学生は一人前の研究者として扱われ、学生の研究プロジェクトは彼/彼女の責任において進められている、という立場をとる。日本のように、「未熟な子ども」のような扱いはしない。



 私も一応、イギリスの大学院出身の研究者ではあるが、普段、イギリスが好きだと思うことはほぼない。

 だが、こうした教育システム関してだけは、本当にイギリスが好きだ。

 それには、相応の理由がある。

 例えば、番組が取り上げたRADAのように。

アニメ「さくら荘のペットな彼女」:才能を持たない者の戦い方、あるいは就職活動の教科書として

2016-09-12 13:03:34 | テレビとラジオ
 アニメを週末で一気に見てしまった。「さくら荘のペットな彼女」という若干ショッキングなタイトルのアニメである。

 この物語は、いわゆる学園ラブコメに位置付けられると思われるが、

 実際には、「才能がない人間がどうやって才能のある者たちと戦い、自分なりに折り合いをつけていくか」という話である。



 概要は以下。舞台は、芸術コースがある高校の、とある寮。その寮は、高校のはみ出し者が集められた、いわば島流し用の場所だった。

 そこに主人公の男子高校生(2年)が、猫を飼っていることを理由に送られ、思いもよらない出来事に次々と巻き込まれていく。

 物語に登場するヒロインは、ある理由でイギリスから転校してきた女の子(そして、主人公がいる寮に住むことになる)。

 その子は恐ろしいほどに絵を描く才能があるものの、日常生活の何もかもを一人でできないため、主人公が色々と面倒を見る羽目になり・・・・・・。


 
 アニメを見ない人にとって、最初の関門は非日常的な設定と展開、お約束のキャラクター設定、不必要に思えるギミック(例えば、物語内でのコスプレ)などである。

 この物語にも、それはふんだんに登場する。

 ヒロインの絵の才能がありすぎる上に、容姿整いすぎな上に、何も出来なさすぎる上に、感情が未発達するすぎる件、同様に、主人公の寮の仲間たちの能力がすごすぎる件、主人公の妹が異常にお兄ちゃんを好きすぎる件、よく分からないところで不必要に女の子が着替えてしまう件など、そこに躓くとすべてを拒否してしまう。

 だが、それはどうかご容赦いただきたい。これはすべて「様式美」なのだ。

 歌舞伎だって、能だって、その世界だけで成立するキャラクター設定や言動があるじゃない。それと同じです(怒らないで!!)



 そうした「様式美」の先に、この物語の普遍性が隠されている。

 冒頭にも言ったとおり、この話は「才能がない人間がどうやって才能のある者たちと戦い、自分なりに折り合いをつけていくか」をテーマとしている。

 焦点がそこに絞られているからこそ、この物語にはすごく意味があり、感動がある。

 主人公は、転校してきたヒロインに何か特別な気持ちを抱くが、しかし、その分、強烈な劣等感に苛まれる。

 かたや天才的な芸術家であるヒロイン。ヒロインは、マンガという新しい領域に挑戦し、着実に結果が出していく。

 一方の主人公は、自分が何をやりたいかも決められず、ようやく決めたゲームデザイナーという道も、まるでうまくいかない。



 こうした劣等感と恋愛の感情が、良い意味で不協和音を発生させる。

 主人公のヒロインへのイライラや嫉妬に反比例して、ヒロインは主人公に特別な感情を強めていく。

 主人公はヒロインに優しくしたいのに、怒りをぶつけてしまい、すれ違っていく。

 ヒロインの極端な純粋さが、主人公の気持ちの歪みをとてもはっきりと映し出す。

 この痛々しさがこの物語の肝である。

 これは主人公とヒロインだけでなく、同じ寮に住む一学年上の先輩ふたりにも当てはまり、それがパラレルに進むので、非常に分かりやすい。



 大好きなパートナーの才能に釣り合うには、一体どうしたらいいのか?

 舞台設定は高校だが、これは大学でも会社でも当てはまる話だ。

 物語では、男性の方が才能に恵まれていない。だからこそ、その歯がゆさが目立つ(それは保守的なジェンダー観と結びついているのかもしれないが)。

 自分より遥かに才能のある相手をどうやって愛していけばいいのか?

 そんなことを気にせず、普通に関係を深めていけばいい、というのは綺麗ごと。実際、人情がそうは許さない。

 自分が相手に相応しくない人間なのではないか?と思えば思うほど、もう相手の前では素直になれず、関係も深められない、さらに自分を嫌いになるという負のスパイラル。



 そこで主人公は自分の弱さを見つめなおす。

 先輩や先生たちの助けを借りながら、何がダメなのか、どこに問題があるのか、少しずつ発見し、克服しようと努力していく。

 確かにこれはアニメ。周りはスーパーマンだらけ。絵の天才、アニメの天才、ITの天才に囲まれており、こんなに都合の良いメンターはいないだろう、というくらい。

 でも、それをちゃんと利用して、自分を高められるかは、やっぱり本人の自覚と努力と覚悟なのだ。

 実際、現実にもこういうことはよく起きる。素晴らしい先生に囲まれていても、それに気づかず、大学生活を終える学生は無限にいる。



 すごくジーンときたのは、主人公がオリジナルのゲームのプレゼンテーションを会社に持ち込むところ。

 コンペで勝てば、自分の考えたゲームが商品化される。

 ところが、それがなかなか難しいのである。

 きっと多くの視聴者がそうだと思うが、私は自分の就職活動のことを思い出してしまった。あるいは、出版社に自分の原稿を持ち込んだ時のことを思い出してしまった。

 大人の世界は困難だらけだ。

 自分を優遇してくれる理由などひとつもない。ただ、自分のパフォーマンスが良いか悪いかを評価されるだけだ。

 何度も壁にぶつかる。理不尽な理由で落とされる。そもそも自分が持ち込んだものを見てもくれない。

 そうした実社会のルールのなかで、どうやって勝つか。

 大学のポジションや出版事情は、近年ますます厳しくなっている。

 ゆえに、ポスドクの人々はまさにこの主人公と同じような目にあっている。

 そのなかで、勝者と敗者が日々生まれる。

 それはとても苦しいことだ。悲しいことがたくさんある。

 このアニメで登場するような、「お前は頑張ってた、それをちゃんと見てたから」と言ってくれる人は周りにいないかもれしれない。

 けれど、それでも、挫折には多くの発見がある。それをどうやって直視するかなのだ。と、このアニメは教える。