それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

テレビ東京「“池の水ぜんぶ抜く”!緊急SOS外来種から日本を守れ」:新しい教養の時代

2017-04-27 08:23:56 | テレビとラジオ
 テレビをザッピングしていて、思わずそのまま見てしまった最近のテレビが、「池の水をぜんぶ抜く」というバラエティだった。

 テレビ東京らしい、シンプルな企画。

 けれど、これが面白かった。

 実際、大きな反響があったらしい。



 なぜこの番組が面白かったのか。

 近所の池の水をぜんぶ抜いたら、一体何が出てくるのか。

 小さい頃、すごく気になった思い出がある人も少なくないだろう。

 それを実際やってみるのである。


 
 今回取り上げた池のひとつには、アリゲーターガーという魚がいた。

 この魚は、なんでも北アメリカ原産の大魚で、2メートル以上に成長するそうだ。

 見た目は完全にワニ。

 歯もすごい。

 小魚の間は、小指みたいな小ささで、本当に可愛らしい。

 それがどんどん大きくなってしまい、放流する人がいるらしい。

 日本だと昨年、大阪の河川で発見されたニュースがあった。

 そのアリゲーターガーがいる。

 そいつだけではなく、巨大なミシシッピアカミミガメもどんどん出てくる。

 コイも出てくる。

 とにかく、大きい生き物がどこにでもありそうな身近な池からどんどん出てくる。

 面白い。



 すぐに日本のナショナリズムに訴えかけるのは、テレ東の悪いところ。

 外来種、外来種、危険。

 その通りなのだが、この番組は外来種を放流した人間のおかげで面白くなってしまっている。

 それと、外来種ってどこまでの生物を指すのかも興味深い。

 番組では専門家が「最近ではコイも外来種だと判明しました」とのコメント。

 まあ、そうでしょうけど、多くの生き物は大陸から来たでしょうけど、それを言ってしまったら、キリがないぞ。

 そして、その線引きをする人間って何?

 そういうところも面白い。



 この番組を見て、多くの人が思い出すのが「鉄腕ダッシュ」かもしれない。

 植物から生物まで、とにかく捕まえたり、育てたり、食べたりする、日テレのあの番組。

 こちらも自然科学味の番組だ。

 最近では、外来種を美味しく食べる企画も始まった。



 また違った種類の自然科学で言えば、Eテレ「ピタゴラスイッチ」。

 「大人のピタゴラスイッチ」は、ますますぐっとくる。

 自然科学もいいけど、人文学もという人には、テレ東「なんでも鑑定団」がある。

 もっとラディカルな芸術バラエティを、という人には、Eテレ「びじゅチューン」。

 芸術の古典が不思議な歌とアニメに昇華される、謎に満ちた魅力的プログラム。

 社会人類学や国際政治がお好み、という方にはTBS「クレイジージャーニー」がある。

 大学の授業の映像資料にも使えてしまうほどの面白い旅の様子が見られる。

 日本の地理・歴史・地学なら「ブラタモリ」。



 以前にもこのブログで書いたが、近年のテレビは「新しい教養の時代」に入っている。

 「教養」の時代が終わったのは、もうかなり前だが、今は今で別のかたちの「教養」が楽しまれている。

 堅苦しい報道番組でもドキュメンタリでもなく、軽い気持ちで見て、ハッピーに楽しめる教養バラエティ。



 最近の番組作りについて、「視聴者はバラティのなかでお役立ち情報を求めている」なんて声もよく聞く。

 けれど、教養の面白さは、あまり役立たないところにある。

 役立つかどうかというプラグマティックな話ではなく、

 もっとピュアに知的に面白いこと。それが教養だ。

 人類がなぜ大学までつくって、学問なんてものを体系化してきたのか。

 それは何かに役立つからだけではない。

 そんな動機で続けられる学問は、あまり存在しない。

 大半のものは、「いつか何かのかたちで役に立つかもしれないけど、よく分からない」代物だ。

 そうではなくて、本当の面白さはもっと単純でバカみたいなことなのだ。

 知った時に「ハッ」と驚く、それが教養の魅力なのだ。

 世界も人間も知的な驚きに満ちている。

 高校や大学でそれが発見できなかった人にも、今の日本のテレビは優しく、知的面白さを伝えてくれている。

Base Ball Bearのアルバム『光源』:過去とどう向き合うか

2017-04-18 10:39:48 | コラム的な何か
 Base Ball Bearのアルバム『光源』が話題になっている。

 とにかく良く出来ている。

 これまでのアルバムと比べると、極端にグルーヴ感が増した。

 ベースラインはいずれも練りに練られたもので、ドラムとギターがそこに有機的に結びついている。

 「有機的に」と言うのは簡単だが、コード進行やグルーヴが効果的に発出するように構成するのは、きわめて難しい。

 じっくりと考え抜かれた編曲は、聴けば聴くほど味わい深い。

 何より演奏技術が格段に上がっている。一音一音の深さ、音圧がこれまでよりもはるかに良くなっている。



 そういう音楽的なことは聴けば分かるのだが、このアルバムで衝撃的なのは歌詞(歌詩)の世界なのである。

 それを言葉で説明するのが、今回の目的なのだが、非常に難しい。



 このアルバムから全体を通じて見えてくるのは、「過去の記憶とどう向き合うか」ということだ。

 曲全体で特徴的なのは、過去の強烈な成功体験と失敗体験がまだら状になっていることである。

 強烈な成功体験も失敗体験も、現在の自分を支配する。

 そこから逃れるのは、とても難しい。それが思春期に起きれば、「青春の呪い」になる。

 いつまでも青春について考えてしまう可哀そうな人間になってしまうのである。

 たとえ思春期を無難に過ごしたとしても、成功体験や失敗体験から無縁でいられる人は少ないのではないか。

 このアルバムの普遍性はそこにある。


 
 失敗体験について言えば、「あの時、あの選択をしていれば・・・・・・」と人間は考えがちだ。

 もし世界が複数あって、並行して存在していたらどうだろう。

 別の世界の自分は違う選択をして、違う結果を享受していたはずだ。

 並行世界まで考えるかどうか別にして、違う運命について考えてしまうことはよくある。



 逆に成功体験もそれはそれで、現状の評価や判断に大きな影響を与える。

 影を落とすと言った方がいいかもしれない。

 懐かしむだけで止められればいいが、今を生きることを阻害することもありえる。



 過去を振り返るとき、いつも考えてしまう。「あの時のあの選択」は選ばされたものだろうか、それとも選んだものだろうか、と。

 われわれは因果律に支配されているのだろうか、それとも自由意志で運命を切り開いているのだろうか。

 人間の自由意志は儚く、もがきながら選択を続けている。

 意志の自由を高らかに謳うのは、とても困難だ。

 だからこそ、過去がいつまでも追いかけてきてしまう。



 このアルバムは、そうした人間の弱さを愛しいものとして読み替える試みである。

 自分の選択は運命全体から見れば確かに小さいものだが、それが大きな変化を生む場合もある。

 そう考えれば、運命の正体は自分なのであって、良い変化であれ、困った変化であれ、それを受け入れていくしかない(本作では「逆バタフライエフェクト」)。

 もちろん、過去の記憶を胸の内に残していたっていい。それを原動力にしていくことも、ひとつの正解ではないか(本作では「SHINE」)。



 このアルバムを聴き終ってみると、結局何も変わっていない自分がいる。

 いや、よくよく見ると、少しだけ違う。

 過去が確かに過去であることを受け入れている。

 つまり、確かに時間が経過したのだと理解している。

 今は過去ではない。

 でも、過去は確かにあった。

 そして、もう一度、今が始まる。

放送大学「錯覚の科学」:世界を見ている僕の脳みそが本当はすべて幻想を映し出しているのだとしたら

2017-04-14 10:45:28 | テレビとラジオ
 ライトノベルみたいな副題を付けてしまった。

 でも、ここで伝えたいこの番組の魅力はそこに凝縮されている。

 放送大学でやっている「錯覚の科学」というプログラムが面白いのである。

 主任講師は菊池聡さん(信州大学教授)。

 認知心理学がご専門とのこと。



 この番組にはハッとさせられる瞬間が沢山ある。

 例えば、左右の両手それぞれで人差し指だけを上に立てて、顔の前にもってきて欲しい。

 それで右手だけ前方にめいっぱい伸ばし、もう左手は肘を曲げて顔の前に。

 つまり、恋ダンスのポーズ。

 この状態で、両指の長さを比べてほしい。

 どうなっている?

 はい、普通に右手の人差し指が短く見えるはずだ。

 遠近法だから。



 では、両手の間隔をそのまま左右にちょっとだけ開いて。

 両方視界に入るギリギリまで。

 それで、もう一度、2本の指の長さを比べて。

 距離で言えば、左指が顔に近い。

 だから、本来ならさっきと同じように右手の人差し指が短く見えるはずなのだが、そうはなっていないはずだ。

 どうなっている?

 限りなく同じ長さに見えているのではないか。



 その理由は、人間が脳内で指の長さの認識を補正しているからだという。

 人間(ある程度生きてきた人間)は、指の長さを経験的に学び、よく知っている。

 遠くにあっても、どれくらいなのか知っている。

 だから、遠くに見えた時にも、近くで見た時の記憶がその映像を補正して認識している。

 2本の指が近い時は、両方を比較するので、遠近法の認識が強まり、長さの差が認識されるが、

 2本の指が遠い時は、長さの差が認識できなくなる、という。



 つまり、光の反射から見えてくる映像と、

 記憶によって構成されている映像が、

 人間の脳内では、常にミックスされ、編集されていることが分かる。

 この構造はややこしいので、もう少し詳しく考えてみよう。

 まず、人間は物体を「距離」という物差しで認識しようとする。

 小さく見えたら遠くにある。これは遠近法。

 ところが、遠くにあると認識すると、

 「遠くにあるから小さく見えるけど、本当はもっと大きい。なぜなら、以前に近く見たら大きかったから。」という補正が働く。

 本当はもっと大きいという記憶の認識が、脳内で映し出されている映像を補正して、少し大きく認識させるのである。


 小さく見える=遠い → 記憶の補正 → 本当は大きい=大きく補正


 ということなのだ。これを無意識に瞬間的にやっているのだ。

 怖い!!怖いよ!!

 僕が見ている世界は「本当の世界」なの?

 完全に『ソフィーの世界』だ!

 あの本に出会った結果、僕は社会科学の研究で身を立てることになったわけだが、

 それを認知心理学で考え直したら、またあの時のゾワゾワ感が!!

 先生!!!!

テレビ東京「勇者ああああ」:ゲームの記憶をめぐる最高にくだらなくハッピーなバラエティ

2017-04-14 10:23:38 | テレビとラジオ
 昔はゲーム関連番組がどこかで必ずやっていた。

 例えば、「大竹まことのただいま!PCランド」など、ゲームを紹介する番組が結構あった。

 子どもの頃、よく見ていた。

 ゲーム画面というのは、見ているだけで何かワクワクするものがある。

 今の子どもにとっても同じだろうか?



 それが徐々に消えて、いつの間にかゲーム番組というものについて考えなくなった。

 高校生になってからは、ゲーム自体もまったくやらなくなった。

 音楽に熱中するという、どこにでもいる高校生になっていた。

 

 ところが、私は留学を境にもう一度ゲームに目覚めた。
 
 寂しくなった時に、ニコニコ動画のゲーム実況にはまったのである。

 ゲームを買うお金もない、プレイする時間もない(ただし、共用のテレビだけはあった)。
 
 娯楽が奪われた孤独な博士課程の英生活のなかで、ゲーム実況は救いだった。

 「ゲームセンターCX」という番組を知ったのも、その流れからだった。

 よゐこの有野氏がレトロゲームをプレイしてクリアを目指す番組。

 ただそれだけなにに、すごいスポーツを見ているような、そんな感動があった。

 一時期、休載になってしまっていたマンガ『ハイスコアガール』も、レトロゲームへの注目を集める大きな役割を果たした。
 


 そんな流れのなかで、「勇者ああああ」である。

 今、ノリにノッている芸人アルコ&ピース(以下、アルピー)の冠番組だ。

 この番組の良さは、最高にくだらないということだ。

 ゲームにチャレンジするということよりも、ゲームをやって面白かった記憶や空間をもう一度面白がる番組だと言っていい。

 小学生の時にゲームが面白かったのは、ゲームそれ自体の内容だけでなく、ゲームを取り巻く空間や人間関係があったからだ。

 自分ひとりとゲームの空間。

 友人数人とゲームの空間。

 気になる異性とゲームの空間。

 くだらない時間だったけど、頭にこびりついている記憶がある。

 友人が常にとても少なかった私でも、ゲームをめぐる記憶はそれなりに楽しげだ。



 「ゲームああああ」は、学生の時のくだらないノリを大人が本気でやっている。

 そこは一流のテレビスタッフだから、企画は超くだらないが、しかしよく練られている。

 「射撃のプロふたり(クレーン射撃と猟師)がガンシューティングをやったら、どっちが勝つか?」
 
 「ストリートファイター2の波動拳を4人連続で出し続けて相手を倒せなかったら、電気ショック」

 「ゲームが趣味だというアイドルが本当にゲーム好きかどうかを確かめる」

 そこにいちいちアルピーの「ゲームあるある」や「ゲーム物まね」が入ってくる。それがとても懐かしくて、嬉しくなる。

 人間にとって、テレビゲームとは何なのか考えさせられるような、考えさせられないような、そんなくだらなくて最高の番組である。

「でんぱの神神 最上もがが新人マネージャーを本気で大改造」:社会で生きる人になる、ということ

2017-04-09 17:23:18 | テレビとラジオ
 でんぱ組.incの冠番組「でんぱの神神」の企画が面白かった。というか、ちょっとだけ、何かに感動した。

 今回の企画は題名のとおり、でんぱ組のメンバーである「最上もが」が、入ったばかりのマネージャーを改造する話である。

 何故これが面白かったのか説明する。

 まず、理解してもらいたいのが、でんぱ組の特徴。

 メンバーはそれぞれ、引きこもりだったり、夢に破れたりした女の子たち。

 彼女たちは秋葉原のメイドカフェ(みたいなお店)で働き始め、アイドル・グループを結成し、デビューへの道を歩み始めた。

 そのため、メンバーによっては、はじめて社会に出て自立した生活をはじめた人もいる。

 彼女たちにとってアイドルの活動はあくまで仕事であり、それは人間としてとても大事な労働として認識されている。

 極端な話、アイドル活動によってリハビリをしていた捉えるメンバーもいる。



 で、そのなかのリハビリ系のメンバーとも言える「最上もが」が新人マネージャーを改造するというのだから、面白い。

 注目すべきは、最上の両面性だ。

 部屋に引きこもってインターネットゲームをやっていた過去がある一方、グループのなかでは、最も時間に厳しく、真面目で、プロデューサーからは「マネージャーにしたい人」という評価を得ている。

 その彼女が新人マネージャーを改造する動機は何か。

 それは現在の主力マネージャーである「なめこちゃん」の負担を減らしたい、という理由である。

 なめこちゃんは、新人も育成しなければならないし、多忙なでんぱ組の管理もしなければらないし、大変だという。



 新人マネージャーの改造は、まず服装や髪形の改良から始まるのだが、注目すべきなのは、この新人マネージャーと最上の会話である。

 新人くんは若干22歳の男性で、メガネのもさっとした人物。

 その彼が一流の美容室で髪を切ってもらっている間に、最上は言う。

 「まず、挨拶ができるようになるといいねぇ・・・。挨拶ができると、周りも仕事がしやすくなるし、自分もすっきりするからね・・・。」

 社会生活の基本、挨拶!芸能界ではちゃんと挨拶できないと、本当に大変なことになるという挨拶!

 また、最上は仕事を覚えるうえでメモを取る重要性を切々と伝える。

 自分もアイドル活動をはじめて、メモを取ることで上手く学習できたという。

 自分の経験談と教訓をナルシズムなしに静かに理屈で教える、最上もが!

 人に何かを教える最上の雰囲気や挙動は、理屈抜きで萌える!

 でんぱ組や最上の文脈を想起すると、ますます感慨深い!



 新人くんのキャラクターも好感がもてる。

 口数は少ないが、真剣に話を聞く様子。

 メガネも服装も超ダサいけど、メガネを外したら顔が整っていて、身長もまあまあある。

 髪形や服装で、まるで別人物。

 むしろ、今まで何故その格好だったのだ、新人くん(まあ、人のことは言えない私ではある)。

 いや、この変化のギャップ、萌え要素満載!



 一番印象に残ったのは、新人くんが口にした最上の最初の印象。
 
 静かに放たれた「謎でした・・・」の言葉の後に続いたのが、

 「仲間想いで、熱い人でした」との感想。

 新人くん!そこだ!視聴者が聞きたいのは、それだ!

 最上の熱い部分。

 彼女の魅力はそこだ。

 普段冷めていて、やや理屈っぽく、ツンデレな彼女。

 でんぱ組加入後も、メンバーを信用していなかったと口にしていた彼女。

 そうした不信感は、誰かを信頼したい気持ちの裏返し。

 信じ始めたら、仲間想いの熱い人。

 そういうことなのか、新人くん?



 この企画はまだ前編。来週は後編があるぞ!乞うご期待!