それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ごぶごぶ:ロンブー淳の化学

2014-06-26 23:01:04 | テレビとラジオ
テレビ朝日のあるプロデューサーが言っていたこと。

「Sの性質を持っている演者を重ねて使わないようにしている。そうすることで、役割分担がうまくいき、それぞれの個性が生きる。」

なるほど、これは分かりやすい考え方である。

ならば、今の「ごぶごぶ」(MBS・毎日放送)をどう考えれば良いのだろうか?



「ごぶごぶ」は散歩バラエティの一種である。

2007年から放送されており、当初の演者はダウンタウン浜田と東野幸治であった。

ふたりのコンビネーションは素晴らしかった。

基本的にこの番組はノーカットで一時間。

編集されないので、すべての場面を使用する。

これはすごいことである。

要するに、面白い部分だけを切り貼りするということをしない。

だから、沢山の間が出来る。そして、妙に視聴者との間の距離感がなくなる。

普通の演者では、全く面白くない番組になる可能性が高い。

だが、一流芸人のふたりは見事に間を作り、盛り上がりを作り、あるいは作らないというスカしもありつつ、番組を成立させてきた。

スタッフに食ってかかったり、浜田が東野をうまく追い込んだり、逆に東野が浜田を上手にいじったり。とにかくテンポが良いのである。

また、東野には独特の毒気があり、それが見事に浜田の攻撃性やイライラと化学反応を起こしていた。



当初の演者だった浜田と東野は、あえて言えば、SとM。

ところが、東野の突然の降板(情報番組をやることが決まったせいだとか)。

番組ファンの衝撃は大きかった。

そこに登場したのが、なんと、ロンブー淳だったのである。



この起用には、とても驚きがあった。

ひとつは、この番組が基本的に大阪の番組であるのに対して、ロンブー淳が事実上、東京の芸人であるということ。

もうひとつは、浜田がSなのに対して、淳も基本的にSの役割を担ってきたということだ。

冒頭に述べた方程式なら、これはうまくいかないことになる。

ところが、番組は新たなかたちになり、そして、やはり面白いのである。



上手くいっている理由はふたつある。

ひとつは、ライセンスのふたりが準レギュラーで加入したため、彼らがMの役割を担っているからである。

もうひとつは、淳がSではなく、より、かわいらしいキャラクターに落ち着いていることが原因だ。

メインの司会者を張っている時の淳と、「ごぶごぶ」の淳は違う淳だ。

キュートで、自然体で、毒気がない。

いじるべきところで浜田をいじるが、とても落ち着いている。「ロンハー」のようにはギラギラしていない。

最近では、ようやく浜田との関係にも慣れ始めて、安心して見ていられる空間が出来ている。

ふたりのやりとりは、やはり一流のものだ。

かつて以上にポップで楽しい番組になっていると私は感じている。

イギリスだから出来た徹底したリアリティの追求:BBCドラマ「シャーロック」

2014-06-05 20:17:11 | テレビとラジオ
BBCのドラマ「シャーロック」(BSプレミアムで放送)がとにかく面白い。

すでに今回でシリーズ第三弾。

私の妻は何を隠そうシャーロキアン(シャーロック・ホームズをこよなく愛する人)で、サスペンス、ミステリー、ホラーに至るまで、とにかく小説や映画をよく見ている。

私はシャーロック・ホームズをよく知らない。その私に対して、妻はオリジナルの(つまりコナン・ドイル原作の)「ホームズ」と、この「シャーロック」の連続性を上手に説明してくれる。

このBBCのシャーロックは、(妻によれば)原作への愛にあふれており、イギリスでなければ制作できなかったであろう高いクオリティの作品である。



2009年の英米合作映画の「シャーロック・ホームズ」は私も観たことがある。

この映画のホームズはアメリカ的なヒロイズムに彩られ、非常に男性的(マッチョ)であった。

アクションも激しく、謎解きもある。

どちらかというと、インディ・ジョーンズ的なそれだった。

確かに映画としては良く出来ているのだが、ひとつもシャーロック・ホームズ的ではない、と妻は指摘する。



日本人はあまりピンとこないかもしれないが、イギリスは西の端にある島国であり、旧帝国(昔の遺産で食べている国)であり、ロンドンは独特の陰影を放っている。

間違ってはいけない。イギリスは世界の中心ではないし、極端に言えば、もはや田舎なのである。

田舎というのはちょっとヒドイ言い方かもしれない。

私が言いたいのは、イギリスには独特の影と古臭さ、最先端でありながら、どこかで時間が止まってしまった空気感がある、ということなのである。

ロンドンは確かに都会だ。世界でも有数の先進国だ。

だが、都市は巨大な老木のような雰囲気がある。

豊かで力強い反面、爆発的に成長する勢いはない。

シャーロック・ホームズをもし本当に正確に現代に甦らせるならば、このイギリスの、あるいはロンドンの空気感がドラマに、特にその登場人物たちに反映されていなければならない。

なぜなら、そもそもオリジナルのシャーロック・ホームズが、(妻によれば)まさにイギリスの空間そのものに依拠しているからである。

BBCの「シャーロック」ほど現代のイギリスの空気感を楽しめるドラマはない、と私は思う。

私は3年間住んだ、あのイギリスの空気、匂いを、このドラマを見るたびに思い出す。



だが、それ以上に重要なことがある。

それはシャーロック、すなわち主人公の人物像だ。

そもそもオリジナルの主人公は、異常な人物だ。

IQが異常に高く、びっくりするくらい孤独で、独身を貫き、唯一のパートナーはワトソン君。

「組織に属していない」のではない。

「組織に属せない」のだ。

はっきり言って、社会不適応者なのである。

柔術を体得しており強いが、マッチョではない。

そもそもイギリスのジェンダーやヒロイズムは、アメリカのそれとは決定的に異なる。

UKロックのアーティストを見れば、それがすぐに分かる。

線が細くて、中性的で、悪ガキで、妙なところでインテリ(音楽的にだったり、本当に高学歴だったり)。

音楽もなんとなくロンドンの街並みのように薄暗く、世界の色々な音楽のエッセンスがイギリスのフィルターを通した上で混ざっている。

それはともかく、BBCの「シャーロック」の主人公は、オリジナル版の主人公の「異常さ」を的確に現代風にアレンジしている。

これは驚くべき洞察力である。

IQが異常に高くて、孤独で、きわめて中性的。そして、自ら「高機能社会不適合者」を名乗るのである。

オリジナル版と異なるとすれば、BBCのシャーロックは精神的に未完成な側面が強調されるところだろうか。

ある意味で、非常に精神分析的なストーリーになっている(もちろん、謎解きの質の高さはピカイチであることを前提にして!)。

一回90分もあるが、まさに毎回が映画のレベル!



この難しい役どころをベネディクト・カンバーバッチが見事に演じている。

あまりにもこれが見事すぎることは、すでにあまりに多くの人が認めるところとなっている。

カンバーバッチは、これまで演劇をまさにアカデミックに勉強してきた。

それはイギリスの俳優ではごく普通のことだが、その演技の「体系性」こそが日本の役者に決定的に欠けている。

日本の役者は基本的に一種類のキャラクターを一種類の演技で演じる傾向にある。

(この指摘は、桃井かおりのインタビューのなかでの見事な観察と批判に依拠している。詳細は以下のリンクを参照されたい。)
http://jp.blouinartinfo.com/news/story/894679/tao-jing-kaoriting-zhi-sururi-ben-ying-hua-ye-jie-nituiteyu-ru

これに対して、イギリスの役者の演技の懐の深さは目を見張るものがある。

私は映画の吹き替え版が好きだが、しかしBBCの「シャーロック」は絶対に吹き替えで見てはいけない。

イギリスの俳優の声の演技が体感できないからだ。それでは全く無意味!!



また、取り扱われる犯罪も、きわめて現代的。特に情報技術の扱いが素晴らしい。

さらに、奇しくも原作と同じく、「アフガン戦争」がワトソン君を通じて何度も出てくる。

そうだ、もちろん原作のアフガン戦争とは別の、あの「アフガン戦争」だ。

だが、どちらも全くもってイギリスの一種のトラウマの種になっているのである!!

その過去と未来の符号を見事に生かした脚本!



細かいところになるが、今回の第三弾で登場した、ワトソン君の結婚相手メアリー嬢の素晴らしさ!

(妻の解説によれば)メアリー嬢は実際にオリジナル版でも登場する。

しかも、ホームズがモリアーティとの戦いで失踪した後に登場するということで、今回の登場は原作の筋をなぞっている。

私が関心しているのは、メアリー嬢の性格の描写だ。

ストーリーのなかで、メアリー嬢が孤児であることが明らかになるのだが(結婚式の列席者についての会話のなかで)、彼女の周りの人間に対する洞察力と、ワトソンとシャーロックへの深い愛情が(この先のストーリーでどうなるかはともかく)とにかく素晴らしいのである。

メアリーを演じるアマンダ・アビントンの演技力には脱帽せざるを得ない。



ああ、まさにイギリスの空気、歴史、知恵がつまったBBCの「シャーロック」。

イギリスを知るには、まさにうってつけのドラマであることは間違いない。