それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

シャーロッツビルでの衝突を見て:人種主義者が味方を得てしまう世界

2017-08-17 09:54:23 | テレビとラジオ
 アメリカのバージニア州シャーロッツビルで起きた衝突は、全貌が映像に克明に記録され、私もそれをじっくり見たのである。

 →映像はこちら。



 なぜ、アメリカの話を私がここで書くのか。

 それは日本でも早晩、似たような(ただし、これとは別のかたちでの)衝突が起きるからである。



 日本社会がアメリカの人種差別をめぐる衝突を見る時、差別される側への共感が比較的強いのだろうか。

 ツイッター上を見ても、日本語で白人至上主義を称賛・支持する言説はほとんど見つからない。



 けれど、もしメディアが白人至上主義者のひとたちの物語や考えを真剣に取り上げたら、その見方も少し変わるだろうと思う。

 (リンクを張った映像を見てもらえれば、分かるだろう。)

 というのも、白人至上主義者の言っていることや、彼らが感じている世の中の理不尽さは、

 日本のそこらへんにいるオジサンやオバサンのそれと、ほとんど変わらないからだ。



 アメリカの白人至上主義者は、「なぜ自分たちだけが、こんなにひどい目に合っているんだ!」と叫んでいる。

 経済的な苦境、アイデンティティの喪失。彼らには居場所がない。

 そこで飛びつくのは「労働者よ、団結せよ!」ではなく、「アメリカは白人の国だ!」というイデオロギーだ。

 見放された自分たちを国家は救うべきだ、と考える時、彼らは人種主義をその媒介にしようとする。

 アメリカは白人の国 →自分たちは白人 →アメリカは自分たちを救う →他の人種は排除する

 という一連の流れになる。

 具体的で良質な新聞記事として、こちら



 彼の主張を見ると、言っていることが途中まで普通なのだが、急に暴力的になる。

 これは特に不思議なことではない。

 人間、イライラしていれば、暴れたいのだ。

 人間を捨てて、動物として生きたいのだ。

 そのゴーサインを出すのが、人種主義の言説なのである。

 映像を見れば分かるが、有色人種やユダヤ系の人々への罵詈雑言に満ちている。



 しかし、白人至上主義者の多くが、不思議と「自分は人種主義者ではない」と言いたがる傾向にある。

 これは権利だ、自由だ、と主張する。

 つまり、人種主義者が恥ずかしい存在である、という規範からは逃れられず、それを無理やり歪曲することで、自意識を保っている。



 傍から見れば、あからさまな人種主義でも、自分たちではよく分からない。

 人種主義とは、そういうものだ。

 日本社会は、人種主義に対する耐性がほとんどない。



 日本とアメリカで決定的に違うのは、人種主義をめぐる右派エリートの語り方だ。

 伝統的なアメリカの右派エリートは、ナチスドイツや日本をはじめとするファシスト国家と戦い、倒してやった、という強烈なプライドと自負がある。

 そして人種主義は恥ずかしいもので、エリートはそれを表向き否定したり、隠したりすべきである、と考えている。

 人種主義をおおっぴらに言うのは階級の低い、低能な人々だから、自分は関係ないふりをする。

 だから、トランプ政権が白人至上主義を擁護すると、さすがの共和党の政治家たちも強い口調で非難するのである。


 
 ネット上では、本来では「恥ずかしい人種主義」をおおっぴらにできる空間が存在する。

 それは日米どちらも同じだ。

 比較するのは非常に申し訳ないが、それはヲタクが市民権を得た過程と少し似ている。

 本来恥ずかしいものだった言動が、ネットで大勢の味方を発見し、動員する。

 それをメディアが報じ、さらに拡大し、最終的に疑似的な市民権を得る。

 ヲタクと人種主義の違いは、人を傷つけるのが目的か否かである。



 必要なことは何か。

 それは日本でもアメリカでも基本的には同じだ。

 まず、人種主義というものがどういうものか、明確にしなければいけない。

 人種主義者が人種主義ではない、と言い逃れできないようにしないとダメだ。

 さらに、人種主義は恥ずかしいものだ、と何度も何度も政治家やメディアが語り続けなければいけない。

 これは説得の問題ではない。子どもへの読み聞かせのレベルの話だ。

 人種主義は性衝動と同じかそれ以上の欲望であって、理性でどうにかできるような簡単な衝動ではない。

 多重で頑強な制度による縛りがなければ、いとも簡単に暴走して社会を破壊するのである。

牛乳石鹸のCM:疲労した日本社会の欲望の一部

2017-08-16 09:42:12 | テレビとラジオ
 ネット上で牛乳石鹸のCMが話題だ。

 リンクは張らないので、興味のある人は検索して観てください(ここで直接、再生回数を増やすのも、どうかなと思う)。

 なぜ話題かと言えば、その内容が奇妙に刺激的だからだ。



 CMは2分半の結構な長尺。

 主人公は、妻と一人の子どもを持つ男性。

 その日は子どもの誕生日で、朝、妻からケーキを買ってきてと頼まれる。

 さらに、仕事中にプレゼントもお願い、と連絡が。

 しかし、主人公は仕事でミスした後輩をケアするつもりで飲みに行き、帰りが遅くなり、妻に叱られる。

 (ただし、ケーキもプレゼントも買っている。)

 当然、「なぜ誕生日の日に飲みに行くのか?」と、なじられる。

 映像からは、主人公が朝のゴミだし当番も不満に思っている様子が伺える。

 妻もスーツを着ている場面があったから、共働きなのかもしれない。

 度々はさまれる回想シーンでは、主人公の父親は仕事一辺倒で、家族を顧みない人だったらしい。

 父とは違う家族思いの父親になろうとしているが、それでいいのか?と自問自答する主人公。

 主人公は風呂に入って汗を流し、上がってきてから妻に謝る。

 仲直りして、またいつもの毎日に戻る。



 ネット上の色々な批判は、当然、男性の行動の不合理さに向かっている。

 わずかな家事をこなすだけで、そんなにストレス?

 ケーキ買ったのに、飲みに行く?ケーキ、大丈夫じゃないよね?

 飲みにつれて行った後輩は本当に喜んでいるのか?

 回想シーンの父親のどこにあこがれている?本当は暴力を振るいたい?



 男性は鬱の初期症状なのでは?という声も多かった。

 実際、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 病気ではなく、むしろ、家庭生活そのものが嫌いなのかもしれない。

 つまり、彼は子どももそんなに好きじゃないし、育児もやりたくないし、まして家事なんて絶対嫌なのだ。

 妻もそれほど好きじゃないし、なんとなく惰性で家庭生活を続けているけど、まあ、離婚するのはかなり面倒。

 きっかけがあれば不倫もするだろうし、すでに家にもあまり帰りたくないのだ。



 はっきり言って、こういう男性は沢山いると思う。

 男性に限らず、女性でもこういう考えの人はいるだろう。

 この人に対して、規範的にどうのこうの言うのは、ある意味で正しい。

 正しいし、誰かがちゃんと正論を言わないと、社会的にかなりまずいだろうと思う。

 家庭内で暴力を振るったらダメ、育児放棄や虐待もダメ。

 労働は家事も含めて分担しないとダメ。などなど。

 こうした「ダメ」を維持できないと、人間が培ってきた文明はすぐに壊れる(まあ、実際多くの場所で崩壊しているわけだが)。



 ただ、そんな規範をCMですら維持できないほど、日本の社会が疲労しているのは感じとらないとマズいのだろう。

 人間の脳の根底にある、差別や暴力への欲求が、疲労した社会のなかで徐々にむき出しになりつつある。

ダースレイダー『MCバトル史から読み解く日本語ラップ入門』:新しいアートの創造をめぐる話

2017-08-12 13:03:55 | テレビとラジオ
 ダースレイダーの『日本語ラップ入門』が名著だった。 

 この本は、日本語ラップの歴史、なかでもMCバトルの歴史について書かれている。

 MCバトルとは、乱暴に言えば、複数のラッパーがその場でかけられたビートに乗せて自由にラップを行い、勝敗を決する競技である。

 著者は、日本語ラップの第一人者というべきダースレイダー。

 東大中退の面白い経歴を持つダースレイダーは、とにかく解説が巧みである。

 

 しかし、この本は、ラップ好きだけが読んで面白いというものではない。

 ポップアートに関心がある人は、誰でも学ぶことが多いだろう。

 なぜなら、MCバトルの歴史は、新しいアートがどのように創造されてきたのかを示す典型的な例だからだ。



 本書のMCバトルの歴史のなかで一番興味深いのが、「どうやってパフォーマンスの優劣を決めるか」という問題である。

 本書の白眉は、審査基準の変遷を見事に解説し、どういう要因で審査基準がつくられてきたのかを克明に記している点だ。

 これは長年、現役のラッパーでありながら、同時に運営も行ってきた、多彩な才能を示すダースレイダーにしか出来なかったことだと思う。



 具体的なことは、本書を実際に読んでもらいたいが、本書の話を無理やり勝手に抽象化してみると非常に面白い。

 MCバトルの審査基準は、乱暴に言えば、たとえば次の幾つかの要素が絡み合いながら、ゆっくりと形成されてきた。(と、私は本書を読んで考えた。)

 1.ラッパーによるその場のパフォーマンスの説得力

 2.ラッパーがこれまで行ってきた活動の説得力

 3.審査員の知見

 4.観客が共有している知識・リテラシー

 5.上記のアクター全員が共有する場の文脈



 ラッパーがラップをした時に格好良ければ、説得力があれば、当然点数が高い。

 しかし、それがその場だけの嘘にとどまると、格好悪いし、説得力がない。

 だから、普段からそのラッパーがどういう活動を行い、どういう生活をしてきたのか、というリアルな部分もMCバトルには影響する。



 けれども、審査員が何を評価するかは、審査員によって違ってくる。

 新しい種類のラップが登場してしまうと、審査員は戸惑い、高い点数をつけることに及び腰となる。



 また、観客の知識も重要で、歴史上、観客が審査員の審査に不服を示すことも度々あった。

 あるいは、観客が審査する場合には、観客の知識が問われる。場合によっては、観客の期待や先入観が審査をゆがめることがある。



 そして、最も重要なのが、「MCバトル」という場において、何が共有されているか、ということだ。

 これまでの試合をどれだけ知っているか。それぞれのMCがどういう振る舞いをしてきたのか。何がタブーで、何が正当なのか。



 審査基準を客観的に固定することは必ずしもできない。

 韻が重要なのか、フロウが重要なのか、アンサーが重要なのか、リアルが重要なのか、などなど、その場、その時代で変わってくる。

 では、審査基準を考えることは不可能か?それは常に恣意的か?

 それは違う。

 重要なことは、ダースレイダーが示したように歴史を知ることだ。

 審査基準の変遷を知ることだ。

 それを知ることで、日本語ラップがどこから来て、どこに向かっているのかが分かるのだ。

 逆にそれを知らなければ、昔の失敗を繰り返すことになる。



 これはラップだけの問題ではない。

 あらゆるポップアートが直面する問題だ。

 アートに優劣をつける、ということは非常に難しい。

 しかし、しばしばそれが求められる。

 なぜなら、それが新しいアートシーンを発展させる機動力になるからだ。

 そうした一般的な問題を考えるうえでも、本書は本当に重要で、分かりやすく、ためになる本だ。

須藤凜々花の「ドイツで博士号」について、ちょっとだけ真剣に検討してみる:リアルな選択肢の提案

2017-08-08 10:36:57 | テレビとラジオ
 試験の採点と入力が終わった今日この頃。

 まったく暇なわけではないが、私も社会科学の研究者の端くれとして、

 アイドルさんの「ドイツで博士号」という目標について、少しだけ考えてみたい。



1.ドイツで博士号、ならば学士と修士はどこにする?

 まず、留学一般のことを少しだけ書いておく。

 自分の周りにも、非常に少ないながらドイツで博士号を取った人がいる。

 その人の専門は、いわゆる文学部の哲学ではないのだが、限りなくそれに近い分野だった。

 その人の場合、東大の学士と修士を取った後で、ドイツの博士号だった。



 ドイツで博士号をとるのは非常に難しい。

 なぜなら、驚くほど高いドイツ語のレベルと研究水準を要求されるからだ。

 にもかかわらず、ドイツで博士号をとっても、アカデミアで職を得るのは難しい。

 ドイツの場合、大学は飽和状態で、そこで研究職に就くのは至難の業になっており、ドイツから英米圏に人材が流出しているのが現状である。

 私のイギリスでの指導教官もドイツ人だったが、彼女もそうした人材のひとりだった。

 結局、分野にもよるが、文系の研究領域の場合、海外の大学で就職するなら、そもそも英語圏の方が有利なのかもしれない(あくまで憶測)。

 しかも、ドイツでの博士号は、日本で評価が高いかと言うと、必ずしもそうでもない。

 これは明らかに不当なのだが、取得が劇的に難しいわりに就職の際に評価されないということもあって、

 わざわざドイツで博士号を取得する人は少数にとどまっている。



 そういう現実があるとういことを理解したうえで、それでもドイツで博士号を取りたいのであれば、どうすればいいだろう。

 一般の人は、もしかしたら、ドイツの大学で学士号、修士号を取得すればいいと考えるかもしれない。

 ただ、これは最高レベルの「いばらの道」である。

 というのも、ドイツ関係の研究をしている人の多くが言うには、

 ドイツで学士号をとるには、驚くほど高いレベルのドイツ語が要求されるそうで、

 まだ大学院から留学した方がマシ、ということだった。



 こうなると、問題はどうやってドイツ語のレベルを上げるか、にかかっている。

 日本の大学に入って、ドイツ語を徹底的に鍛えるのか、それとも語学学校で鍛えるのか。

 難易度で言えば、日本の有名な大学に学部から入学して、そこで基礎的な学力と語学力を付けるのがより良いだろう。



2.哲学はどこの学部なのか

 では、どこの学部・修士が良いのだろうか。

 そのことを考える前に、そもそも哲学を勉強したい人は、どこの学部に入れば良いだろうか。



 かつて高校生だった私も勘違いしていたのだが、哲学と一口に言っても、実は選択肢が色々ある。

 確かに、文学部の哲学科というものが存在する。

 日本政府が進める大学改革で、もっとも攻撃の的になっているでおなじみの文学部の哲学科。

 けれど、一般の人が哲学だと捉えるような「思想的な研究」であれば、文学部に限られない。



 経済学部には、経済思想の研究者がいるし(ちゃんとした学部なら)、

 法学部なら、法哲学や政治思想の研究者がいる(ちゃんとした学部なら)。

 これらの研究分野は、おまけではない。

 哲学・思想全体の潮流で考えれば、文学部哲学科の方が絶滅危惧種だろう。

 人文学の研究領域が世界的に衰退しているから、その点は分かってもらえると思う。

 ただ、社会科学と言えども、思想分野全体がかなり衰退していることも否めない。



 それはともかく、要するに大事なことは、哲学に関心がある場合、

 さらに突き詰めて、どういう哲学に興味があるのか明らかにする必要があるのだ。

 それによって学部を決定し、そこからどの大学が良いか決めることが有効である。



3.リアルな選択肢

 そうした以上の話をすべて踏まえたうえで、本当にリアルに考えるなら、

 AOとか一芸で有名私大に入って真剣に勉強して、

 大学院の修士で、さらに本格的な大学に移動し、

 そこからドイツの博士課程に入るのが、もっとも可能性の高いキャリアパターンではないか、と私は思うけれど。。。



 蛇足ではあるが、たまに結婚と進学をごちゃごちゃ言っている人を見かける。

 学問はどんな人にも開かれている。

 既婚者だろうが、子どもがいようが、関係ない。

 定年退職者でも元犯罪者でもアイドルでも誰でも、学問は自由だ。

 日本の社会は、学生=20歳前後の独身者、と勝手に決めがちだが、そんな必要はない。

最上もが脱退に寄せて:あまりにもくだらない「不仲説」を棄てて、社会と個人の物語として受け止める

2017-08-07 10:32:01 | テレビとラジオ
 でんぱ組.incファンの末端中の末端である私が何を書く必要があるのか、と自分でも思う。

 ただ、大事なことなので、少しだけ整理しておきたいのである。



 多くのファンにとって最上の脱退は、おそらくそれほど不思議なことではない。

 しかし、それは「メンバーとの不仲」とか、そういう安直で愚かな分析を共有しているからではない。

 その最大の理由は、「最上もが」が『でんぱ組.inc』という「会社」のなかで、まだ自分を持て余している様子だったからだ。



 けれど、それは最上に特有のことではない。

 僕がイギリスの大学院にいた時、20代後半から30代中盤までの人たちに沢山出会った。

 日本人に限らない。世界中のその年代の人たちに出会った。

 みんな、なるべき自分を探していた。もちろん、僕もそうだった。

 

 人生は長い。

 20代前半で残りの人生をすべて決めるのは、あまりにも苦痛だ。

 キャリアアップもしたいし、もっと色んな世界に出会いたい。

 あるいは、もっと自分のペースで、自分のリズムに合った仕事をしたい。

 そう考えるのは、ごく自然なことだ。



 20代後半になれば、転職もするし、留学もする。

 結婚することもあれば、離婚することもある。

 けれど、それはごく普通のことで、最上もががそうしたごく当たり前の選択をしたとしても、何の不思議もないのである。



 『でんぱ組.inc』とは、なるほどよく言ったものだ。

 「.inc」とはつまり登録された法人、要は会社なわけで、例えば、アマゾンも正式にはAmazon.com Inc.なのである。

 このグループは結構な大人のグループで、多くのアイドルグループが苦しむような、いわゆる10代の思春期的なトラブルで揉める存在ではもはやない。

 それぞれのメンバーが仕事として、アイドル活動を行っている。それ以上でも、それ以下でもない。



 その上で、このグループの面白さは、それぞれのアイデンティティをめぐる物語のなかでの成長や、コンプレックスの克服だった。

 社会に出て社会的な存在として生きなければいけない人間の難しさを、彼女たちは代表してきた。

 そして、もうそれぞれ立派に社会人になった。

 そこで待ち受けている次の物語は、先から書いているようなキャリアアップや人生の見直しなわけである。



 だから、最上もがが脱退したことも含めて、まだ『でんぱ組.inc』の物語は続いているのだ。

 それはつまり、誰もが体験する社会との関わりの物語だ。

 そこには強靭な普遍性がある。