アメリカのバージニア州シャーロッツビルで起きた衝突は、全貌が映像に克明に記録され、私もそれをじっくり見たのである。
→映像はこちら。
なぜ、アメリカの話を私がここで書くのか。
それは日本でも早晩、似たような(ただし、これとは別のかたちでの)衝突が起きるからである。
日本社会がアメリカの人種差別をめぐる衝突を見る時、差別される側への共感が比較的強いのだろうか。
ツイッター上を見ても、日本語で白人至上主義を称賛・支持する言説はほとんど見つからない。
けれど、もしメディアが白人至上主義者のひとたちの物語や考えを真剣に取り上げたら、その見方も少し変わるだろうと思う。
(リンクを張った映像を見てもらえれば、分かるだろう。)
というのも、白人至上主義者の言っていることや、彼らが感じている世の中の理不尽さは、
日本のそこらへんにいるオジサンやオバサンのそれと、ほとんど変わらないからだ。
アメリカの白人至上主義者は、「なぜ自分たちだけが、こんなにひどい目に合っているんだ!」と叫んでいる。
経済的な苦境、アイデンティティの喪失。彼らには居場所がない。
そこで飛びつくのは「労働者よ、団結せよ!」ではなく、「アメリカは白人の国だ!」というイデオロギーだ。
見放された自分たちを国家は救うべきだ、と考える時、彼らは人種主義をその媒介にしようとする。
アメリカは白人の国 →自分たちは白人 →アメリカは自分たちを救う →他の人種は排除する
という一連の流れになる。
具体的で良質な新聞記事として、こちら。
彼の主張を見ると、言っていることが途中まで普通なのだが、急に暴力的になる。
これは特に不思議なことではない。
人間、イライラしていれば、暴れたいのだ。
人間を捨てて、動物として生きたいのだ。
そのゴーサインを出すのが、人種主義の言説なのである。
映像を見れば分かるが、有色人種やユダヤ系の人々への罵詈雑言に満ちている。
しかし、白人至上主義者の多くが、不思議と「自分は人種主義者ではない」と言いたがる傾向にある。
これは権利だ、自由だ、と主張する。
つまり、人種主義者が恥ずかしい存在である、という規範からは逃れられず、それを無理やり歪曲することで、自意識を保っている。
傍から見れば、あからさまな人種主義でも、自分たちではよく分からない。
人種主義とは、そういうものだ。
日本社会は、人種主義に対する耐性がほとんどない。
日本とアメリカで決定的に違うのは、人種主義をめぐる右派エリートの語り方だ。
伝統的なアメリカの右派エリートは、ナチスドイツや日本をはじめとするファシスト国家と戦い、倒してやった、という強烈なプライドと自負がある。
そして人種主義は恥ずかしいもので、エリートはそれを表向き否定したり、隠したりすべきである、と考えている。
人種主義をおおっぴらに言うのは階級の低い、低能な人々だから、自分は関係ないふりをする。
だから、トランプ政権が白人至上主義を擁護すると、さすがの共和党の政治家たちも強い口調で非難するのである。
ネット上では、本来では「恥ずかしい人種主義」をおおっぴらにできる空間が存在する。
それは日米どちらも同じだ。
比較するのは非常に申し訳ないが、それはヲタクが市民権を得た過程と少し似ている。
本来恥ずかしいものだった言動が、ネットで大勢の味方を発見し、動員する。
それをメディアが報じ、さらに拡大し、最終的に疑似的な市民権を得る。
ヲタクと人種主義の違いは、人を傷つけるのが目的か否かである。
必要なことは何か。
それは日本でもアメリカでも基本的には同じだ。
まず、人種主義というものがどういうものか、明確にしなければいけない。
人種主義者が人種主義ではない、と言い逃れできないようにしないとダメだ。
さらに、人種主義は恥ずかしいものだ、と何度も何度も政治家やメディアが語り続けなければいけない。
これは説得の問題ではない。子どもへの読み聞かせのレベルの話だ。
人種主義は性衝動と同じかそれ以上の欲望であって、理性でどうにかできるような簡単な衝動ではない。
多重で頑強な制度による縛りがなければ、いとも簡単に暴走して社会を破壊するのである。
→映像はこちら。
なぜ、アメリカの話を私がここで書くのか。
それは日本でも早晩、似たような(ただし、これとは別のかたちでの)衝突が起きるからである。
日本社会がアメリカの人種差別をめぐる衝突を見る時、差別される側への共感が比較的強いのだろうか。
ツイッター上を見ても、日本語で白人至上主義を称賛・支持する言説はほとんど見つからない。
けれど、もしメディアが白人至上主義者のひとたちの物語や考えを真剣に取り上げたら、その見方も少し変わるだろうと思う。
(リンクを張った映像を見てもらえれば、分かるだろう。)
というのも、白人至上主義者の言っていることや、彼らが感じている世の中の理不尽さは、
日本のそこらへんにいるオジサンやオバサンのそれと、ほとんど変わらないからだ。
アメリカの白人至上主義者は、「なぜ自分たちだけが、こんなにひどい目に合っているんだ!」と叫んでいる。
経済的な苦境、アイデンティティの喪失。彼らには居場所がない。
そこで飛びつくのは「労働者よ、団結せよ!」ではなく、「アメリカは白人の国だ!」というイデオロギーだ。
見放された自分たちを国家は救うべきだ、と考える時、彼らは人種主義をその媒介にしようとする。
アメリカは白人の国 →自分たちは白人 →アメリカは自分たちを救う →他の人種は排除する
という一連の流れになる。
具体的で良質な新聞記事として、こちら。
彼の主張を見ると、言っていることが途中まで普通なのだが、急に暴力的になる。
これは特に不思議なことではない。
人間、イライラしていれば、暴れたいのだ。
人間を捨てて、動物として生きたいのだ。
そのゴーサインを出すのが、人種主義の言説なのである。
映像を見れば分かるが、有色人種やユダヤ系の人々への罵詈雑言に満ちている。
しかし、白人至上主義者の多くが、不思議と「自分は人種主義者ではない」と言いたがる傾向にある。
これは権利だ、自由だ、と主張する。
つまり、人種主義者が恥ずかしい存在である、という規範からは逃れられず、それを無理やり歪曲することで、自意識を保っている。
傍から見れば、あからさまな人種主義でも、自分たちではよく分からない。
人種主義とは、そういうものだ。
日本社会は、人種主義に対する耐性がほとんどない。
日本とアメリカで決定的に違うのは、人種主義をめぐる右派エリートの語り方だ。
伝統的なアメリカの右派エリートは、ナチスドイツや日本をはじめとするファシスト国家と戦い、倒してやった、という強烈なプライドと自負がある。
そして人種主義は恥ずかしいもので、エリートはそれを表向き否定したり、隠したりすべきである、と考えている。
人種主義をおおっぴらに言うのは階級の低い、低能な人々だから、自分は関係ないふりをする。
だから、トランプ政権が白人至上主義を擁護すると、さすがの共和党の政治家たちも強い口調で非難するのである。
ネット上では、本来では「恥ずかしい人種主義」をおおっぴらにできる空間が存在する。
それは日米どちらも同じだ。
比較するのは非常に申し訳ないが、それはヲタクが市民権を得た過程と少し似ている。
本来恥ずかしいものだった言動が、ネットで大勢の味方を発見し、動員する。
それをメディアが報じ、さらに拡大し、最終的に疑似的な市民権を得る。
ヲタクと人種主義の違いは、人を傷つけるのが目的か否かである。
必要なことは何か。
それは日本でもアメリカでも基本的には同じだ。
まず、人種主義というものがどういうものか、明確にしなければいけない。
人種主義者が人種主義ではない、と言い逃れできないようにしないとダメだ。
さらに、人種主義は恥ずかしいものだ、と何度も何度も政治家やメディアが語り続けなければいけない。
これは説得の問題ではない。子どもへの読み聞かせのレベルの話だ。
人種主義は性衝動と同じかそれ以上の欲望であって、理性でどうにかできるような簡単な衝動ではない。
多重で頑強な制度による縛りがなければ、いとも簡単に暴走して社会を破壊するのである。