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それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

東京五輪のボランティア:愛国と少子高齢化と「おもてなし」のドラマ

2018-06-27 08:46:22 | テレビとラジオ
1.ボランティアってどういうもの?

 東京五輪のボランティアの募集が告知されている。

 もうすでにこの時点で、喧々諤々やって楽しんでいる人が沢山いる。

 私もその輪に加わろうと思って、このブログを書いている。

 そこでとりあえず、ボランティアの募集要項や、「ほぼ日」に出たボランティア担当者のインタビューなどを読んだ。



 ネット上の議論で目立つのは、このボランティアが集まらないのではないか、という危惧だ。

 予定では、11万人を集めることになっている。

 この数字が多いのかどうなのか、実際のところ、よく分からない。

 日本中でボランティアをやりたい人で、五輪中に休暇が取れる人を集めた場合、11万人になるのか。



 おそらく五輪委員会では、すでに事前のアンケートから応募者数を概算しているだろうと推察する。

 そのうえで、できるかぎり広告戦略を展開していくのだろう。

 数値目標については、必ずプランA(11万)だけでなく、BやCもあるはずだ。

 集まらなかった場合に選択する方策も事前に考えているだろう。



 もうひとつ注目が集まっているのが、その業務内容だ。

 通訳、救命、ドーピング検査補助、公式記録の入力などなど、専門的な知識が必要そうなものが並んでいる。

 批判する人たちは、素人に任せて大丈夫なのか、あるいは専門家を無償で働かせるなんて虫が良すぎるじゃないのか、と指摘する。



 こうやって考えると、今までのオリンピックはどうやってやったんだ?という疑問が出てくる。

 実際、ここ数年のオリンピックは、ボランティアをめぐって色々問題が出ていた。

 なにせ、SNSが発達してしまっているから、問題点などすぐに広まる。

 とはいえ、祭典そのものが破たんしたわけではないから、色々な人たちの犠牲のうえで、何とか成り立ったのであろう。

 だから、日本でもできるに違いない、というポジティブシンキングには、一定の理がある。



2.右から左まで「やりたくない」

 何より面白いのは、ネットの記事では右から左まで、ほとんど誰も「私はやるぞ!」「楽しみだ!」と言っていない。

 やたらポジティブなのは「ほぼ日」のスタッフさんくらいで、どういうわけかネトウヨの方々まで消極的姿勢である。



 五輪ボランティアは、結局のところ、誰かを攻撃する仕事ではないし、マウンティングの材料にもならない。

 だから、攻撃的な意味で「愛国」を唱える人にとっては、たまった鬱憤を晴らすものにはならないかもしれない。

 ネトウヨはネットを捨て、町へ出て、普段の生活や仕事でたまった沢山の鬱憤を無償であるボランティア活動で解消できるのか。

 普段の仕事と同じように、誰かに苛められたり、上手くいかないだけの経験になるか。

 それとも、自分が誰かの役に立っているという、超ポジティブな気持ちになれるのか。

 これは非常に面白い問いだ。ぜひとも多くのネトウヨさんたちに試してもらいたい。



 おそらく、まだ五輪ボランティアと愛国が十分に結びついていない。

 なるほど、愛国を考えるうえでは、これも問題だ。

 ナショナリズムとボランティアを結び付けることは、ある意味、最終手段だが、

 背に腹変えられず、委員会がこれをテレビで大々的にやったら、ものすごいことになるだろう。

 CMを電通がつくって、そこにゆずとかRadの歌を流して、政治的な発言で知られるタレントさんを沢山出せば、何かヤバいものが完成しそうだ。



3.ボランティアから見えてくるだろう本質

 まあ、そういう空想はさておいて、ボランティアの問題から見えてくるのは、日本の社会の基礎体力のヤバさだろう。

 もし沢山の人がボランティアに応募してくるのであれば、正直、私はすごく安心する。

 はっきり言って、ボランティアに応募できる人には、心と体の余裕がある。

 休暇もとれて、体力や気力もあって、金銭的に困窮していない。



 現役世代は、大半が企業に搾取され、毎日疲弊し、場合によって子育てで五輪休暇どころではない。

 日本の場合、「市場」という領域がやたらめったら大きい。

 会社以外の世界で自己実現しようという考えを持つ人が、非常に少ない。

 たとえ会社以外の世界の自己実現を重視している人でも、公共的なものではなく、きわめて私的(つまりヲタク的)なものが多い。

 こうした日本の場合、ボランティアが魅力的に映るのは、一体誰にとってだろうか。



 そう考えると、日本の場合、大学生がボランティアの主力になるかもしれない。

 昨今の大学生は非常に忙しいが、多くの場合、体力もあるし、スポーツや国際的なものに関心がある人も多い。

 五輪時の大学生を全部かき集めると、少なくとも250万人にくらいにはなるだろう。

 しかし、4年生は就活だから省くと、180万人くらいになる。

 それから、全国の大学生というわけにはいかない。

 主に東京の大学生だとすると、東京には全国の大学生のおよそ3割がいるから、主力になるのは60万人くらいか。

 活動できそうな大学生のおよそ2割が参加すると、11万人のボランティアは満たされることになる。

 しかし、2割は不可能なので、絶対に社会人やリタイアした人たちが必要になる。

 日本の場合、70歳以上の人口は2300万人くらいいるから、大学生よりも圧倒的に期待できる。

 高齢者中心のボランティアに大学生が加わり、ほんのちょっとだけ現役世代が入ると考えるのが、まあ妥当なところだろう。



 さて、70歳以上を中心とした組織が猛暑の炎天下のなか、果たして死者を出さずにどこまで頑張れるのか?

 そして、英語やフランス語、スペイン語やらロシア語など多彩な言語が飛び交うなかで、どこまでグローバルに振る舞えるのか?

 すでにドラマの舞台はセットされているのだ!

 君たちの「おもてなし」の精神、「日本すごい」の精神の発露の時がきたのだ!



 まさに日本社会の基礎体力を象徴することになるであろう、ボランティア集団が一体どういう構成になるのか、

 これは日本の実態と未来を考えるうえで、きわめて重要なメルクマールになる。

 だから、この話は面白く、目が離せないのである。

アマゾン・プライム「有田と週刊プロレスと」:話の熱量と技術が心を動かす

2018-05-23 08:44:00 | テレビとラジオ
 ゴールデンのバラエティ番組の場合、台本に沿って大人数の人たちが流れをつくっていくことが多いが、

 昨今では、逆に一人の人間がじっくり自分の話したいことを話す、という番組も非常に熱い。



 いとうせいこうとユースケ・サンタマリアのトーク番組「オトナに!」や、

 惜しくも終了してしまったレキシとダイノジ大谷の情報バラエティ「アフロの変」などは、まさにそういう番組だった。

 ラジオで言えば、TBSラジオの「ウィークエンド・シャッフル」、その後継番組「アフターシックス・ジャンクション」なんかも、そういう番組だ。



 そのなかで、非常に評判が良かったのが、アマゾン・プライムの「有田と週刊プロレスと」である。

 くりぃむしちゅーの有田が、雑誌「週刊プロレス」のバックナンバーを一冊与えられ(どの号か有田は本番まで知らない)、

 そこから、一人のゲストとともに、プロレスについて語る番組だ。

 なぜ、この番組がそんなに面白いのか。

 重要なのは、ゲストの大半がプロレスを知らない人だということ。

 この番組では、有田がその人のためにプロレスの文脈を説明する。

 この番組を面白くしているのは、その説明における有田の熱量と話術が、信じられないほど凄いからだ。



 プロレスに興味がない人、プロレスを知らない人ほど、この番組に激はまりすること間違いなしである。

 有田の説明は、何より分かり易い。

 黒板を使って、丁寧に説明してくれる人間関係と歴史。

 凄まじいクオリティの選手のモノマネ。

 その場にいたかと錯覚するほどの、臨場感あふれる場面描写。

 プロレスの試合映像は一切放送されない。

 この番組の肝は、有田の話術一本。



 アシスタントの倉持明日香(元AKB)のプロレス愛と、多すぎない知識量も見事!

 プロレス弱者のゲストのチョイスや、週刊プロレスのバックナンバーのチョイスも、なるほどと唸ってしまう。

 番組スタッフのプロレス愛も半端ないことが分かる。



 しかし、何よりプロレスそのものが持つ魅力も忘れてはならない。

 暴力が嫌いな人、体育会系が苦手ない人。大丈夫。それもこの番組は面白いはず。実際、僕もそうだから。

 プロレスのポイントは、「本当のルール」がきわめて不明瞭だということにある。

 どういうことか。



 まず、プロレスの場合、勝敗はどこでいつ決まるのか?

 試合のなかで?試合の前?

 試合の前だとしても、それはどういう政治力学で決まるのか。

 スター選手は、どういう基準を満たすとスターになるのか。

 選挙をするわけでもない。試合の勝敗だけでも決まらない。

 人事を決める人たちのなかでの評価と、ファンの評価も一致しない。



 次に、プロレスの「良い試合」とは何か?

 技が多い?派手?いや、そういうわけでもない。

 お互いが技を全力で受け合い、掛け合う試合が良い試合?

 説得力のある試合こそ良いという人もいる。説得力って何?

 

 暗黙のルールで「本当に」蹴ってはいけない場所や、かけてはいけないタイミングや技があるらしいのだが、

 それはプロレスを沢山見ないと分からない。



 で、何が言いたいのか。

 プロレスには、人間が社会のなかで直面するあらゆる現象が凝縮されている。

 複雑で不透明で、勝敗や人事には多様な諸力がいちいち作用している。

 リングの世界と、裏の世界。メディア上の世界と、そこに描かれない世界。

 嘘と本当が混ぜこぜになっている。しかし、それでもリングで選手たちが傷つき、命がけで試合をしていることは本当。



 この虚実ないまぜの世界に垣間見える、誠実さや途方もない努力は驚くほど美しく、見るものを勇気づけてくれる。

 プロレスの世界で評価されるのは、肉体的な努力だけではない。

 社会的関係を司る努力もそれ以上に重要だ。

 それゆえに、様々なプロレス専門用語が芸能界の専門用語となり、テレビを通じて一般人が口にする普通の言葉になっている。

 たとえば、「ガチ」とか、「しょっぱい」(=つまらない)とか。

 あるいは、AKBのシステムも明らかにプロレスの影響を受けているようにしか見えない(実際、秋元さんは大のプロレス好き)し、

 ももクロのパフォーマンスにもプロレスの影響が色濃い。

 

 要するに、プロレスは教養になってしまっている。

 そして、それに値するほどの内容だということ。

 もしそれを知りたいのなら、そう、有田のこの番組が何よりおすすめなのだ。

誰もプロフェッショナルなんか知らないし、知りたくもない。

2018-05-22 13:49:46 | テレビとラジオ
 昨日、ある登山家の方の訃報を聞き、そして彼についての登山家コミュニティの意見を知って、なんだかモヤモヤしている。

 登山家コミュニティの意見では、その方の挑戦は、大学野球の選手がメジャーリーグのホームラン記録に挑戦するようなものだから、

 登山という試みの性質上、生命を落としてしまうかも、という話だった。そして、実際にそうなったという話。

 テレビなどのマスメディアや、よく分かっていないスポンサーが彼を死に追いやったという意見もあった。



 テレビというメディアはすごく怖い。

 その怖さは、しばしば人間を手段にして、何でもやってしまうところにある。

 台本をつくって、必要な部品として人間をかき集める。

 芸人さん、アイドル、文化人などなど。

 その文化人の枠内に、研究者が存在している。

 社会科学の研究者、自然科学の研究者、人文学の研究者、そして(研究をしていないという意味で)研究者ではないが、「研究者」という肩書きで出てくる人たち。



 番組に研究者という部品が必要になった時、テレビ局はその部品が純正のものか、それとも模造品なのか気にしない。

 それよりも、番組の台本にぴったりはまる部品がほしい。 

 研究者でも「もどき」でも、収録で話したことは切り刻まれて、ちょうど良い部品に加工され、番組の一部となる。

 民放のバラエティ番組になってしまえば、もはや特定の役割を演じさせられ、台詞を言わされてしまう。

 そういうわけで、多くの大学教員にとって、テレビに出ることはリスクとなる。

 それでもテレビに出る人は、使命感のある人か、(メディアの扱いに長けた)相当な実力者か、天真爛漫な人か、承認欲求が非常に強い人かのいずれかである。



 (研究コミュニティにいないという意味で)一般の人々は、テレビに出ている専門家が、専門家コミュニティでどれほどの存在なのか知る由もないし、知りたくもない。

 何なら「専門家コミュニティは、鼻につく貴族のような連中」ということで、目の敵にしている人もいる。

 昨今、エリートや専門家といった存在は、とにかく攻撃の的とされ、一般人の感覚こそ優位しており、彼らは嘘つきで既得権益を不公正に消費している悪者であるとされがちである。

 これは日本に限らず、先進国であれば、ほぼすべての地域で類似の現象が見られる。

 自然科学も社会科学も同じで、極端な話、近年では「地球は平面である」という主張を繰り広げて、専門家コミュニティに戦いを挑んでいる人たちもいるという。

 ここまでではないとしても、私たちはマイナスイオンをはじめ、無数の似非(自然)科学に楽しく翻弄されている。



 人間個人の世界観と物語、

 大企業が打ち出したい世界観と物語、

 政治政党が打ち出したい世界観と物語、

 マスメディアが打ち出したい世界観と物語、

 たくさんの欲望をかなえてくれる、似非専門家。それはまるでドラえもん。

 本当か嘘かなんて、どうでもいい。

 僕たちが欲しいのは希望であり、夢であり、愛だ。マッチ売りの少女が束の間みるような、暖かい世界。

 似非専門家は、少女が消費するマッチ。

 輝きを放って、そして、消えた。

「赤い公園に石野理子が加入」のニュースのことばかり考えている

2018-05-07 10:34:48 | テレビとラジオ
 仕事が忙しくて、書くエネルギーを全部そっちにもっていかれていた。

 GWは遊んだり休養したりできたので、ようやくエネルギーがまた、たまってきた。

 そんななかで聞こえてきたのが「赤い公園に石野理子が加入」のニュースだった。

 それからしばらく、僕はそのことばかり考えている。



 「赤い公園」は公園の名前ではなく、バンド名である。

 元々は女性4人のロックバンドだったのだが、昨年末、ボーカルの佐藤千明が脱退し、3人になっていた。

 赤い公園の楽曲は、独特の熱量がある。

 歌詞はかわいらしい一方で、情念に満ちていて、

 曲はポップである一方、どこか捻じれている。

 誤解を与えそうなイメージで言うと、ある意味で「エヴァンゲリオン」みたいな感じ。

 つまり、外見はロボットっぽいんだけど、実質的には、よく分からないグロテスクな生命体に、それらしいフォームを与えたみたいなこと。

 ひとつひとつの楽曲は凄まじい衝動や情念が基礎になっているものの、巧みなポップスの方法論で、きっちりと仕上がっている。



 絶妙なバランスなのは、楽曲だけではない。

 赤い公園の世界観は、ギターの津野米咲による作詞・作曲と、佐藤のゴージャスかつキュートなボーカルが混ぜ合わさることで、絶妙なバランスで成り立っていた。

 佐藤のボーカルの技術は凄まじい。キャリアを積むごとに、年々パワーアップし、現在、最高地点を更新している最中だ。

 彼女の声や歌唱は、時にイノセントな少女のようでもあり、時に妖艶な女性のようでもある。

 歌いあげ過ぎない一方で、過不足なく楽曲の情念も体現する。

 そのボーカルをギター、ベース、ドラムが有機的に混ざり、支える。

 特に津野のギターは変幻自在で、動きが複雑だ。

 正確には「津野文法」みたいなものがあって、それに沿ってコードなりリフなりを鳴らしている。

 それが年々拡張し、ますます自由になっている。



 こうしてメンバーが全員著しく成長して完成したのが、2017年のアルバム『熱唱サマー』だった。

 まさに名盤としか言いようがない、恐ろしいアルバムで、技術も情念もポップセンスも、すべてが過剰なのだ。 

 この過剰さゆえに、アルバムの香りを「良い匂い!」と言うのか、それとも「臭ッ!」と言うのかは、人それぞれだと思うが、

 僕は、誰にとっても聴けば聴くほど、味わいがあるアルバムだと思っている。



 この『熱唱サマー』の発表と同時に、ボーカルの佐藤の脱退が明らかになった。

 多くのJロックのリスナーたちが一体、赤い公園はどうなるのか興味津々で見ていた。

 そして、先日のロックフェスで、まさかの新ボーカル加入のニュースである。



 新ボーカルは石野理子。

 この間、惜しまれながら解散したばかりのアイドルネッサンスのメンバーだった人物だ。

 アイドルネッサンスは、アイドルのなかでも異彩を放っていた。

 何と言うか、青春のイノセンスを徹底追求したようなグループだった。

 だから、早期の解散は、すごく理に適っているのだが、ファンに与えた衝撃も凄まじいものだった。

 何せ、これから数年の間に大ブレイクしても、おかしくなかったからだ。



 そのなかで、一際力強い、芯のある、エッジの効いたボーカルで目立っていたのが、石野だった。

 石野は、普段の言動も思春期特有の危うさをはらんだ人物で、

 それは彼女の衝動や情念の強さをよく示していると、僕は解釈していた。

 石野の歌も表情も、危なっかしい言動も、すべてを含めてスター性があった。

 グループが解散すると知ったとき、多くのファンが石野の何らかのかたちでの音楽活動の継続を望んだ。

 彼女の才能は、埋もれさせるにはあまりにも惜しい!と。



 で、まさかの赤い公園への加入である。

 おそらく、日本のポップスをよく聴く人たちは、どちらの文脈もある程度知っていただろう。

 だからこそ、めちゃくちゃ衝撃だったのだ。

 そこがそういうふうにつながるのか!?という驚き。



 赤い公園のメンバーは20代後半で、石野は若干17歳だ。

 ある意味で、すごく良いバランスである。

 石野の可能性は、すさまじい。

 赤い公園の古参のファンのなかには、離れる人たちもいるだろう。

 その一方、新しいファンがどんどん増えるのも、明らかだ。

 石野の声は、赤い公園を敬遠していた層にも、一定程度届くだろう。

 そして、それが逆に佐藤千明の評価にもつながるだろうから、みんな得である。

 本当、小説よりも奇なり。

サカナクション「NFパンチ」と「魚図鑑」

2018-04-02 10:49:59 | テレビとラジオ
 サカナクションのベストアルバム「魚図鑑」が発売されて、予約していたものが家に届いた。

 サカナクションを知ったのは、留学先のことで、そこで友人がその良さを沢山教えてくれた。

 当時のサカナクションには、すごく北海道っぽさがあって、それが具体的に何かはうまく言えないんだけど、

 あの独特な自然のなかにいた人たちの「違和感」が楽曲のそこかしこに散らばっていた、そんな気がしていた。



 以降、ずっとサカナクションは聴いていたんだけど、

 徐々に距離ができていて、それはなんていうか、サカナクションが当初持っていた違和感みたいなものが

 かなり薄らいできたなあ、という印象があったからだと思う。

 アルバム「kikUUiki」までは、楽曲が明らかに歪(いびつ)で、どこか不器用な印象すらあって、それがすごく温かかった。

 その後は、楽曲の完成度がますます上がって、信じられないレベルに進んだのだけど、

 その分、自分が親しんできた歪さが無くなってしまった。



 だけど、やっぱりサカナクションは時代の空気を創っているのであって、

 山口一郎氏の葛藤や創造力は、あいかわらず、自分の研究をすごく刺激してくれている。

 だからこそ、私は今回のベストアルバムを聴いてみて、色々考えてみたかったんだと思う。

 サカナクションがどう変わってきたのか、また、自分がどう変化してきたのか。



 ベストアルバムを聴いて分かったのは、サカナクションがとても沢山のライトモチーフを最初から一貫して持っていて、

 しかもそれが結構沢山で、しかも現在まで継続している、ということ。

 北海道で培った沢山のエネルギーや感覚で、ものすごく沢山の音楽をつくってきたんだなと思った。

 インプットできる時間が減って、オリジナル・アルバムの制作がめちゃくちゃ遅くなってきた理由がすごく分かった気がした。



 サカナクションのことが気になりすぎて、いつの間にか、山口一郎が企画・出演しているスペシャの「NFパンチ」も見るようになってしまった。

 前回、前々回は「サカナ屋」(ミヤネ屋のパロディ)と題し、アーティストや音楽関係者を読んで、芸能ニュースを語り合っていた。

 そして、今回がラスト。

 すごく面白かった。

 アーティストの生身の人間としての大変さ(「ファン」らしき人間に殴られた、とか)など、この番組でしか知ることができない情報が沢山あった。

 山口一郎はキュートだ。そして、どこかすごく脆いように思えて、心配になる。



 なんでこんなにサカナクションにこだわっているんだろうと考えてみると、

 結局、自分にとってサカナクションは、北海道の人が東京で生きる面白さや難しさの象徴そのものなんだよな。

 この数日で、そのことを改めて思い出して、

 ますます私はサカナクションの次のオリジナル・アルバムが楽しみになった。