それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「10獄放送局」:水曜どうでしょうの遺伝子を受け継ぐネット番組

2017-06-20 08:20:27 | テレビとラジオ
 今、「10獄放送局」というYOU TUBEの番組にはまっている。 

 この番組の説明は少々ややこしい。

 というのも、この番組を主催(?)している「打首獄門同好会」という(ラウド)ロックバンドの説明をしなければいけないからだ。

 しかし、それは面倒なので色々すっ飛ばして説明するが、この番組は簡単に言えば、面白いロックバンドによる面白いネット番組なのである。



 彼らが敬愛してやまないのが、「水曜どうでしょう」である。

 しばしば、そこで行われた企画をなぞったり、オマージュしたりする内容を展開し、それを結構面白くやってのけてきた。

 実際、打首獄門同好会は「どうでしょう」のフェスにも出演し、「10獄放送局」のなかでも「どうでしょう」のスタッフが出演している回がある。

 そういう意味で、「どうでしょう」公認番組と言っても過言ではないのだ。



 しかし、「どうでしょう」のファンはこう思うはずだ。

 演者が違う!と。

 やはり、重要なのは大泉洋の存在。そして、藤村Dの存在。

 「どうでしょう」は演者同士の人間ドラマが面白いのであって、それ以上でも、それ以下でもない(無論、企画は素晴らしいが)。



 では、「10獄放送局」はどうか。

 「10獄放送局」のメインのタレントは、アシュラシンドロームというロックバンドの青木亞一人だ。

 ここまで読んできた人は、「打首獄門同好会の人じゃないの?」と思うかもしれない。

 そう、打首獄門同好会の人ではない。

 打首獄門同好会の人たちは、どちらかと言うと、ミスターや嬉野Dに限りなく近い。

 奇しくも、青木亞一人も北海道出身なのだが、とにかく、この人が素晴らしいのである。

 何がいいって、まず顔がいい。素直ないい顔をしている。

 屈託がない(リアクションがいい)。適度に勘が悪い(ドッキリに向いている)。そして、何より真面目(無茶な企画でも、ちゃんとこなす)。

 体も大きくて、肉体作業のセンスがある。



 すでに37回もやっている、この番組。

 まずは最新企画から見てはいかがだろうか。

 最新の企画は、「日本最大級の野外フェスで知られるライジングサン・ロックフェスティバルに、食べ物のお店を出店しよう」というもの。

 第34回~最新回(現在、進行中)。

 すでに出店は決まっている。フェスの運営会社から許可が下りている(その関係者も番組では注目ポイント)。

 問題は、何の食べ物を出すのか、ということだ。

 打首獄門同好会の人々は、それを探しに北海道へと行くのだが、そこで待ち受けていたものは・・・・・・。



 繰り返しになるが、アシュラシンドロームの青木亞一人が素晴らしい。

 ミュージシャンとしてだけでなく、バラエティにも少しずつ出てほしい逸材だ。

さよなら、平成(3):新しい昭和

2017-06-19 10:08:59 | コラム的な何か
 椎名林檎が独特の感覚で、センセーショナリズムに基づくパフォーマンスを展開した時、新しい時代が始まった。

 当時、自分は高校生になったばかりで、男子・女子に関わらず、敏感な子ども達は皆、椎名林檎の奇妙さの虜になっていった。

 私は椎名のセンセーショナリズムにすぐには乗れなかったが、女友達がカラオケで歌う「歌舞伎町の女王」には心奪われた。

 椎名の楽曲の歌詞は、私の高校の倫理の先生が解説するほど、良く出来たものだった。



 今思えばだが、とりわけ注目すべきなのは、椎名が意図して「昭和」という時代のエッセンスを利用したことだ。

 昭和的な文体、服装、世界観。「アングラ」っぽい楽曲。

 昭和っぽさがセンセーショナリズムと相性が良かったのは、昭和が過去になったからだった。

 問題は、その昭和が「戦前」でも「戦後」でもあった、ということだ。



 昭和の面白いところは、それが第一次世界大戦の後に始まったこと、そして、第二次世界大戦を間に挟んでいることだ。

 椎名林檎は、意図して戦前と戦後を混ぜ合わせている。

 暴力的で性的で、華やかで汚くて、自由かつ全体主義的な世界。

 しかし、椎名林檎自身には、特筆すべき思想はない。

 もちろん、彼女が個人的に思うところは色々あるだろうが、作品のなかの世界観はすべてフェイクだ。

 本気の人は、あんなに突き放した世界観など描けない。

 フェイク昭和。昭和のパロディ。

 椎名林檎の面白さは、そこにある。

 むしろ、それを本気にしてしまうオジさんやオバさんの存在こそが、時代精神なのだ。



 「東京事変」というグループを結成した時、ますます、椎名によるパロディは速度を増した。

 「事変」という言葉づかいの妙は、否が応でも関心してしまう。

 日本では、まるで彼女の後を追うように、昭和礼賛ならびに日本の伝統礼賛番組が雨後の竹の子のように出現した。

 フェイクと本気、パロディと再現、戦前と戦後。

 気味の悪い組み合わせで、日本はネオ昭和への準備を整えていった。



 東京事変が解散した年、第二次安倍内閣が登場した。

 準備はもう済んだのだ。

 後は平成を終わらせるだけだ。

 世俗を支えるアイドル政の頂点であったSMAPが解散し、天皇が退位へ向かっていった。

 いよいよパロディは終わる。

 そんななか、気づいたらテロ等準備罪が成立していた。



 後は何が必要だろう?

 あえて言うなら、国民の生活の窮状を戦後憲法に結び付け、革命を起こそうとする青年集団くらいか。

 貧富の格差が拡大していることは、ネオ昭和の時代を迎えるうえでは好都合なのである。

 それがなければ、革命など誰も口にしない。

 まるでその時を待ちわびるように、物価が上昇し、国民の平均賃金が下降しているのだった。

 つづく

アイドルの恋愛禁止について今一度考える:本当に職業倫理に反するのか?

2017-06-18 08:29:48 | テレビとラジオ
 某アイドルグループのメンバーが、総選挙で結婚を発表して大きな話題になっている今日この頃。

 アイドルの恋愛禁止とは一体何なのかについて、少し長めに考えてみたい。



【法律上、禁止にするのは困難】

 アイドルが恋愛禁止である、というのは法律上は正当化できない。

 恋愛は人間にとって重要な自己決定権そのものである。

 日本の法律の体系上、自己決定権は非常に強い。それゆえ、簡単には禁止になどできない。

 恋愛禁止は、それをアイドルの契約に明記しているだけでなく、

 恋愛による損害の発生が明らかで、意図して事務所に損害を与えるような事例でないかぎり、責任は問えない。



【職業倫理違反なのか】

 けれども、アイドルの恋愛禁止は職業倫理に反する、という意見がある。

 まず、これに似た事例から考えてみよう。

 例えば、大学教員は学生と恋愛してはいけない。

 これは法律に明記してあるわけではない。18歳以上であるなら、本来、恋愛も結婚も自由だろう。

 しかし、これは職業倫理上問題があり、発覚すれば、大学から厳しく追及される。

 なぜだろう?

 大学が提供する教育サービスに、甚大な損害を与える可能性が高いからだ。

 教員と学生の関係は権力関係にある。

 制度上、教員は学生の単位付与の権限がある。

 また、教員は教壇に立ったり、指導者として接することで、学生に対して常に優位な立場であることを強制する存在だ。

 その権力関係を利用して恋愛することになれば、教育という本来の業務に大きな問題が生じる。

 それを許容してしまえば、教員と学生の信頼全体を根本から揺るがしかねない。

 また、学生へのハラスメントも増加する懸念がある。


 

【ファンに迷惑をかけているのか】

 では、アイドルの場合、誰に何の迷惑をかけているのだろうか?

 ここで対象毎に話を分けなければいけない。

 まず、最も重要なファンについて考えてみよう。



 ファンはアイドルのパフォーマンスにお金を出している(ここでは、お金を出している人たちだけを「ファン」と考えてみよう)。

 なぜ、お金を出しているのか?

 それは人によって異なるが、人によってはアイドルとの疑似恋愛にお金を出している。

 ファンは、応援しているアイドルのことが好きだ。

 お金を支払うことが、そのアイドルへの愛情表現だと考えてみよう。

 アイドルが誰かと交際している場合、それを知ってしまうと、そうしたファンは落胆するだろう。

 自分のものではないと落胆し、これまで支払ってきたお金が無駄になったと考えるだろう。

 もしアイドルの売っているものが疑似恋愛のみであるなら(それがアイドル本人にとっても、ファンにとっても明確である場合)、

 これは職業倫理上、問題になるかもしれない。



【アイドルが売っているのは何か】

 ここで大きな問題なのは、疑似恋愛のみがアイドルの売っている商品(提供しているサービス)なのかどうかである。

 アイドルは多くの場合、歌って踊っている。

 つまり、歌手であり、ダンサーである。

 場合によっては、バラエティ番組でのタレント活動もあるだろうし、

 グラビア撮影なんかで写真を提供すること、つまり、モデルでもあるだろう。

 歌手、ダンサー、モデル、タレントは、疑似恋愛を商品にしているとは言えない。

 星野源が誰かと交際していても、誰も職業倫理違反だとは言わないだろう。



 しかし、アイドルの場合、歌もダンスも未熟である。

 だから、アイドルなのである。

 アーティストではなく、アイドル。

 アイドルとは、いわば未完成であることが重要で、その意図して作られた幼稚さに魅力がある。

 未完成であるがゆえに、頑張っていることに価値が出る。

 プロの歌手がいくら「頑張ってます!」とアピールしても、歌が下手なら意味がない。

 アイドルはその逆で、未完成なパフォーマンスを売っている。

 未完成であるがゆえに「頑張っていること」を応援したくなる。

 その応援こそ、ファンが消費しているものだ。



【未完成なパフォーマンスと、恋愛】

 応援したくなる未完成なアイドルが恋愛をしていることをどう捉えるべきなのか?

 未完成さと恋愛には、大きな緊張関係がある。

 未完成さ=幼稚さは、いわば処女性・童貞性の要求でもある。

 しっかり恋愛をしてしまうと、この構図が壊れる。

 恋愛を明らかにすることは、アイドル自身が売っているものを否定する可能性がある。

 だからこそ、多くのアイドルファンがアイドルの恋愛によって大混乱に陥るのである。

 もちろん、アイドルが未完成さを売っていない場合は問題ない。



 もし、アイドル自身がこの点(未完成を売っていること)を理解しているならば、

 売り手の倫理として、恋愛はオープンにすべきではない、と本人も判断するだろう。

 しかし、もしアイドル自身がそれを理解していなければ(それほど幼ければ)、

 恋愛を明らかにすることも問題がないと考えるかもしれない。



【なら買わなければいい、という議論】

 ならば、ファンはそうしたアイドル(恋愛が悪いとは思っていない)にお金を出さなければいい。

 そういう議論が出る。

 品質の悪い商品なら買わない。市場経済では、それが許される。

 大学の場合、授業料はまとめて払うのであり、教員毎に支払っているわけではない。だから、不買ができない。

 しかし、アイドルなら、それができる。



 この議論を受け入れるとしても、ひとつ問題だけがある。

 それは、どの時点で恋愛をオープンにするか、ということだ。

 商品を購入した直後にそれを言われてしまうと、それはもう買ってしまっている以上、取り返しがつかない。

 総選挙の時に結婚を明らかにしてしまうことは、一番お金を出した見返りがある瞬間に「恋愛してきました」と言っているわけである。

 言い換えれば、商品を使う瞬間に壊れたのと同じである。

 だから、ファンは怒っても仕方がない。



 しかし、ここまで言って、すべてをひっくり返すようで忍びないが、

 すべては曖昧な「職業倫理」の話しである。

 どこかに明文化されているわけでもないし、アイドル内部で明示的に教育されているわけでもなかろう(それをしているグループもあるだろうが・・・)。

 みんなが何となく思っているにすぎないこだ。

 時期や文脈によって、判断は変わってくる。

 それを無視して市場から退出したとしても、法的責任を問えるわけではない。

 

【他のメンバーとの関係はどうか】

 ここでファンとの関係ではなく、他のメンバーとの関係について考えてみよう。

 まず、ここでも類似の事例から考えると助けになるかもしれない。 



 ある時代の、ある場所で、プロレスはガチだと思っている格闘技ファンが大勢いたとする。

 ところがある日、プロレスラーのなかから「プロレスは八百長」と指摘するものが現れた。

 ファンは大混乱し、「プロレスは八百長で、見るに値しない」と言いだすものが出てきた。

 他のプロレスラーは大いに怒った。



 この場合、「プロレスは八百長」と指摘したプロレスラーに、職業倫理上の責任はないだろうか?

 おそらく見解が分かれるだろう。

 ひとつの立場は、「プロレスでは事前に結末が決まっている以上、そのことは明確にすべきであり、それがファンの信頼につながる」というものだ。

 もうひとつは、「プロレスはファンタジーであり、事前に結末が決まっているかどうか、どこまで決まっていないのか、などは明らかにすべきではない。

 それこそがファンにとってのプラスになる。」というものだ。

 さて、どちらが正しいだろうか。

 それは決めようがない。

 結局は、ファンが最終的にどちらに納得するかであり、それでもプロレスを見るのかどうか、にかかっている。



【アイドルとファンタジー】

 では、アイドルの場合はどうだろう?

 「アイドルは恋愛をしない。」これはガチか?それともファンタジーか?

 どう考えてほしいのかは、アイドルによって異なる。



 最も重要な問題は、「アイドルは恋愛をするものだ、当たり前だろ、人間なんだから」と主張する場合、

 同業者のファンタジーと強烈な緊張関係を生む、という点だ。

 同業者は怒るだろう。

 それでも、言った方が長期的に見て、アイドルにとってプラスになる、と考えるなら、その軋轢を乗り越えていくしかない。

 必ずや、一部のファンも応援し、その輪は広がっていくだろう。



 アイドルの恋愛が法律で禁止されていないのと同じように、

 同業者がそうした革命的なアイドルを批判し、言葉で攻撃することも禁止されていない。

 それはビジネス上の根本的な対立なのだから、致し方ない。



【結論】

 長々と考えてみた。

 結論は、アイドルが恋愛することは、場合によっては職業倫理に反する。そう考えることには、一定の合理性がある。

 ただし、倫理に反したからと言って、何もない。

 同業者から激しく叩かれるのは、仕方がない。

 なぜなら、ビジネスの邪魔をしているから。

 ということになった。

さよなら、平成(2):2週目の青春

2017-06-03 20:47:49 | コラム的な何か
 僕が大学の教員として働くようになって少し経つと、奇妙なことが起き始めた。

 自分のなかの大学の記憶が何度も蘇ってくるようになったのだ。

 大学生に向かって教鞭をとる自分の前に、そのどこかの席に、あの日の自分らしき影がいる。

 授業でも課外活動でも、なんとなく自分らしき影がいるのである。



 映画「桐島、部活やめるってよ」が公開された時、僕も僕の同世代の友人も、

 自分が閉じ込めてきた記憶をこじ開けられる体験をした。

 大学教員としての生活は、それをすごく引き延ばしたような何かだった。



 SMAPが解散して、確かに青春の背景をなしていた時代が終わるのが分かった。

 2周目に入っている。

 僕はそう感じ始めた。



 永遠の日常は確かに永遠だが、生きている僕は確かに成長し、老いに向かっている。

 僕は学生から労働者に変わり、青春は終わりを迎えた。

 だが、それは次の段階に行くというよりは、2周目に入ったという方が正確だった。



 BASE BALL BEARのアルバム『光源』がそんなタイミングで出たのは偶然ではなかった。

 彼らの音楽のテーマは、確かに「2周目の青春」だった。

 奇しくも、小沢健二が新曲を発表し、そのテーマが「パラレルワールド」だったのも象徴的だ。

 すなわち、1週目の世界の色々な可能性を想像すること。

 僕たちの日常は、良くあり、悪くもある。

 1984年に始まった、曖昧で感傷的で現実的で空想的な世界が、もしかしたら一段落したのかもしれない。



つづく

さよなら、平成(1):永遠の日常

2017-06-03 19:46:22 | コラム的な何か
 映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」が公開されたのは、僕が生まれてから、すぐのことだった。

 僕はどういうわけか、うる星やつらの枕カバーを使って、毎晩眠っていた。

 アニメもマンガも一度も見たことはなかった。



 いつかは僕も高校受験を経て、大学受験を経るのだろう、と何故だかよく考えていた小学生の頃。

 時間が過ぎるのは遅く、まるで永遠に日常が続いていくような日々だった。

 ビューティフルドリーマーでは、永遠に学校祭の前日が繰り返される。物語はそこから始まる。

 ある意味で、僕の日常もそうだった。

 毎日が永遠に学校祭の前日のようだった。けれど、僕は学校祭にはかかわっておらず、友人もまったくいなかった。



 世界にいつか何かが起きて、そして、僕が特別な存在になったらいいな、と何となく考えていた。

 阪神淡路大震災が起きて、新聞もテレビもその話題になった。

 でも、僕の日常はまるで変わらなかった。

 オウム真理教のサリン事件が起きて、そして、新聞もテレビもその話題になった。

 でも、僕の日常はまるで変わらなかった。



 ところが、現実の凄まじい事件とは真反対に、アニメ「エヴァンゲリオン」が始まって、僕は夢中になって、周りの子どもたちも夢中になっていった。

 エヴァは僕らの奇妙な退屈と願望と性的衝動をくすぐり、日本の社会を覆った。

 僕たちのなかの一部は、現実の世界に興味を持ってもなおエヴァの世界から抜け出せず、

 自分のコンプレックスと世界の問題がまるで癒着しているかのような勘違いをしたまま、成長していった。



 日本経済は右肩下がりが顕著になり、それが僕らの前提になった。

 世界は良くならない。

 破たんもしなければ、改善もしない。ゆっくりと衰退していく。



 1997年、少年Aが殺人事件を起こした。

 僕たちは、みんな、少年Aだった。


 
 自分が誰なのか不明確なまま、不明確な恐怖と戦いながら、日常を変える方途を探していた。

 2001年、世界を変えるテロが起きた時、僕らは何も変わらない日常のなかにいた。

 ゆっくりと衰退していく小さな世界のなかで、僕はそこから脱出する方法を探していた。



 唯一見つけた方法が社会科学の研究で、僕はそれにのめり込んだ。

 それまで見てきた世界がすごく狭くて、馬鹿げていて、勘違いに満ちていたことに初めて気が付いたのは、社会科学のおかげだった。



 日本社会が徐々に終わらない日常に慣れ、衰退していく世界にも諦め、そこをスタート地点にし始めたことに、僕の世代は皆、気が付きはじめた。

 『希望の国エクソダス』は、僕らの世界観に寄り添っていた。



 僕がイギリスに住み始めた頃、日本は311を迎え、まるで革命のような変化に直面した、と誰もが思った。

 日本は悲しみに満ちていて、日常のすべてが張りぼてだと気づかされた。

 そして驚くべきスピードで、また永遠の日常を造り直し、沢山の亀裂に何かを塗りたくって行くのを黙ってみていた。



 アイドルブームはまるで翳りを見せることなく、日本社会を支え続けた。

 アイドルが頑張って搾取されている様子が、疲れ切った人々を勇気づけるという、奇妙な構造がつくられた。



 僕が東京に引っ越した時、日本ではひっそりとアニメ「おそ松さん」のブームが来ていた。

 そっくりな兄弟が沢山登場するアニメ。

 まるでうだつの上がらない男子が、子どもの妄想のようなストーリーを展開する。

 初見では、はっきりと区別できないキャラクター。

 市場に疲れ果てた人々は、その区別できないキャラクターに僅かな差異を見つけて、「自分らしさ」を生み出すことに成功した。



 「ヲタク」が当たり前の言葉になって、誰もがヲタクになることを許される社会になって、そして誰もヲタクではなくなった。

 ゆっくりと衰退していく社会で、311でも何も変わらず、僅かな差異を見つける、それぞれの物語が誰にとっても救済につながる細い糸となった。



 つづく