それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

レディー・ガガによるグラミー賞、アカデミー賞でのパフォーマンスについて:プロフェッショナリズム!

2015-02-24 11:48:14 | テレビとラジオ
先日、レディー・ガガがグラミー賞で、トニー・ベネットと見事なデュエットを見せた。

トニー・ベネットと言えば、伝説的なポピュラー音楽の歌手。

すでに90歳近い彼は、未だ現役で見事な歌唱を見せている。

アメリカで言うポピュラー音楽とは、いわばビートルズ登場によってロック化したポップスとは別の、ジャズを基調とした音楽を指す。

トニー・ベネットはまるで自然に普通に歌うが、そのグルーブと言ったら、とてつもない。

プロの歌手とて、まったく真似できないような、リズムの取り方、節の回し方。



しかし、何と言っても、そこに合わせるガガの歌唱が見事なのだ。

トニー・ベネットの歌声が生きるように、ガガは絶妙なリズム、音程、節回して声を合わせていく。

ガガはハウスやソウルだけではなく、ジャズの歌い方も出来る。

同じブラックミュージックだが、ソウルとジャズでは全く違う。

ソウルの歌い方がレスリングだとしたら、ジャズの歌い方は極端な話、合気道に近いかもしれない。

ソウルは基本的に朗々と歌い上げるもので、目指すところは、ゴスペルがずっと体現してきた一種の神がかり的な恍惚感だ。

それと相まって、ソウルは非常にマッチョでセクシーであることを前面に押し出す

他方、ジャズ、特にジャズを基調にしたポップスが目指すのは、あえて言えば、粋(いき)だ。

大人の思慮深いが、しかしユーモアに満ちたセクシーさ。それが(アメリカの古き良き)ジャズ・ボーカルだと私は思う。

だから、歌詞の表現もソウルと違ってずっと抑制されているし、歌唱も当然しなやかになる。

要するに、全然違うルールのスポーツで、ガガはともに見事に優勝して見せたわけである。



ところが、ガガはそれだけにとどまらない。

アカデミー賞の授賞式では、あの「サウンド・オブ・ミュージック」のトリビュート企画で、あの映画の有名な歌を幾つもメドレーにして歌って見せた。

今度は、ミュージカルだ。

ミュージカルと言っても、昔のミュージカル。

つまり、今度は西欧のクラシック的な歌唱が求められる。

これも全然求められる技術や表現が異なる。

にもかかわらず、驚くべきことに、それも見事にやってのけてしまうガガ。

「ガガ、なんて恐ろしい子!」(『ガラスの仮面』風)

ガガと言われなければ気が付かないほど、「サウンド・オブ・ミュージック」なガガ様。

二の腕にあるタトゥーがなければ、気づかなかったかもしれないガガ様。



彼女の「ニューヨーク大学の芸術学部」出身という経歴は、並のモノではない。

アメリカが培ったあらゆる芸能における歌唱のノウハウをものにしているガガ。

そうだ、アメリカはバークリー・メソッドが示すように、プロフェッショナルな技術の定式化と教授法が見事に発展しているのだ。

そして、そのなかから、ガガのようなとんでもなく一流のアーティストが登場する。

まさに、これこそがアーティスト。

日本の場合、ポップスと括られる芸術領域は、驚くべきアマチュアリズムで成り立っている。

それが良いところでもあるが、最悪なところでもある。

大衆芸術は蛸壺化し、それを総合的に扱いにくい土壌が出来ている。

だからこそ、日本社会の聴衆は、ガガを愛してやまないのである。

「ざっくりハイタッチ」鬼越トマホークが再び登場した件

2015-02-24 11:20:14 | テレビとラジオ
テレビ東京「ざっくりハイタッチ」に芸人の鬼越トマホークが登場し、非常に面白かったと当ブログに書いた。

そして、また再び同番組に登場した。

企画は前回同様、鬼越トマホークがコンビ間で大ゲンカし、それを先輩たちが止めに入る。そして、止めに入った先輩に対して、ふたりが何か言う。その一言が、その先輩の本質を突いている、という筋。



今回も確かに面白かった。

この企画での、鬼越トマホークの魅力のひとつは、特に強面でスキンヘッドの坂井が相方(こちらも強面の男性)に対して、恋人のごとく、独占欲を伴う強烈な愛情を示すことだ。

その点、今回もそれが良く出ていた。

ふたりの容姿はとてもインパクトがあり、非常にマッチョだから、言動が女性的だとそれが際立って、とても面白く感じられる。

奇妙なBLっぽさ、いじらしさのようなものが、とても愛らしい。



それに加えて、鬼越トマホークの坂井のお笑いに対するクールな視線が、とても鋭い。

芸人さんだから当然、お笑いに対して非常に博識で、しかも実践者としてリアルな感覚で分析しているわけだが、

坂井の視線は、その有り余る度胸も相まって、説得力がある。

やはり、今回もそうした説得力を見ることが出来た。



ただ、そうした素晴らしい長所を前提にしたうえで、ひとつ若干疑問に思ったことがある。

それは鬼越トマホーク金野の言葉だ。

流れで言えば、

①ケンカする→②先輩が止める→③坂井が一言いう→④金野がフォローすると見せかけて、もっとひどいことを言う

となっていた。

問題は最後に、もっとひどい毒舌を振るう必要があるのかどうなのかだ。

そうすると、坂井の一言がぼやける危険がある。

実際には、金野の一言が毒舌すぎて、若干、愛情やウィットを感じにくいという印象を持った。

なぜ金野が一言を付け足す必要があるのか、その必然性が言葉のなかに滲み出る必要があったのではないか。



もし、一言付け足す意味があるとすれば、必要以上の毒舌は先輩を若干本気で怒らせる可能性があり、

それによって、思ってもいないやり取りになる展開がありえたということだろう。

例えば、本当は非常に怖いと言われるCOWCOWの多田の切れ方は、非常に広がりがあった。

多田は反論を仕掛け、さらなる展開もあり得た(どういう展開が面白くなるのかは不明だが)。



要するに、私がここで(大変申し訳ないことに一方的に)問いたいのは、

①~④の展開が定型化した時に何が見えてくるのか、ということなのである。

それは鬼越トマホークという稀有なコンビが持っている人間性の面白さなのか、

それとも、先輩芸人の怒りから見える本質なのか、

あるいは、何か別のことなのか、ということである。



とにかく私は言いたい。

何でもいいから、鬼越トマホークをまた出してくれと。

この人たち、絶対面白いじゃないかと。

ゴットタンとかでも見たいと。

「ジャンクション39 」(NHK BSプレミアム):物語と制度

2015-02-12 00:24:07 | イギリス生活事件簿
ドラマ「ジャンクション39 ~男たち、恋に迷走中!~」(NHK BSプレミアム)が興味深かった。

39歳を迎えた男性3人が、どうやったら彼女ができるか考え、試し、迷走する話だ。

この男性3人を演じるのが、武田真治(イケメンだがイタい役)、野間口徹(真面目で高収入だがユーモアが欠如の役)、ダイノジ大地(私生活も仕事も母親とべったりの役)で、とにかくこれが見事なキャスティング。

ストーリー展開のテンポが良く、セリフの歯切れも見事。アドリブも多かったとされ、笑いどころも多かった。

それもそのはず、演出を手掛けたのが「サラリーマンNEO」の監督で知られる吉田照幸だったとのこと。



ドラマで語られるのは、男性(しかもヘテロ)の目線でのパートナーの作り方だ。

女性とどういう風にメールを書くべきか、どういう会話をすべきか、どういう風に女性に慣れていくべきか。

男性が培ってきたコミュニケーションやデートのノウハウは、多くの場合間違っており、それが面白い事件を惹き起こす。

それは決して特殊なことではなく、日常的に起きている。

私が女性の友人たちから聞くデートの感想は、いつも男性として胸が痛くものばかりで、このドラマ以上に世界は悲劇と喜劇に満ちている。

このドラマから見えてくるのは、恋愛と結婚という物語の怖さだ。



パートナーをどのように探すのかについては、学校で教えてくれない。おそらく保護者も十分に教えてくれない。

だから、この分野は常に独学で、それゆえに間違いだらけで、体系を成していない。

もし仮に体系的に教えられるようになったとしても、それはもはや有効ではないかもしれない。

なぜなら、そこにはロマン、すなわち、偶然や運命といったものを感じさせるものが存在しないからだ。



今の日本社会におけるパートナー候補との関係の構築は、「物語」だ。

人口の流動性が著しく低い前近代的な社会であれば、パートナー候補との関係の構築は、「制度」だった。

この違いは著しい。

物語には明確なルールがなく、周囲からのサポートもない。

すべては偶然と運命と奇跡で出来ているフリをしており、最終的に人間個人の力が試される。

恋愛や結婚は、市場における経済活動とは異なる。

人間は非合理的で、カップルはお互いの非合理性と付き合うことになる。

趣味や社会的地位などのデータ、容姿の好みの組み合わせだけでは、この物語は成立しない。

人間の主観のなかで、相手がどのように映り、自分がどのように映っていると理解するかが、ここでの鍵となる。

だから、客観的データは究極的には意味がない。というか、間接的な意味しか持たない。



極端な言い方をすれば、恋愛も結婚も勘違いと錯覚の連続の上に成り立つ。

モテる、モテない、を決めるのは、非常に抽象的な言い方をすれば、フィクションを相手の人間との間に構築する能力だと言える。

つまり、モテる人間は、相手に物語を信じ込ませる良き作家であり、役者であり、場合によってはほら吹きである。

日本のように、自分たちの行動を絶えずメディアのなかで類型化し、「あるあるネタ」にしてしまう社会では、常に恋愛における行動は再帰的に反省の対象になる。

そして、このドラマもその社会的構造の一部を成している。

つまり、何もかも「ネタ」として消費されてしまい、物語を作る方法論は常に変わり続ける。

もし、このマトリクスから脱出してパートナーを選びたいなら、その人の思考そのものを徹底的にお互いに分析し、理解し合う必要がある。

だが、そこにはロマンがない。それを果たして許容できるのか、という問題になる。



で、結局何が言いたいかというと、「恋愛→結婚」が物語であり続ける以上、人間は結婚しないか、さもなくば、簡単に離婚するということだ。

物語はフィクション。

フィクションは、いわば幻想だ。

このNHKのドラマは、恋愛をめぐる幻想(虚構)と現実の間で揺れる人間の群像そのものだ。

だが、単にこんな結論では、社会が立ち行かない。

社会全体にとってみれば、労働力および消費者の再生産という意味で、結婚は非常に重要な要素となり、個人の好き勝手に任せられないほどの重要性がある。

だから、そもそも前近代の社会では、結婚はある程度、制度化されていた。

そこに個人の物語が入り込む余地は少なかった。

社会が維持され、人間が生活するには、制度によって結婚がある程度担保されている必要があった。

だが、近代化され豊かになった社会のなかで、人間は「物語」を強制されている。

「さあ、どうぞ、ご自由に自己実現なさってください」という社会のなかで、恋愛から結婚への過程は、超自然的なロマン主義的物語として構成される。



けれども、それでは困る事態になっている。

日本の場合、出生率の上昇において重要なのは、実のところ、結婚する割合の上昇である。

2014年の合計特殊出生率が1.43、2010年の夫婦の子ども数(完結出生児数)が1.96。

そして、婚姻率は1947年から現在までの数値を見ると、半分以下にまで減少し、現在も減少傾向が続いている。

そのうえ、初婚の年齢も引き上がっている。

恋愛と結婚という絶望的なフィクションの世界を、どのように制度の世界と再び接合できるか。

その課題をクリアしなければ、日本の人口減少は止まらないだろう。

諸星大二郎が大好きな人による節分の豆まき

2015-02-03 10:46:19 | ツクリバナシ
サエとヒロシは、食事を楽しんだ後、一緒にサエの自宅に帰ってきた。

ヒロシの家は別にあったが、最近では半同棲のような生活をしている。

「じゃあ、そろそろ寝ようかな」とサエが言った時、時間は夜の11時を回っていた。

「待って!待って待って!今日が何の日か分かってる?」

ヒロシは急に興奮しはじめ、サエがベッドに入るのを阻止した。

「何の日って・・・、ああ、節分ね。私、特に何もしないよ。何もしない家だったの。」

「それはいけないよ、サエちゃん。それはいけない。豆まきはね、非常に重要な儀式なんだ。」

サエはヒロシがちょっと怖かった。豆まきなんて、実家でしてこなかったし、しないからといって、何か問題が起きたことも無い。それにもう夜中だ。

「夜中だよ、もう。」とサエが言うか言わないか、ヒロシは、

「違う違う、むしろ夜中だからやるんだよ。夜中、つまり時の割れ目こそ、豆まきの時間なんだよ。」

あれ、こんな人だったっけ、とサエは思った。ヒロシは続ける。

「知っていると思うけど、節分とは旧暦における大晦日にあたる。その大晦日に鬼が家に入ってくるのを防ぐ、その儀式こそ、豆まきなんだ。」

サエは節分の由来もよく知らないし、鬼のこともよく知らない。

「鬼は入ってきません。寝ますよ。」サエは強気だ。

「鬼を軽んじてはいけないよ、サエちゃん。一体、鬼とは何か、というところから、少し考える必要があるね。」

ない、考える必要は全くない、とサエは思った。しかし、ヒロシは続ける。

「オニとは、実は複雑な概念なんだ。というのも、オニの概念には、日本の様々な信仰や宗教の文脈が反映されているからなんだね。」

サエは不安を覚えた。この人と生活するの、大変かも、と。

ヒロシはサエの表情が曇っているのに気が付いていたが、それよりも大事なことを伝えなくてはいけないという使命感に駆られていたので、無視した。

「まず、日本の土着の信仰では、オニとは一種の土地の霊であり、自然の神々でもあるんだ。

だけど、それ以上に興味深いのは、日本では、オニがしばしば異界、つまりこの世とは異なる世界の存在として描かれてきたということなんだ。」

夜中に怖い話とかしてくる、最悪。とサエは思ったが、少しだけ興味が出てきた。

「それで?」サエはとりあえず、ヒロシが満足するまで話をさせることにした。

「うん。オニというのは、「おぬ」が転じた概念とも言われている。「おぬ」とは「隠」と書く。つまり、この世界にはいない、あるいは見えないもの、ということなんだね。」

なんだね、じゃないよ。とサエは思ったが、この話はもうすぐ終わる気がしたので、とりあえず、頷いて見せた。

「その一方、オニと並んで使われていたのが、モノという概念だ。いわゆる「物忌み」のモノだね。モノとは、祟る霊、悪しき霊を意味していた。鬼という漢字は万葉集なのでは、モノと読んでいる。」

「分かった、分かった。じゃあ、豆まきすればいいのね。」サエは面倒になってきたので、一番早くこの事態が収束する選択をすることにした。

「ちょっとだけ待って、今話していることが後で重要になるから、もう少し説明するね。」

嘘でしょ、とサエは思った。

「で、要するに、僕が言いたいのは、節分における鬼というのは、一般にイメージされるような赤鬼、青鬼みたいなことではないんだよ。

そうじゃなくて、見えない存在、異界の存在のことであり、悪しき霊のことなんだよ。

分かった?」

サエは素早く「分かったから、じゃあ、豆まきね。」と素っ気なく返した。

「ところで豆は?」とサエが尋ねると、ヒロシはおもむろにカバンから豆の袋をとりだした。その袋は布の袋で、なんだか豆は厳重に管理されている様子だ。

「この豆をまくよ。最近ではピーナッツをまく家もあるみたいだけど、それは違うんだ。本来の豆は大豆、それも炒り大豆なんだね。というのも、大豆は古来より、霊力のあるものとされてきたからなんだ。桃なんかも霊力があるものとされているけど、大豆もそうなのさ。」

「あー、桃太郎の話もあるもんね。」

「そうそう!」サエが余計なことを言ったので、ヒロシのテンションは余計上がってしまった。

「じゃあ、早速まきましょ。鬼は外、福は内でしょ?どっちが鬼やる?」

サエが言うか言わないか、ヒロシは「違う違う違う!今さっき何を聞いていた!君は何を聞いていたんだ!」

サエはちょっとムカッときた。ここまで妥協しているのに、なんだろう、この人の態度。

ヒロシは言い過ぎたことをすぐに反省し、

「ごめん、ごめん。僕の説明が足りなかった。」とフォローした。

「まず、鬼は誰かがやるものじゃないんだ。それはどうしてかと言うと、」

「鬼は見えない異界の存在だからでしょ?」とサエが遮った。

「そうなんだよ。分かってくれたみたいだね!」ヒロシは嬉しそうだ。彼は多分バカだ。

「それから、「鬼は外」と「福は内」は一緒に言ってはいけない。それぞれ別の儀式とする必要がある。

まず、鬼は外を唱えながら、窓やドアの外に向かって豆を投げる。そして、窓やドアを閉めていき、

その後で福は内と唱えて家のなかに豆を投げる。そして、それを食べるんだ。」

サエはヒロシに言われたとおりに儀式を行った。

そして、家のなかにまいた豆を拾い集めて、食べることになった。

「いただきまーす」とサエが言った瞬間、ヒロシは叫んだ。

「ストップ!!!!食べてはダメだ!!!!」

「どうしたの、びっくりした。なんなの!」サエは心臓が止まりそうだった。

「物忌みのことを思い出してほしい。鬼を遠ざけた今、豆まきの豆を食べるとき、言葉を話してはいけないんだ。

それが物忌みにつながるんだよ。」

よく分からないけど、とにかくサエは黙って豆を食べた。

そして、ようやく食べ終わった。歳の数も20半ばを過ぎたものだから、かなりの数の豆を食べた。正直お腹いっぱいだ。

「さあ、もう話しても大丈夫だよ!」

ヒロシがそう言っても、サエは黙り続けていた。

「どうしたの?物忌みは終わったよ。豆まきの儀式は無事に終わったんだ、ありがとう。」

「あのね、私は怒ってるの。」

ヒロシには、その意味が分からなかった。節分の意味はあんなにも分かっていたのに。

そういえば、鬼はしばしば女の姿になると昔の物語には書いてあるなぁ、とぼんやり考えていた。//