それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

パーケンと「依存症」:「診断」することの意味

2015-12-29 08:22:55 | テレビとラジオ
 これから少しややこしい話を書く。たぶん少しだけ難しい話になると思う。それでも僕は今回のパーケンの事件について、どうしてもまだ言葉にして考えたいので、書かなければならない。

 パーケンの報道が出て、そのなかにパーケンの過去を踏まえて一種の「依存症」なのではないか、という議論が出てきた。その議論について僕が考えることを書く。

http://officerico.co.jp/blog/

 ↑その議論はこちらのブログにある。

 リンクを張ったブログは、様々な「依存症」に対する啓蒙や相談業務を行う会社を経営されている方のもののようだ。

 関係記事の内容を乱暴に要約すると、パーケンにはトラウマがあって、女子高生の衣服に対する執着(および、その取得の方法に対する執着)は、そのトラウマに起因するのではないか、という話である。



 この分析に僕は戸惑うと同時に安堵もした。

 戸惑いにも安堵にも意味がある。どちらも重要な意味がある。ここではそのことをよく考えてみたい。



 戸惑った理由はこうだ。

 高橋はこれまで「芸人」として自分の過去を「ネタ」にしてきた。

 悲しい過去も芸人としての話芸があるから、芸人としての強烈な人格があるから、「笑い」に変えられていた。

 笑うことにはすごく強い効果がある。どんなに強烈な政治的なメッセージも、どんなに深刻な話も、ユーモアによって笑いに変えられれば、その効力を減じる。

 だから、いかなるテロリストも笑いやユーモアを嫌う。笑いやユーモアはテロの効果を減ずる可能性があり、非常に危険だからだ。

 スターウォーズ的に言えば、怒りと悲しみは人間のダークサイドだ。

 それを克服するのはとても難しい。だからこそ「芸人」という職業の社会的意義は大きい。

 だから、高橋が悲しい過去を笑いに変えてきたことの意味は、とてもとても重要だったのである。

 僕のなかにある沢山のダークサイドを、高橋の話芸はうまいことを昇華してくれた。

 それはきっと僕だけではないと思う。だからこそ、パーケンのファンは静かに熱狂的だったのだと思う。

 医学的診断は、そうしたパーケンの「笑い」についての気持ちとなかなか折り合えない。

 パーケンについてほとんど考えたこともない人が急に来て、「この人は患者ですよ、トラウマを抱えた可哀そうな人ですよ」と言われて、僕は「はい、そうですか」とはどうしても言えない。

 ファンはパーケンの「笑い」が好きで、それは彼そのものが好きだったということを意味していて、そこには彼の「過去」をめぐる語り方や、自分自身の認識に関する語り方が含まれていた。

 さらに言えば、ファンのパーケンへの愛情には、ファンの「過去」や「自己認識」への思いが強い投影されていた。パーケンを愛することが自分たちを愛することにつながっていた。

 だから、急にパーケンが「患者で可哀そうな人」だと言われたら、僕たちも患者で可哀そうな人になってしまうのだ。



 戸惑った理由はもうひとつある。

 ある一部の人たちが、パーケンが依存症であるかどうか、あまりにも一方的に決めているからだ。

 パーケンと直接会って、そのことを話したわけでもない。つまり、診察したわけでもないのに、あまりにも安易に結論しているということだ。

 パーケンには語る権利がなく、まるで言説空間上のモルモットのように、病気の典型例として処方箋を下されてしまった。

 「彼は病気です、だって伝え聞いた過去からすれば、当然そうなのです」と。

 「こうやって診断を下すことで人々を啓蒙するのだ、苦しんでいる人を救うのだ」と。

 言っていることは分かる。しかもパーケンは容疑者だ。

 しかし、それでも人権はある。彼は動物じゃない。人間だ。

 依存症の啓蒙は本当に大切なことだと思う。ただ、直接診察されたわけでもないパーケンを一方的にその材料に使うことに、僕はどうしても戸惑ってしまう。



 だけど、同時に安堵もした。

 どうして安堵したか。ひとつは、これでパーケンのことを「説明」できるからだ。

 説明したい欲望を満たせるからだ。

 今まで愛してきたパーケンが、まるでその人格に反するように、そのすべてを否定するかのように、

 それはつまり僕たちファンそのものを否定するかのように、長年に渡って犯罪を犯していたとすれば、

 僕たちは、僕たちの人格そのものを矛盾なく受け入れにくくなる。

 だから、僕たちはその矛盾を解消するために、どうしても説明がほしいのだ。

 病気の診断はその説明を与えてくれる。

 「あれは病気だったんだ、どうしようもなかったんだ、彼も苦しかったんだ、仕方なかったんだ」と。

 そうやって「説明」して、僕たちはパーケンを赦す可能性を見出し、それによって自分たちをも赦す可能性を見つけ出す。



 これを読んだ人は思うかもしれない。

 「パーケンは犯罪者だ、たとえ容疑者の時点でも容疑はほぼ確定したようなものだ。犯罪には被害者がいる。彼女たちの気持ちを考えたことはないのか。」

 そう思う人は次のように考えてみてほしい。

 ファンは犯罪者の家族のような立場だ。

 被害者の方たちへの共感を持ちながら、しかもどうして犯罪を未然に止められなかったのか、という自責の念がある。

 被害者の方たちに責められれば、泣いて詫びるしかない。ただただ、頭を床にこすりつけるしかない。

 悪いのは自分なのだ、悪いのは犯罪を止められなかった自分なのだ。悪いのは犯罪者を愛してしまった自分なのだ。

 その上で、僕はこう言いたい。

 近代の刑法の仕組みを冷静に見つめる必要もある、と。

 近代の刑法は、私的な報復を禁じた。犯罪は「個人と国家の関係」に封じ込められた。

 それゆえ、犯罪者個人は、あくまでも国家が「社会を構成する主体として改良する対象」となった。

 そのことは同時に、被害者の救済はまったく別の経路によることを要求した。

 言うまでもなく、それは犯罪者の家族が行うものではない。



 要するに、パーケンに対する「診断」は、僕にふたつの矛盾するような感情を引き起こした。

 それはどちらも、基本的にはファンとしての僕の欲望によるものだった。

 ただ、それを前提として上で「診断」には問題があることも指摘した。

 また、被害者感情を理由として、ファンの言説を否定する議論にも問題があることも指摘した。

キング・オブ・コメディ高橋に寄せて

2015-12-27 13:43:24 | テレビとラジオ
 昨日から驚きと悲しみ、悔しさで満たされている。

 お笑いコンビ、キング・オブ・コメディの高橋健一が逮捕されたのだ。

 容疑は、高校に侵入し校舎内から女子高生の制服などを盗んだというもの。20年ほど前から犯行を行い、600点もの盗品が自宅にあったと言われている。

 高橋の逮捕は、私にかつてないほどの衝撃を与えた。まったく心の整理が出来ていない。

 だからこそ、今そのことについて書きたいと思う。



 キング・オブ・コメディ(以下、キンコメ)は、今野と高橋からなるお笑いコンビで、日本最大のコント大会であるキング・オブ・コントの優勝者である。

 にもかかわらず、地味なコンビで、すごく売れているかというとそうでもなかった。知る人ぞ知るコンビだった。

 キンコメの今野の方は役者として売れ始めていて、芝居の評価も高かった。だから、最近ではメディアでの露出も増えていた。

 一方、高橋はメディアへの露出は少ないが、しかし、お笑いの隠れた実力者として一部に熱狂的なファンが存在していた。私もそのひとりだった。



 高橋は、エピソードトークも大喜利も得意で、番組やイベントを俯瞰で理解し、求められた役割を的確にこなせるオールラウンドプレイヤーだった。

 しかし、決して前には出ようとせず、常に裏の引き立て役に徹してきた。

 そんな引っ込み気質の高橋が前面に出ていたのが、「ニコニコキングオブコメディ」(以下、ニコキン)というネット番組だった。

 この番組は、キンコメがだらだらとトークをするバラエティ番組ではあるのだが、その緩さとクセになる面白さから熱狂的なファンがいた。

 僕は留学中もずっとこの番組を欠かさず見ていた。そして、今でも見ている。



 「ニコキン」は、高橋の魅力がいかんなく発揮された番組だった。

 高橋が好きな駄菓子、高橋が好きな貝の話、高橋が大ファンのももクロの話、高橋がやっているバイトの話・・・。どれもめちゃくちゃ面白かった。

 今考えてみると、高橋には収集癖があった。

 小学生の時に遊んでいたものを丁寧に取っておいていて、それを番組でも紹介していた。今でも貝殻を収集していた。

 他にも収集していたんだね、こっそりと。



 「ニコキン」でとても面白かった回と言えば、とある中学校のあるクラスが高橋に手紙を書いてきたエピソードを話した回である。

 高橋の家庭環境は必ずしも恵まれたものではなかった。小さいころに母親が自殺してしまったり、父親が莫大な借金をつくっていたり(それを今でも返済していたり)、とにかく色々と大変だった。

 とある中学校のあるクラスの道徳の授業で、その話がされて、それでもお笑い芸人として頑張っている高橋に対して、中学生たちが手紙を書いてきた、というのである。

 それが爆笑なのである。

 高橋は、それまでの辛かったことをすべて笑いに変えてきた。

 その笑いはなんだかひどくあっけらかんとしていて、だからこそ、深刻に捉える中学生たちのテンションと、今の高橋のテンションのずれが、めちゃくちゃ面白かったのである。



 高橋は実家で父親とふたり暮らしだった。

 ひどい父親のエピソードはいつでも大笑いできるものだったし、実家にまつわるエピソードも大好きだった。

 なぜ一人暮らししないのだろう、とおそらく多くのファンが疑問に思ってきた。

 なぜわざわざお父さんの面倒をそこまで見るのだろう、と。

 家には引っ越しを難しくさせるモノがあったのかもしれない。



 高橋はかつて痴漢の冤罪事件にもあっていた。それも今ではネタになっていた。

 そういうことも含めて、高橋は本当に面白かったのである。

 高橋はファンにとって本当に近しい存在だった。身近にいるお兄さんだった。悲しい過去も色々あったけれど、それも知ったうえでそれを全部面白いエピソードにしてくれていた。

 だから、高橋が生み出す笑いは、ものすごく心をホッとさせるようなもので、すごく安心感のあるものだった。

 その分、今回の逮捕は、まるでどっきり番組やコントでも見ているような気持になるのでる。



 高橋は抑制的だった。いつでも高橋自身を押し殺しているようなところがあった。

 自分を常に卑下するところがあって、それにとても好感が持てた。 

 だからこそ、「ニコキン」で時々垣間見える彼の素の部分がとても面白かった。

 他にも隠していたんだね、本当の自分の一部を。



 今、僕たちは高橋の全体像を知りかけている。

 容疑が事実だとしたら、もしそうだとしたら、こうなる。

 ネタ合わせしたり、釣りに行ったり、潮干狩りに行ったり、ももクロのライブに行ったりした後、

 お笑いのライブに出たり、番組に出たり、バイトに行ったり、家でご飯を作ったりした後、

 彼は実家のあの軽トラックで、何度もエピソードトークに出てきたあの車で、高校に忍び込んで衣服を窃盗していたのか。

 嘘みたいだ。まるで嘘みたいな話だ。あんなに一生懸命働いていたじゃないか。あんなに一生懸命潮干狩りしていたじゃないか。



 食い意地が張っている、というエピソードで沢山笑わせてくれた高橋。

 「意地汚いことと窃盗は違います」って言ってたじゃないか(エレ片のコント太郎)。

 「パンツを盗んだことはありません」って言ってたじゃないか(バナナムーンGOLD)。



 犯行し終えた時、どういう気持ちだったのだろう。

 絶対にダメだと思ったからこそ、依存症になってしまったのだろうか。

 20年もの間、そんな自分をどうやって扱ってきたのだろうか。

 どうしてその話を「ニコキン」でしてくれなかったのだろうか。

 どうして、笑いに変えてくれなかったのだろうか。

 高橋はただいつものように俯きがちに謝るだけだろう。

 違う、そんな高橋が見たいんじゃない。沢山の悲しいことを笑えるエピソードに変えてほしいんだよ。ほら、いつもみたいに。

テレビ朝日「フリースタイルダンジョン」:ヒップホップへの偏見を超えて。これは芸術。

2015-12-15 18:11:27 | テレビとラジオ
 妻の知り合いにものすごくヒップホップに詳しい人がいて、その人が紹介していたのがこの番組。

 ヒップホップにはフリースタイルのMCバトルというものがある。

 ラッパーが即興でフレーズを繰り出し、1対1でお互いにメッセージを発して、どちらがより良いラップだったかを競う試合だ。

 それを地上波でやる、というのだから本当に挑戦的な番組である。



 しかし、さすがテレビ!と言いたい。この番組の趣向は実にすばらしい。

 この番組では、フリースタイルで有名なラッパー5人が「モンスター」となって挑戦者を迎え撃つ。

 この構造がとても見事。

 何がそんなに良いかと言えば、モンスターそれぞれのキャラクターがまるでマンガのような格好よさなのである。



 私のような素人で恐縮ではあるが、まず4名のモンスターのキャラクターを紹介したい。

 高校生ラップ選手権で名を馳せた若きラッパー、T-PABLOWに始まり、見事なストーリーテラーでユーモアに溢れるサイプレス上野、東京のアンダーグランドのボス、漢 a.k.a. GAMI、さらにフリースタイル・バトルの絶対王者で、名解説者としてもおなじみ、R-指定。

 とにかく、まずこの4人が見事。

 ラップには様々なスタイルがある。グルーブの作り方は本当に多様で、例えば、かっちりリズムに合わせるような古いスタイルもあれば、中南米の音楽の影響をはっきり打ち出すようなスタイルもあれば、ポリリズムのパーカッションのようなものもある。

 フリースタイル・バトルの場合、歌詞の内容は基本的に相手を引き下げ、自分を引き上げるものが多いが、それでも自分の生い立ちや、相手との関係をストーリーにすることもあれば、色々な言葉、形容詞から固有名詞までを織り上げて、言葉色鮮やかな世界を展開するものもある。あるいは、徹底して下ネタに行く場合もある。

 スタイルが違う以上、バトルではジャンケンのようなことが起こる。相性の良し悪しがどうしても出るのだ。

 4名のモンスターはそれぞれまったくスタイルが異なり、しかも、はっきりと己のスタイルを打ち出し、すでにリスナーの間では有名になっている。私のような素人ですら、全員知っているくらい有名だ。

 彼らがそれぞれの武器を使って、次から次へと来る挑戦者を倒したり、負けたりする。

 一瞬の勝負ではあっても、勝ち負けにかかわらず、彼らのキャラクターが爆発し、面白いドラマが起こる。



 調子の良い時と悪い時の差が激しいT-PABLOWが覚醒した時の格好よさと気持ちよさ。

 漢 a.k.a. GAMIのものすごく威圧的な風貌と、現実主義を標榜するクールなリリック(詞)。敵だと怖いけど、味方だと思うと、すごく安心感がある。負け方も男らしさ全開で、ハードボイルド。

 ハードボイルドな雰囲気のなかで、とにかくキャラとリリックのユーモアが視聴者にとって嬉しい、サイプレス上野。大好き。

 そんななかでも、とにかくR-指定のキャラクターが萌える。明らかにインドアで文化系のキャラクターの彼が、圧倒的なスキルを発揮し、圧倒的に格好よく勝つ(負けてもカッコ良い)。

 

 この4人の上に立つのが、般若だ。

 鍛え抜かれた肉体。圧倒的なオーラ。ヒップホップの(良い意味で)汚い側面を見事に表現するスキル。

 ヒップホップそのものを文字通り体現する人物と言っても過言ではない。

 フリースタイル・バトルからは引退していたはずの彼がこの番組に登場したこと自体があまりにも事件であった。



 こうしたキャラクターの配置が少年誌的マンガの構図なのである。

 本当にカッコいい。しかも、そこに人間のドラマがある。それを最小限の言葉で表明する。

 テレビの画面を通じて、視聴者の心に突き刺さる。



 確かにヒップホップのスタイルは、なかなか日本の大衆に届きにくい側面がある。

 前にも書いたが、お互いを徹底して批判し合うのがどうしても馴染みにくいのだ。

 しかし、本当に良いバトルになると、そうした批判は「芸(art)」に昇華されたものになる。きわめて文学的なのだ。

 番組で審査員を務めるいとうせいこう氏が、その辺りを見事に解説してくれるのも嬉しい。

 ヒップホップが苦手な人も、そこのレベルのバトルには必ず感動するはずだ。



 ヒップホップのパイは小さい。リスナーは限定されている。

 だからこそ、有名なラッパーがテレビで「モンスター」という非常に難しくリスクの高い役割を引き受けてくれたのだとも思う。

 この番組は本当に素晴らしい取組みだ。

 それがなんとユーチューブの公式チャンネルで最初から全部見られる。

 どういう仕組みなのかは分からないが、見事なメディア・ミックスである。

テレビ朝日「タモリ倶楽部 世界の餃子」:餃子と呼ばれると怒る人もいる

2015-12-12 17:25:17 | テレビとラジオ
 タモリ倶楽部で世界の餃子を紹介していた。

 世界には中国の餃子にそっくりな料理が沢山ある。

 正確に言えば、ユーラシア大陸全体に餃子そっくりな料理が散在しているのだ。

 ここで言う「餃子」とは、練った小麦粉の生地で具を包み、加熱するという調理方法を指す。特に茹でるものが多い。

 タモリ倶楽部で紹介されたのは、ベトナムのハーカオ、ネパールのモモ、モルドバのペリメニ、モンゴルのバンシタイツァイ。ここまではユーラシア大陸。さらに北アフリカ、チュニジアのブリックまで。



 小麦粉を常食とする文化である限り、餃子そっくり料理は不可避と言っても良い。

 紹介されてはいないが、イタリアのラビオリも餃子に似ているし、トルコにはマントゥがある。

 今回、ペリメニはモルドバの料理と紹介されたが、ロシアの料理として紹介されることも多い。というか、おそらくそちらの方が多い。

 つまり細かい違いは色々あるが、乱暴に言えば、餃子だらけなのだ。



 僕も昔、ロシアからの留学生が作ったペリメニを食べたことがある。

 当然、多くのアジア系の人間が「餃子!」と言ってしまうのだが、彼女は断固として「これは餃子ではない!ペリメニ!」と主張していた。

 それぞれの文化圏にはそれぞれのプライドがある。発祥を競う意識もある。

 簡単に「餃子!」でまとめると、失礼になる場合があるので注意したい。

 ちなみに、番組で紹介されていた通り、日本の家庭で作られる餃子は中国の一般家庭で作られる餃子と結構違うので、そういう細かい違いも知ると面白いものである。

TBS「アニメ 幸腹グラフィティ」:孤独のグルメではなく、「家族」の料理の復権

2015-12-11 09:47:36 | テレビとラジオ
昨日は「アジのなめろう」を作って、それを冷汁にするという料理を作った。

孤独のグルメで似たような料理が出ていて、妻がそれを再現してほしい、というのである。

妻は仕事が遅くなるということだったから、主な材料だけ妻が買っておいてくれて、僕がそれを作ることになった。

孤独のグルメではカツオだったが、ここではアジを使った。

アジはすでに三枚におろされていて、小骨の部分を切り取って刻んだ後、すりおろした生姜とネギ、それに味噌、醤油、酒と合わせて叩いていく。

冷汁用の出汁はカツオと昆布でとって、そこに味噌を溶き入れ、すり潰したゴマを加える。

それを冷ました後、冷蔵庫で冷やしておく。

お米も土鍋で炊いて冷ましておき、食べるときにお椀によそって、なめろうと大葉などの薬味を乗せ、出汁をかける。

これがめちゃくちゃ美味いのだ。



でも、普段はこんな料理は作らない。自分一人のためにそんな料理をする気にはどうしてもならないのだ。

孤独のグルメは決して自分では料理を作らない。

都会でご飯を一人で食べるなら、やっぱりちょくちょくお店で食べたくなるものだ。

実際、誰もが仕事で忙しいのだし、経済的にもその方が効率的な場合すらある。



でも、やっぱり僕は料理を作ることがとても好きだし、大事だと思っている。

そんなことをポツリポツリと考えていた時に、アニメ「幸腹グラフィティ」を見た。

主人公は中学生の女の子。一緒に住んでいた祖母が亡くなってしまい、一人暮らし。

彼女はとても料理が上手なのだが、あまり自分の料理を美味しいと思えなくなっていた。

そんな時に、友人たちが来て、一緒に食事をするようになって、色々な料理を作る・・・という話。

シリーズ構成・脚本は、信頼の岡田麿里。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などで有名な脚本家だ。

このアニメは、料理は誰かとコミュニケートするための重要な媒介であり、人間の幸福につながる重要な手段であると示唆する。



料理番組がいかに簡単に美味しいご飯を作るか、ということを主要なテーマとする時代に、このアニメは丁寧に料理を作る。

「手間をかければかけるほど、料理は美味しくなる」という、日本社会の現状に逆行するテーゼを「おばあちゃんの思い出」というシンボルを武器に主張する。

そんなおばあちゃんは基本的にもうほとんどいない。割烹着を着たり、着物を着たりするおばあちゃんは、2000年代に入って確実に絶滅した。

しかし、それでもこのアニメは物語の序盤では、そんな「ニホンオオカミ」みたいなおばあちゃん像とともに、丁寧な料理を作る人間を再度描く。

だが、それは決して時代錯誤の女性像ではない。(そして実際、物語は自らこの「料理の得意なおばあちゃん像」をぶち壊すのである。)

ここは重要なところで、このアニメは個食が当たり前になった日本社会で、もう一度、料理を作る意味を問い直すという前向きな話なのである。

いわば、これは「スローフード」。食事をめぐる時間の使い方とコミュニケーションこそが大事なのだ。

この物語の重要人物、主人公のハトコのキリン(女子)は、第一話で主人公に向かって「私が家族になってあげる!」と叫ぶ。

すなわち、「家族」というものを決して狭い意味で捉えず、人間同士のつながりそのものとして考えるのである。



このアニメは、女の子同士がやたらめったらイチャイチャする。そして、料理を一緒にして、ご飯を一緒に食べる。

誰かと一緒に暮らすことで生まれる絆をもっとリラックスして捉えるべきなのだ。

ジェンダーや社会制度なんていう堅苦しいものを全部すっ飛ばして、もう一度、人間の在り方を捉えなおすべきなのだ。

そして、原子化した社会はそれを求めている、と僕は思う。

シェアハウスがひとつの社会的な現象になっているのも、そういう社会的なニーズの現れではなかったか。

「料理」はそのことを考えるうえでの重要なキーワードだ。

アニメ「幸腹グラフィティ」はそのことを教えてくれている。