それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「しくじり先生 元大事MANブラザーズバンド 立川俊之」:40歳を過ぎた時のポップスの意味

2015-01-31 09:54:08 | テレビとラジオ
先日放送された「しくじり先生」が興味深かった。先生は、元大事MANブラザーズバンド の立川俊之。

「それが大事」のヒット曲のみで知られる彼だが、そのヒットが出たことで何が起き、どのようにしくじったのかを明らかにした。


興味深いのは、立川が「大人になるとCDを買わなくなるのは、共感できる歌が減るから」と主張したことだ。

ポップス(特に90年代)のメッセージは非常に単純で、その代表的なものが、①I Love You、②夢をあきらめない、である。

「それが大事」は、どちらかと言えば後者に属する。

しかし、立川は言う。

人生色々経験して、こうした歌詞は共感できないきれいごとになってしまう、と。

だから、「何が大事か分からなくなってしまった」のだと言う。


これは確かに正しい部分がある。

アジアンカンフージェネレーションの後藤正文は、ソロアルバム「Can't Be Forever Young」を発表した際のインタビューのなかで、アジカンのこれまでの楽曲を果たして40歳を過ぎてもなお歌い続けられるのか疑問に思った、と語っている。

いつまでも色恋や夢の話、そこまで言わなくても、若者的な人生観を若者風に歌うのは、おじさん・おばさんになった後では、難しいのかもしれない。


歳をとると演歌にはまる、という意見もある。

演歌には、年齢を重ねた人間が共感できる歌詞が少なくないのだろうか?

それは分からない。

ただ少なくとも、中年を過ぎて壮年に入る頃、リアリティをもって聴ける歌をわれわれが常に欲している可能性はあるだろう。

では、それは一体どういう曲なのか。

まだ、分からない。なぜなら、私はまだその年齢には至っていないから。

普通な子の平凡で退屈な日常の断片

2015-01-28 14:56:39 | ツクリバナシ
 とにかく僕は携帯を手に取って、ツイートした。

 「まるでテレビでみんなが言うように、彼女はやっぱり、ごく普通の礼儀正しい子。だったのかな?」

 それが夕方、あの事件のことを聞いて、僕が最初にとった行動だった。

 同級生のNが誰かの命を奪ったらしい。本当か?と思いつつ、そのことを僕はどう受け止めれば良いのか分からなかった。

 母さんは、「Nちゃん、一体どうしちゃったんだろうねぇ。」と、まさに全く理解不能ということで考えることを止めてしまっている様子だった。

 父さんは何て言うのかな。などと考えて、それから、まあ自分だったら誰を狙うかな、とか、自分のなかにそこまでの気持ちはあるのかな、とか、色々堂々巡りしながら考えていた。

 部活や友達のLine上での会話も、まあその件でもちきりなんだけど、僕はそこに何て書き込んで良いのか分からなかった。

 むしろ、どうしてもちょっと不安になって、それで数少ない女友だちのCに電話した。

 Cは女子のなかでも、ちょっぴり浮いていて、なんだか飄々としている感じがして、僕はシンパシーを勝手に感じていた。

 Cとは高校1年の時の学校祭で同じ係になって、その時に自分でもあんまり人に話したことのなかった、抽象的で内省的な話をどういうわけ彼女にしてしまい。でも、それをCが何となく理解したので、僕は彼女を友達認定したというわけなのだ。

 それからメールしたり、あるいはごくごくたまに電話するような間柄になった。

 何ていうか、蛇の道はヘビっていうか(使い方、違うかな)、Cなら何かヒントをくれるような気がしたのである。

 「もしもし、C?元気?」

 「あぁ、うん。どうしたの?」

 「えーと、今時間ある?」

 「Nの件?」

 「そうそう。よく分かったね。」

 「まあ、ねぇ。」

 僕らはお互いが持つ数少ないNの記憶を寄せ集めた。

 残酷なアニメとかマンガの話をしていたとか、洋の東西を問わず、殺人鬼の話を半笑いでしていたとか。

 成績は結構良くて、それも数学とか生物とか、結構得意だったとか。

 家族には確か妹がいたとか、お父さんは公務員か何かだったとか。

 でも、それは全然大したことじゃなくて、そんな話、誰にでも当てはまるような普通のことだった。

 誰だって自分が何か特別な存在だと思いたいわけで、それが架空の世界やファンタジーに飛ぶと、まあ中二病だと呼ばれる。
 
 でも、Nはもしかしたら、猟奇的な殺人鬼だったのかな、平凡な日常に隠れている殺人鬼ってやつ。

 Cは「さあ、どうかな」とだけ言った。

 僕らは大した結論もなく、その日の電話を切った。



 電話を切ったあと、「誰かが「永遠の日常」って言葉を教えてくれたな、なんかの本だったかな」などと思い返していた。

 僕はいつも思う。全く自分の世界に特別なことがなく、つまらなくて長い日常が一生この後も続くのか、それで自分の周りにいるバカみたいな人たちと永遠に無理矢理仲良くして、紛れ込んで、目立たないように生きていかなければいけないのか。

 そういう強迫観念からの、ささやかな抵抗をみんな、何かしらしたがっている。
 
 そういう構造だって分かっていることが、僕のせめてもの抵抗で、そのことをCも分かっているので、僕らはなんだかクラスのどのグループに対しても、醒めてしまっていた。



 その日から、とにかく学校中、ところどころで常にNの話題だった。

 聞きたくなくても、Nのエピソードはどんどん耳に入ってきて、それがもう真実なのか嘘なのか、まるで確かめようがないレベルのものばかりなのだが、毒入りのジュースを作っていただの、人間の解体の方法をノートにまとめていただの、化学や生物のマニアックな本を持っていただの、野良猫が殺された事件あったけど、あれ、やっぱり・・・とか、とにかく、ありとあらゆる適当な話で盛り上がっていた。

 それである日、たまたま部活の帰り、Cに出くわしたから、僕らは最寄りの駅まで一緒に歩くことにした。

 「あの事件でもちきりだね。」僕はCに話しをふった。

 「うん。なんかなぁー。」Cはめんどくさそうに答えた。

 「あの話するの、嫌?」

 「ネタなんだよね。結局。」Cはいよいよ面倒そうだ。

 「ネタ?」

 「どうでもいいんだよ、結局。」

 「というと?」

 「誰がやっても、やられても。ちょっと知ってるから刺激的なだけ。彼女がつまらない世界から脱出しようとして全力を尽くしたことを、みんなで消費してるだけ。」

 考える時間が欲しかった。Cの言っていることは分かるような気がしたけど、腑に落ちないような気もした。

 僕も批判されているのだろうか?Cに嫌われるのか?なんだか、そっちの方が心配になってきた。

 少しだけ、僕らの間に沈黙が続いた。駅まではまだある。

 日はとっぷりと暮れかけている。

 僕の頭はNのことを語るCのことでいっぱいになって、僕らの間の特別な世界を守らなくちゃという感覚で、沈黙を街全体にかぶせるような気持ちで、何もできないまま、何も思いつかないまま、ただ歩いた。

 「彼女、普通なんだよ。あまりにも普通で、それがびっくりするほど、怖かったんじゃないかな。」

 Cは静かに、僕にだけ聴こえるように言った。と思う。

 「普通?」

 「優しいお母さん、優しいお父さん、仲良しの妹。そこそこ頭の良い自分。悲しい境遇でもなければ、特別な力もない。狂気もなければ、底抜けに明るくもない。友達も多くないけど、いないわけじゃない。だから、普通。」

 「でも、人殺しちゃったら普通じゃないでしょ。」

 「でも、普通だよ。」彼女は折れない。

 「よく分からないな。」と僕は呟いた。

 「ねぇ、今日、家にご飯食べに来ない?」

 その時の僕の衝撃。まさか女友達とはいえ、家に誘われるなんて、もう胃の中のものが込み上げてきて、顔が熱くなって、毛穴という毛穴が開いたみたいになった。

 話があまりにも急で驚いたのだが、しかし、そんなことに戸惑っていてはいけない。

 「え?いいの?突然だから、君の家族とか、特にお母さんとか、困るんじゃないのかな。」

 「大丈夫だよ、別に。」

 そうか、大丈夫か。っていうか、どうしたんだろうとは思ったけど、そんなことより、僕の人生のまさかの転機ではあるまいか、としか思えないこの状況。

 僕は携帯で家にすぐ電話した。

 母さんが出た。

 「あぁ、僕だけど。あのさ、部活のやつらとご飯食べることになったんだけど、いいかな。」

 「あ、そう。分かった、どうぞどうぞ。」

 嘘つくのはちょっぴり嫌だったのだけど、本当のことを話す気にもなれず、僕は咄嗟にまともな架空の理由をでっち上げた。

 僕は彼女に付いていき、いつも降りる駅の手前の駅で降りた。

 そこははじめて降りる駅で、ちゃんとひとりで帰れるように、出来るだけ道を覚えるように辺りを見回しながら歩いた。



 彼女の家は、マンションの2階の部屋だった。

 「ただいまー、友達連れてきた。」

 「おかえりー」と言って出てきたのは彼女のお母さんだった。手にはワインボトルを持っている。

 僕は料理でもしているのかと思ったのだが、Cのお母さんはそのボトルをそのまま口に持っていき、ごくごくと美味しそうに飲んだ。

 僕はそんなワインの飲み方をしている人を初めて見てしまったので、驚きが思わず顔に出ていたと思う。

 「あら!男の子じゃないの。はじめましてー。」

 「どうも、はじめまして。」と言って、僕は自己紹介をした。

 お母さんは笑顔を絶やさず、しかし、確実に酔っぱらっており、僕はその戸惑いを隠しきれないまま、キッチンに向かった。

 「はい、今日はお鍋よ。ちょうど良かった。沢山出来てるから。友達が来るなら、言ってよCちゃん。ケーキのひとつでも買ったのに。」Cのお母さんは、テンションが高い。

 僕は手を洗ってから、なんとなく部屋全体をながめつつ、キッチンの食卓テーブルの席についた。

 いただきますと所在無げに言ってから、よそわれた鍋を一口、口に運ぶ。

 思わず吐きそうになった。

 これほどマズイ鍋を食べたことがなかった。

 何で味付けしたのか分からないけど、とにかく旨味がなくて、酸っぱくて、ちょっと辛くて、遠くの方で苦かった。

 僕はよそわれた鍋を精一杯食べ、なんとか食事は終わり、彼女に付いて彼女の部屋に行った。

 もちろん、すごくドキドキしながら。


 
 「まずかったでしょ?あの鍋。」

 彼女はくすくす笑いながら僕に尋ねた。

 僕は思わず、「え?」と聞き返してしまった。

 「嘘つかなくていいの。あれ、すごいでしょ。」

 彼女は笑っている。作り笑いじゃなくて、本当に面白がっている。

 「うーん、そうだね。未知の味だった。今まで食べたことがない味。」

 「お母さんね、アル中で、味音痴で、しかも、たまにワンワン泣いたり、多少暴れたりするの。ウケるでしょ?」

 ウケない。全然ウケない。どこも笑えない。

 僕は平静を装って、そして全く装えないまま、

 「あー、そーなんだー」と返した。

 「ああいう人ってさ、普通じゃないでしょ。っていうか、病人でしょ。」

 僕は頷くでも頷かないでもない感じで、漂っていた。

 「小さい頃は本当に嫌だった。でも、グレるのも違うなって思ってて。」

 僕はまだ漂っている。

 「で、思うんだよね。ああいう人って、最悪だけど、人殺したりしないんだよね、案外。

 あんなに感情の起伏が激しくて、めちゃくちゃなのに、結局、普通にお酒飲み過ぎで、倒れるように寝るだけ。」

 彼女は僕が聞いているのを確かめようとしない。

 「だから、分かるの。Nは普通。普通のオーラが出てるの。

 この世界のルールから逸脱したいとか、そういうことを考えてるのが伝わるの。

 痛々しいだけで、全然ふつう。つまらないくらい。」

 彼女はそこで少しだけ黙った。

 そして「紅茶、飲める?」と僕に聞いた。僕は静かに頷いた。



 彼女が出してくれた紅茶は少し渋くて、でもこれが紅茶というものなんだろうと僕は思いながら、ずるずると飲んだ。

 「一か月くらい前かな。友達とNの話題になったの。」彼女が話し始める。

 「へー。どういう話題?」

 「友達がさ、Nは変わってる。危ない子じゃない?って言ってきたわけ。」

 「ほー。鋭い、わけではないのかな・・・。」僕は迷ってばかりいる。

 でも、彼女は気にしない。

 「それでね、私思わず、普通でしょ。どう見ても。普通のオーラしか感じないって言ったの。しかもちょっと声張って。」

 「それで?」

 「そしたらさぁ、Nがいたんだよね。遠くに。たぶん、聞いてた。私の話。」

 沈黙。彼女の声はそこで途切れた。

 僕は彼女の顔を恐る恐る見た。

 彼女はうっすら涙を浮かべていた。

 それから、そっと両手を顔にそえた。

 それから、ゆっくりと嗚咽しはじめた。

 僕は分からないけど、なんだか分からないけど、恐々と彼女を抱きすくめた。



 それからもう何分、何十分経ったか分からないけど、僕らはゆっくりと、そおっと離れた。

 それから、なんだか分からない複雑な、苦いような、甘酸っぱいような、吐きそうな気持になって、

 それでなんとなく「そろそろ帰るわ」と僕は彼女に告げた。

 彼女は「うん」とだけ、言った。

 彼女が途中まで送ってくれた。でも、僕らは何も一言も話さずに、最後に「じゃあ、またね」とだけ言って別れた。

 僕は帰りの電車のなかで、今日のことを振り返ろうとしたのだけど、ただとにかく、彼女を抱きすくめたときの、感じたことのない華奢な骨格と筋肉のことばかり浮かんできて、それですぐにいつもの駅の風景になってしまった。

 とても大事なことを聞いたような気がして、それで、そのことをもっと真剣に考えなきゃいけないような気がしていたのだが、その日、僕は眠りにつくまで、指先から腕、そして胸のあたりに感じた、あの柔らかな感触のことしか思い出せなかった。 //

TBS「時間がある人しか出れないTV」:数字でバラエティを考える視角の意味

2015-01-28 08:47:42 | テレビとラジオ
「時間がある人しか出れないTV」の視角が面白い。

今回の企画は、「年末年始のテレビ番組で誰が一番笑いを取ったか調査する」であった。

調査の基準は「誰が見ても笑った場面」を1カウントとし、その状態を惹き起こした人に1ポイント入る。

ポイント数の合計でランキングをつけ、その順位を発表していく。

調査員は若手の芸人さん4人。

この調査法がどこまで客観性を担保するのかは置いておこう。

重要なのは、この企画の前提にある。

すなわち、「笑いを起こした『数』が多ければ多いほど、優れたTVタレントかもしれない」という考えである。

これは「質」ではなく「量」に注目する。

もし質に注目するならば、いよいよ判断が主観的にならざるを得ない。番組構成全体から判断するなど、基準は難しくなる。

これに対して、量に注目することで、判断が相対的に言って、より客観的になる。

量に注目するのは、こうした実践的な理由からだけではない。

お笑いのコンテストの幾つかでも、笑いの数を基準にする傾向がある。

これは長らく言われていることだが、M1やThe Manzaiなどではボケの数が勝敗を決める主要な要因になっているという(それを受けて、方向性を変える機運も出ている)。

それに合理性がある。笑うまでに長い時間(フリ)を必要とする場合、視聴者はチャンネルを変える可能性があるからだ。

だから、笑いを数でカウントするのは、メディアの性質として当然と言えよう。

そもそも番組の生存を決める「視聴率」も数(=視聴している人数)なのだ。



だから笑いの数が多ければ良い、という考え方は決して間違っているとは言えない。

この番組で、その基準からトップ3になったのは、

「1位 明石さんま  2位 松本人志  3位 出川哲郎」

であった。

これは直感的にも決してそう遠くない結果である。

特に出川哲郎がトップ3に入ったことは、非常に重要である。

つまり、芸人のなかでもキャリアが相当にありながら、いつまでも若手に近い立ち位置の彼が、実はものすごく多くの笑いを取っているスターだということを証明してしまったのである。

それはある意味、証明してはいけないことでもある。

つまり、出川は大したことはない存在として出ることによって、そのキャラクターを確立しているわけで、実質的な立ち位置(=真のビッグ3)を暴露するのは、必ずしもプラスかどうかは疑わしいのである。

出川自身にとって有意義がどうかはともかく、この結果は興味深いし、ある程度の説得力がある。



とはいえ、「笑いの数(量)」に注目することには、決定的な弱点もある。

最大の問題が、「面白い」の種類が限定され過ぎることである。

われわれが頬の筋肉を痙攣させるのが「笑い」だとしても、それ以外にだって「面白い」は存在する。

例えば、落語の人情話。これは笑いだけではなく、人間の機微そのものが面白いのである。

あるいは、言葉に出来ない我々の日常的な感情を適切な言葉で表現し、人々を「納得」させる、という面白さもある。

思わず「なるほど!」「よく言ってくれた!」「うまい!」(=座布団一枚)も「面白い」ことに入る。

このように「笑い」と他の「面白い」が結び付くことで、エンターテイメントは深さと奥行きが増す。

笑いの数だけに限定する考え方は、芸能を一面的なものにし、結果的に多様性を奪い、一過性の表層的なものにしかねない。



そうした問題点を認識しつつも、この「笑いを数(量)で考える」という視点はきわめて重要である。

その視点によって、我々は視聴者としての先入観から多少自由になることが出来るからだ。

これから、まずますこうした「数」の視点は重要になるだろう。

特に音声認識や映像認識の自動化が浸透すれば、それは視聴率とともに番組の質を測る基準のひとつになりえるかもしれない。

都築響一「ヒップホップの詩人たち」 大学生はまずこれを読め

2015-01-12 07:56:54 | テレビとラジオ
こんなに夢中で読んだ本は最近なかった。

仕事柄、本を読むことに相当な時間を費やす。だから、私にとっては、趣味の時間も本を読むのはなかなかきつい(そうじゃない研究者もいる)。

だが、この都築響一「ヒップホップの詩人たち」は、もう圧倒的なまでに面白くで、あっという間に読んでしまった。

頁数は結構ある。確かに分厚い。けれど、そんなことはまったく関係ないくらいの速さで読んでしまう。

これは妻がプレゼントしてくれたもので、僕はその存在すら知らなかった。



この本は、日本のヒップホップシーンのなかで活躍する(した)、あるいは活躍を期待されるラッパーたちの半生に関するインタビューと、彼らの作品(つまりラップ=詩)を紹介する。

しかし違う。違うのだ。この本は、ヒップホップにそれほど縁の無い読者諸氏が想像するような内容ではないのだ。

これは社会で上手く生きていけない人々が、どうやって必死に生きてきたのか。それを幾重にも描く、渾身のルポだ。そう言った方が実際の読後感に近い。

恵まれない家庭のなかで非合法な世界にどっぷり浸かった人や、引きこもりになって、まったく家の外に出られなくなってしまった人。

親から奇妙な個性を押しつけられて、アイデンティティが歪んでしまった人。

自分が抱いた夢に苦しみながら、それでも生きていこうと必死で格闘し続けた人。

ラップという現代詩は、とてつもない可能性に満ちている。

形式化され、形骸化した芸術ではなく、今そこで呼吸し、少数者たちの熱い気持ちをエネルギーにして成長しているヒップホップ。

この本は単にヒップホップのパイオニアから無名の新人までを紹介するだけでなく、文字通りの「サブカルチャー」の出現を明らかにするものだ。



日本の「サブカルチャー」という言葉は、少々奇妙で面白いものだ。

日本の場合、サブカルは必ずしも社会的分裂や抑圧を伴わず、どちらかと言えば、ある種のユースカルチャーに近いものとして捉えられてきた。

だが、社会科学の研究で登場するサブカルチャーは、階級や民族・宗教などの社会的分裂に伴って出現する。すなわち、排除や疎外といった権力関係と切っても切り離せない。

この都築響一「ヒップホップの詩人たち」は、ラッパーたちの半生を描くなかで、社会的な排除や疎外を浮かび上がらせる。

主要なメディアに登場しない、取り上げられない、取り上げられても歪んで扱われる日本のヒップホップシーンは、実際には本物のサブカルチャーだ。



少々小難しいことになってしまったが、そんなこと忘れてほしい。

この本をまず手に取って見てほしい。

とりわけ、大学に入学したばかりの人や、生き方に迷った人は、ぜひともこの本を読んでほしい。

この本では、苦闘の末にヒップホップの言葉を手にした、素晴らしい先達の生き方を学ぶことができるのだから。

付言しておくと、この本には筆者である都築氏の、日本のヒップホップ、ひいては音楽への深い愛情に溢れている。本当に心が打たれるほどの愛情の深さ。

この筆者だからこそ書くことができた本であることに間違いない。

テレビ東京「共感百景」:人間の孤独と滑稽さを共有する行為

2015-01-03 01:25:38 | テレビとラジオ
テレビ東京の「共感百景」が今年も面白かった。

気鋭のクリエイターと芸人たちが、人が思わず「あるある」と共感してしまう場面や心情を短い「詩」にして描く。

一年に一回のこの番組。昨年も観た。そして、今年も観た。



いくら一緒に居ても、いくら写真を送りつけたり見せつけたりしても、人間は心情を共有できるわけではない。

結局、言葉を尽くしてコミュニケーションする以外に、主観を他者に理解させるのは不可能だ。

そういう意味で、人間は徹底して孤独であり、だからこそ、自由でもある。

共感百景は、この徹底して孤独な人間が、別の孤独な人間と瞬間つながることが出来る言葉の力を示す。

例えば、昨年の能町みね子の作品(テーマは東京)、

「お前は自らの意志で上京したくせに 人ごみは嫌いなどとぬかす」

読者はこの言葉のなかの「言う側」でもあり、「言われる側」でもある。

「上京と人ごみ嫌い」に限らず、我々は絶えず、能町が指摘するような「自意識の矛盾」を抱えている。

仕事やめたいと言いつつ、その仕事を始めたのは自分。結婚できないと言いつつ、パートナーのハードルを徹底的に引き上げるのも自分。自分のプライバシーを守ろうとしながら、ネット上にせっせと自分の情報をアップロードし続けるのも自分。

そうした矛盾はしばしばナルシスティックで、ともすれば、滑稽である。

だが、いかなる人間もそこから逃れることが出来ない。

それが人間なのだから。



今年の作品では、トリプルファイヤー吉田の(テーマは思春期)、

「塾でのおれが 本当のおれ」

がまた興味深い。

人間は様々な「社会」を生きる。仕事上の私、家族のなかでの私、地元の友人のなかでの私、大学時代の同級生のなかでの私など。

そのそれぞれの社会のなかで、それぞれの人格があり、それらは決して一貫しない。

それぞれを比べたり、同じ土俵に置くと、人間は途端に破綻する脆い存在だ。

思春期や塾に限らず、人間はずっと「あるべき自分」という幻想のなかで、一貫せず矛盾したまま、なんとか自己意識を維持しようと足掻く。

自分の像を格好よく見せびらかすために、他の「社会」で、自分の他の「人格」をでっち上げる。

あるいは、自分が唯一ヒーローでいられる「社会」を他の社会から隔絶させる。

どれも、可愛いくらい滑稽で、バカバカしいくらいに必死だ。



こうして、共感百景は短い言葉で、人間の本質に突き刺さる「あるある」を連発していく。

自分の孤独でバカバカしい戦いは、他の主観と共有され、笑いを誘うことで、ほんの少しだけ報われる。

人間の孤独を確かめながら、同時に、その孤独を共有することで、孤独からほんの少し解放される。

このように、番組はのんびりした空気感のなかで、誠実な言葉を紡いでいる。

この番組を週一にして欲しいとは言わない。

だが、せめて半年に一回は見たいものだ。