それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

めちゃイケが終わって、何が終わったのか

2018-03-31 23:34:25 | テレビとラジオ
今月は、めちゃイケの過去の企画を色々見返していた。

びっくりするくらいユニークで面白い企画も沢山あった。

どんな企画会議だったのだろう、、と想像したくなる。



Twitter上でも話題になっているが、めちゃイケはBPOを通じたテレビのコンプライアンスが一般化し始めたとき、最初に取り上げられた番組のひとつだった。

批判された「しりとり侍」は、ひとりの人間を袋叩きにする場面が面白いとされる以上、リンチを社会的に肯定するというメッセージになっているという指摘だった。

2000年代以降は、とにかくコンプライアンスが厳しくなると共に、テレビが多様な批判を受ける時代になった。

暴力や虚偽はダメという倫理的なものから、「友情は国境を越えない!ウソをつくな!」という政治思想的なものまで、ありとあらゆる批判が吹き出している。



コンプライアンスがバラエティを殺す。という話は沢山ある。

しかし、コンプライアンスを新聞やテレビで真正面から批判する人はごく少数で、反論は匿名や無名のネットに限られている。

なぜなのか。

それは、テレビ局も企業だからだ。

私やあなたの働く会社が取引先や顧客の顔色をうかがうのと一緒だ。

沢山のクレームが来れば、たとえ少数でもソンタクする。

そこに少しでも正論があれば、すぐに引き下がる。

コンプライアンスは企業一般の話で、テレビだけに限られない。

特に消費者を直接相手にする企業は、より敏感になる。



だから、めちゃイケは終わるが、コンプライアンスは終わらない。

誰が何を言っても、無駄だ。

だから、コンプライアンスをどうにかしようとするのは、

あなたや私が自分の働く企業の方針を大きく変えるのと同じように不可能である。

開き直るしかない。

コンプライアンスで失われるものもあれば、得られるものもある。

BPOのおかげで、デマや詐欺を流した番組は表だって止められるようになった。

コンプライアンスをネタにした笑いもある。



もし放送の規制から逃れたいのであれば、Amazonプライムなどの有料のネットコンテンツしかない。

つまり、公共性をあまり持たない番組なら、望み通りのエロでも暴力でも可能だ。

このやや奇妙な役割分担はもうすでにあるだけでなく、これからもっと激しく、明確になるだろう。

ネット番組なら、すでにデマでもフェイクでも何でも流れている。

それがもっとずっと有り難がられ、それぞれ自分の正義感を満たしていく時代になるだろう。



ただ、この役割分担は、社会そのものを分断し、公共圏をいつか食い潰すだろう。

めちゃイケのコンプライアンスが牧歌的でかわいいものだったと回顧する時代がすぐにくる。

私たちは批判もクレームもやめられない。ネットもやめられない。

政治をめぐって宗教戦争みたいなことになっている日本社会は、

あらゆる領域をその宗教戦争のフィールドに変えるだろう。

放送業界の自由化が進めば、

極端な民族主義者、人種主義者、ホモフォビア、

その逆のコスモポリタン、反人種主義者、クイア主義者、

入り乱れて殴り合い、テレビは戦場になる。



めちゃイケを終わらせたのは、視聴率の低下だ。

ただそれだけだ。

けれど、それとは別に、バラエティの公共性そのものも、実は瀕死なのかもしれない。

テレビが面白くなくなっているのではなく、

私たちがテレビを面白がれなくなっているのだ。

現状はまだテレビは面白い。面白がる努力さえすれば。

それもいつまで持つかな。

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