それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

TBS「水曜日のダウンタウン:アフリカ人ならどの国のアフリカ人だか分かる説」:僕たちの人種主義

2016-05-08 23:35:33 | テレビとラジオ
 TBS「水曜日のダウンタウン」で「アフリカ人ならどの国のアフリカ人だか分かる説」という放送が非常に問題含みだった。

 これは単純な批判の話ではないから、慎重に読んでもらいたい。

 番組では、ヨーロッパ系の人に他のヨーロッパ系の人たちの出身国を「見た目」だけで当てさせるとともに、同じことをアフリカ系の人たちでも行った。



 東アジア系の人がヨーロッパに行くと、必ずと言ってよいほど、出身国を言い当ててもらえない。

 そもそも、日中韓およびその他の国々について、それぞれの違いもあやふやで、なんとなく一緒だと思っている人がヨーロッパには多い。

 おそらくこうした現象はヨーロッパだけではないだろう。

 翻って我々の多くも、アフリカや中南米にまったく同じ状態である。

 アフリカや中南米の国の名前を聞いても、それがどこにあるのか皆目見当もつかない場合が多いだろう。

 その一方で、東アジア系の国々の違いには敏感で、見た目で国籍が分かるような気がすることもある。



 そうした見た目と国籍に関する「感覚」は、社会に広く存在している。

 さて、ここでもう一度欧米に話を戻そう。

 よく東アジア系の小さい子どもが欧米で言われる嫌なことに、こういうものがある。

 「釣り目が中国人、横に細長いのが朝鮮人、下に細長いのが日本人。」これをジェスチャー付きで囃し立てられるのである。

 あるいは、私の経験したものでは、通りすがり欧米人に「今の日本人。顔がそういう感じだった。俺は分かるんだ。」とひそひそ言われたこともある(イギリスで)。

 これらを聞いてどう思っただろう?

 何にも思わないだろうか。それともちょっと嫌な気持ちがしただろうか。



 逆のことを東アジア系の人も平気でやっていることも多い。

 「あの黒人、肌が白っぽいね。」

 「あの黒人、鼻が高くてヨーロッパ系っぽいね。」

 「あの白人、ちょっと色が黒くて背が低いからスペイン人かな。」

 こういうことを堂々と口にする人もいる。



 あるいは、こういうのもある。

 学校にアフリカ系の見た目の女の子が同級生にいたとして、

 「何人のハーフ?」と聞いてしまわないだろうか。

 あるいは「英語できる?」とか聞くこともあるかもしれない。

 彼らは見た目から決して日本人とは認められない。

 日本人の容姿は、すでに多くの人間のなかで決定済みらしいのだ。



 見た目で国籍や出身国を判断しようとするのは、人間の傾向としてかなり強い。

 だが、それは多くの場合、相手を不快にする。

 とりわけアジア系やアフリカ系は、見た目で人種差別されてきた歴史がある。

 疎外されたり、一方的に観察されたり、まるで実験動物か野鳥のようである。

 同じ人間として尊厳を認められなかった悔しさを、これまで数多の人々が感じてきた。

 

 何が言いたいのか。

 この企画は、日本人が無自覚な、あまりにも無自覚な人種主義的偏見を助長している。

 一見すると、アフリカ系の人がアフリカ系の人を見た目で判断しているため、軋轢が少なくなっている。

 では、これをもしヨーロッパ系の人がアフリカ系の人にさせたらどうなるだろう?

 それは植民地統治時代にすべて実験し終えている。

 おかげさまで、(とりわけアフリカでは)科学的根拠がまったくない人種主義に基づく紛争が各地で勃発し続けてきた。

 この企画の意図が純粋であるほど、これは大問題なのである。

 歴史的に言って、人種主義に基づく大虐殺は、常にそうした純粋さによって支えられてきたからだ。

 メディアはこうした間主観的な危険性に無関心であってはならない。

ダニエル・タメット「ぼくには数字が風景に見える」(講談社文庫)

2016-05-08 22:50:37 | コラム的な何か
 こんなに本にのめりこんだのは久しぶりだった。僕はこの本が読み終わらなければいいのとさえ思った。

 ダニエル・タメットの『ぼくには数字が風景に見える』は、そんなふうに思わせる面白さがある。

 これはサヴァン症候群、アスペルガー症候群、さらに共感覚をもつダニエルの半生を描いたノンフィクションである。

 アスペルガー症候群はいまや日本でも多くの人が知っている言葉で、おおよそどういうものか知っている読者も多いだろう。

 アスペルガー症候群について正確な情報を知りたい方は、この本や適切なインターネットサイトでチェックしていただきたい。

 大まかに言えば、アスペルガー症候群は自閉症のひとつのタイプだということである。

 アスペルガーの場合、他者とコミュニケーションをとるのが難しい。相手の意図や感情をなかなか正確に読み取れなかったり、社会的に適切とされる反応ができないことが多いそうである。

 ダニエルはその一方で、サヴァン症候群でもあり、これはある特定の分野で超人的な能力を発揮するものである。たとえば、ダニエルの場合、数字を記憶するのが異常に得意で、言語の習得も常人では考えられないほどの速度で可能だという。



 でも、そんなことはどうだっていいのである。いや、どうだって良くはないけれど、僕がこの本に感動したのは、そういうことじゃないんだ。

 この本は僕が記憶の奥に仕舞っていたことを沢山思い出させてくれた。

 誰でも、とは言わない。でも、きっと多くの人が自分のなかにダニエルに似た自分を持っている。僕はそう思っている。

 ダニエルは他者との距離や、他者の思考や感情を読み取るのが非常に下手だ。だから、ずっと孤独で、いじめられてもいた。

 相手を理解できない一方で、自分も相手を理解できない。

 また、ダニエルはあまりにも自分を持て余してもいた。色々な場面で戸惑い、パニックになり、傷ついてきた。

 生まれてからずっとそうだった。

 けれども、ダニエルは幸運だった。

 両親は決して裕福ではなかったが、しかし、ダニエルに多くの時間と愛情を費やして、成長を見守り続けた。

 泣き止まない赤ん坊のダニエルを辛抱強く子守し、ダニエルの関心がチェスに向けば、近所のチェスの集まりに連れて行き、彼がゲイであることをカミングアウトすれば、君には君の生き方があるからと言って、強く支えた。

 ダニエルは自分の武器である数字への強烈な愛着、記憶力、特殊な認識力、恐るべき語学力を武器に、何とか自立して生活できるよう挑戦し続けてきた。

 英語の教師としてリトアニアに住んだり、語学学習プログラムのインターネットサイトを運営したり、テレビの取材や講演の依頼を受けたり。

 ダニエルは多くの挑戦と、それを通じた出会いのなかで、友人やパートナー、理解者を見つけていく。

 孤独な世界から徐々に脱し、彼は世界とつながりを持ち、自立して生活を始めるのである。



 私もダニエルと似ている、と思ったことがいくつもあった。

 小さい頃、他人の行動のルールが分からないことが多く、一人でいることが非常に多かった。

 極度の方向音痴と(長距離の移動に対する)怖がりで、友人たちの行動について行けなかった。

 一方、教室では常に落ち着きがなく、多動性の傾向を担任から指摘されていた。

 また、ことあるごとに問題を起こす私のなかのどうにもならない自分をどうやって扱えばいいのか、ずっと悩んできた。

 私も広く言えば、自閉症スペクトラムの端っこにいる。

 もちろん、ダニエルのような超人的な能力はない。

 けれど、私の教育を熱心してくれた親や教員の多くは、私の個性を尊重してくれた。本当に幸運だったと思うが、その点でダニエルと似ている。

 また、故郷を離れて暮らすなかで、多くの出会いがあり、自分の理解者をたくさん発見できたのも幸運なことだった。

 この本は長い間、孤独と付き合ってきた人、今も自分自身と闘っている人、理解者を求め旅を続けている人に勇気を与えてくれる。

 挑戦を続け、旅を続け、考えることや感じることから逃げなければ、どこかに道が通じているのではないか。この本は確かにそう思わせてくれるのである。

 少なくとも私はそうだった。



 自閉症スペクトラムに位置していない人であっても、抱えている問題は多かれ少なかれダニエルのそれと共通しているはずだ。

 ゆっくりと自分を見つめ、他者を観察し、ひとつひとつ歩みを進めていく。ダニエルの半生はその勇気をくれる。