それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

原発事故の責任問題についての覚書:私の頭のなかは混乱しているが、しかし

2011-03-27 04:37:13 | 日記
以前このブログで書いたように、私は原発について考えることを一時凍結した。

今も事態は進行しており、この問題について書くことは時期尚早とは思うのだが、今一度、混乱しつつも二、三の点について書きとめたい。

これは今でなくてはいけない。



まず、今回の原発事故の責任の問題である。昨日の朝日新聞朝刊では、

斑目春樹(原子力安全委員会委員長)、

寺坂信昭(原子力安全・保安院)

鈴木篤之(日本原子力研究開発機構理事長)

三者による、「電源喪失などといった危機状況は想定できない」とする発言(2006~2010年)を指摘・批判した。

彼らに今回の事故の責任がどこまであるのか、これは重要な問題である。

一般的に言って、官僚と学者は責任の所在を問いにくい相手だ。

選択は政治家であり、官僚と学者はその補佐をする存在なので、通常責任を取るのは政治家である。

ところが、専門知識が不可欠で、一般人には理解困難な領域では、学者や官僚の権力は必然的に強まる。

両者は場合によっては政治家による選択肢を限定することが可能であり、場合によっては誘導することもできる。



今回の事故の責任を問うのはまだ早いと読者の皆様は思うだろう。

私もそう思う。

しかし、責任問題が今後うやむやになる危険性は非常に高い、

責任問題を回避して、今後の電力政策を市民が納得できるかたちで再決定することは不可能だ。



責任の所在については、言うまでもなく論争的だ。

上に挙げた三者以外に(あるいは彼らには全く責任が無いという意見もあるだろうが)、色々な人間を責任者とする意見が出てくるだろう。

私を含む一般市民は、豊かな電力を享受しており、原子力政策については暗黙の合意を与えてきた。

政治家の一部は、間違いなく原子力政策を核兵器政策として捉え、積極的に支持してきただろうし、そこに流れる利潤も彼ら・彼女らの意思決定に影響を与えたかもしれない。

専門知をほぼ独占してきた関係領域の学者にも当然責任がある。

マスコミにももちろん責任がある。原発反対派が単なる狂信者だとして、ほぼ無視してきたのだから(彼らの議論が必ずしも適切ではなかったとしても)。

だが、それを言い出したら、きりがない。

結局、「みんな悪かった=みんな悪くない」の日本お得意の構図に陥る。

今後、安全対策に不備があったかどうかの検証がいつか始まるだろうが、現在のような、「御用学者=電力関連企業=経産関連の官僚=(族議員とは言わないかもしれないが一部の)政治家」が構成する「原子力仲良しクラブ」にその任を与えれば、責任問題も含め、全てうやむやになる。



これまで一般市民は、原子力について考えないできた。

我々には他にも考えなければならないことが山ほどあった。

日々の生活のことで精いっぱいだし、精々政治のことを抽象的に、経済政策のことをあいまいに考えてきた程度だろう。

我々は信じてきた、原子力問題は難しいので分からないのだと。そして、専門家に任せればよいのだと。

確かに原子力問題を含め、自然科学関係の政策は誰にでも理解できるものではない。

経済学も政治学もそうかもしれない。

しかし、今では関東、特に福島県のお年寄りから若者まで、放射線が一体どのレベルだと危険なのか、真剣に考え、調べ必死に理解しようとしている。

そして、原発の構造や仕組みがどうなっているのか、必死に調べ、頭に叩きこんでいる。

風評もでる。誤解も多い。

だが、私は問いたい。本当に原子力問題は我々一般市民には分からないことなのか?

もっと踏み込んで言おう。国民全員が分かるとは言わない。でも、理系の人間はもちろん、文系の人間の一部くらいには分かることではないのか?

もし分からなかったとしても、これだけは言える。

国民・市民には、説明責任と結果責任を取る人間を指名する権利がある、と。

さらに言おう。

「原子力仲良しクラブ」に対抗するためエリート(対抗エリート)はこれまでも少ないながら存在してきた。その存在を評価すべきだ、と(例えば、共産党の吉井英勝衆院議員)。



最後にひとつ注意しておきたい。

責任問題を問うことは、原発反対を意味するのではない、ということだ。

原発を支持するにしても、いや、支持する場合には間違いなく、責任問題は不可欠になる。

危機管理をより精緻化するためには、責任者を明らかにし、その失敗を究明し、なぜそうした失敗を彼らが犯したのか解明しなくてはいけない。

そして、政策の失敗が必ず「責任」に結びつくことを明確にし、無責任な言動を制限することが必要だ。



今回、原子力がどれほどの電力を供給してきたのか、停電によって一部明らかになった。

代替案としての、風力や水力が絶望的なのは無論多くの専門家が指摘する通りだと思う。

しかし、それがどれほど絶望的かも含めて、キャンペーンを張って、草の根からマスコミまで議論を行わなければ、我々市民は再び暗黙の合意を電力政策に与えることになる。

結局、原子力継続になるのだとしても、市民の明確な合意と、説明責任および結果責任の明確化が実現すれば、もはやその継続の意味は変わる。

こうしたかたちで市民が成熟したときにはじめて、風評やデマは減少するだろう。

東京は僕の記憶を吸い取る

2011-03-26 12:36:13 | 日記
夕方、友人の写真展に行く。

写真も音楽も、社会のなかでのコミュニケーションを通じて作られる部分と、人間の五感から必然的に出てくる部分とが混在している。

それゆえに面白い。

建物ひとつとっても、見た者の記憶によって意味が変わる。

しかし明暗の出方による効果は、五感によってその範囲や程度が限定される。

音楽も然り。

和音やメロディは聴き手が育ってきた社会の文化によって、その意味を変える。

ところが倍音の構成や和音の効果は、ある程度、人間に共通する(悲哀とか、快・不快とか)。

友人から伝わってくる「写真」への愛情は、「写真」という表現方法の魅力として僕の心に深く刻まれた。



ところで、この度、僕が学生時代をずっと共に過ごしてきた友人(写真展の彼とは別の彼)が東京に引っ越すことになった。

僕は悲しくて仕方がない。悲しくて仕方がないのだ。

僕は人に自分の存在をできるだけ意識して欲しくないと思いながら生活している。

でも彼には自分を忘れてほしくない。

その彼が東京に行ってしまう。

僕の記憶や思い出がまるごと東京に吸い取られるかのようだ。

いやだ、いやだ、いやだ、いやだ(こども)。

もう誰も東京に行くな!

あるいは、東京に行け!僕。



「さよなら」だけが人生なのかな?

でも「こんにちは」もあるよね(矢野顕子)。

大人になれば

2011-03-25 10:30:46 | 日記
彼女が引っ越す。

引っ越し準備の最中、ケンカ。

そして、仲直り。



僕らは大人になったのかな、とふと問う。

僕らが生きている世界は、昨日より明日が前に進むと思っている。

昨日は永遠ではないのだ。

それはつまり、自分が見てきた大人を自分が乗り越えることをどこかで前提にしている。

大人になるのは年々難しくなっている・・・?



大人の基準も謎のまま。

誰も判定してくれない。

君は大人だと言える、大人はどこにいるのだろう・・・?



韓国では兵役があるけれど、僕は韓国人の友人にそれが社会的なイニシエーションの役割を果たしているのか、と聞いたことがある。

彼は言った。

「分からない。」

それは簡単に分からない。そして日本人のお前にはもっと分からない、と彼は言った・・・気がした。



ただ、彼女と乗り越えてきた、通常あり得ない多くの困難によって、僕と彼女はきっと少しずつ大人になっている。

そう思いたい。

学ぶこと

2011-03-21 00:39:17 | 日記
先日あった最悪の飲み会(大学の研究関係者)で、僕の後輩が、そこにいる先輩全員をくまなく、素早く、最速で怒らせる奇跡を見せてくれた。

彼が抱える問題、および人を怒らせる原因は多すぎて指摘しきれないが、根本的な問題がある。

「人から学ぶことは、人を利用することではない」ということが分かっていないこと。

学ぶには、学ぶ姿勢が必要だ。

学ぶことはコミュニケーションのなかでも、最も複雑で難しい行為だと思う。

伝える者、学ぶ者がお互いにお互いの思考に入り込むのだから。

言葉になってないようなお互いの苦悩や痛みを共有し、そこから一歩でも進もうとする努力の過程が学ぶことだ。

結局のところ、学ぶ行為のなかでは、伝える者は学ぶ者でもあり、学ぶ者は伝える者でもある。

すなわち、学ぶということは一方的なものではない。共に闘うことこそ学ぶことなのだ。

特に研究という領域では、その入り込み方が非常に深い。精神の奥の奥、思考のヒダのヒダをゆっくりと進んでいく。それだけにデリケートなのだ。

彼にはそのデリケートさを分かってほしい。

入り込み方を間違えれば、相手を傷つける。傷つけることを恐れるべきではないが、傷つけることの自覚や恐れが全く無いのなら、学ぶ資格などない。

相手が持っている情報を欲しい、欲しいとわめくことは全くもって学ぶ姿勢ではない。

一方的で偏った愛情をもってしては、学ぶことはできない。

彼にはその配慮が求められている。