以前このブログで書いたように、私は原発について考えることを一時凍結した。
今も事態は進行しており、この問題について書くことは時期尚早とは思うのだが、今一度、混乱しつつも二、三の点について書きとめたい。
これは今でなくてはいけない。
まず、今回の原発事故の責任の問題である。昨日の朝日新聞朝刊では、
斑目春樹(原子力安全委員会委員長)、
寺坂信昭(原子力安全・保安院)
鈴木篤之(日本原子力研究開発機構理事長)
三者による、「電源喪失などといった危機状況は想定できない」とする発言(2006~2010年)を指摘・批判した。
彼らに今回の事故の責任がどこまであるのか、これは重要な問題である。
一般的に言って、官僚と学者は責任の所在を問いにくい相手だ。
選択は政治家であり、官僚と学者はその補佐をする存在なので、通常責任を取るのは政治家である。
ところが、専門知識が不可欠で、一般人には理解困難な領域では、学者や官僚の権力は必然的に強まる。
両者は場合によっては政治家による選択肢を限定することが可能であり、場合によっては誘導することもできる。
今回の事故の責任を問うのはまだ早いと読者の皆様は思うだろう。
私もそう思う。
しかし、責任問題が今後うやむやになる危険性は非常に高い、
責任問題を回避して、今後の電力政策を市民が納得できるかたちで再決定することは不可能だ。
責任の所在については、言うまでもなく論争的だ。
上に挙げた三者以外に(あるいは彼らには全く責任が無いという意見もあるだろうが)、色々な人間を責任者とする意見が出てくるだろう。
私を含む一般市民は、豊かな電力を享受しており、原子力政策については暗黙の合意を与えてきた。
政治家の一部は、間違いなく原子力政策を核兵器政策として捉え、積極的に支持してきただろうし、そこに流れる利潤も彼ら・彼女らの意思決定に影響を与えたかもしれない。
専門知をほぼ独占してきた関係領域の学者にも当然責任がある。
マスコミにももちろん責任がある。原発反対派が単なる狂信者だとして、ほぼ無視してきたのだから(彼らの議論が必ずしも適切ではなかったとしても)。
だが、それを言い出したら、きりがない。
結局、「みんな悪かった=みんな悪くない」の日本お得意の構図に陥る。
今後、安全対策に不備があったかどうかの検証がいつか始まるだろうが、現在のような、「御用学者=電力関連企業=経産関連の官僚=(族議員とは言わないかもしれないが一部の)政治家」が構成する「原子力仲良しクラブ」にその任を与えれば、責任問題も含め、全てうやむやになる。
これまで一般市民は、原子力について考えないできた。
我々には他にも考えなければならないことが山ほどあった。
日々の生活のことで精いっぱいだし、精々政治のことを抽象的に、経済政策のことをあいまいに考えてきた程度だろう。
我々は信じてきた、原子力問題は難しいので分からないのだと。そして、専門家に任せればよいのだと。
確かに原子力問題を含め、自然科学関係の政策は誰にでも理解できるものではない。
経済学も政治学もそうかもしれない。
しかし、今では関東、特に福島県のお年寄りから若者まで、放射線が一体どのレベルだと危険なのか、真剣に考え、調べ必死に理解しようとしている。
そして、原発の構造や仕組みがどうなっているのか、必死に調べ、頭に叩きこんでいる。
風評もでる。誤解も多い。
だが、私は問いたい。本当に原子力問題は我々一般市民には分からないことなのか?
もっと踏み込んで言おう。国民全員が分かるとは言わない。でも、理系の人間はもちろん、文系の人間の一部くらいには分かることではないのか?
もし分からなかったとしても、これだけは言える。
国民・市民には、説明責任と結果責任を取る人間を指名する権利がある、と。
さらに言おう。
「原子力仲良しクラブ」に対抗するためエリート(対抗エリート)はこれまでも少ないながら存在してきた。その存在を評価すべきだ、と(例えば、共産党の吉井英勝衆院議員)。
最後にひとつ注意しておきたい。
責任問題を問うことは、原発反対を意味するのではない、ということだ。
原発を支持するにしても、いや、支持する場合には間違いなく、責任問題は不可欠になる。
危機管理をより精緻化するためには、責任者を明らかにし、その失敗を究明し、なぜそうした失敗を彼らが犯したのか解明しなくてはいけない。
そして、政策の失敗が必ず「責任」に結びつくことを明確にし、無責任な言動を制限することが必要だ。
今回、原子力がどれほどの電力を供給してきたのか、停電によって一部明らかになった。
代替案としての、風力や水力が絶望的なのは無論多くの専門家が指摘する通りだと思う。
しかし、それがどれほど絶望的かも含めて、キャンペーンを張って、草の根からマスコミまで議論を行わなければ、我々市民は再び暗黙の合意を電力政策に与えることになる。
結局、原子力継続になるのだとしても、市民の明確な合意と、説明責任および結果責任の明確化が実現すれば、もはやその継続の意味は変わる。
こうしたかたちで市民が成熟したときにはじめて、風評やデマは減少するだろう。
今も事態は進行しており、この問題について書くことは時期尚早とは思うのだが、今一度、混乱しつつも二、三の点について書きとめたい。
これは今でなくてはいけない。
まず、今回の原発事故の責任の問題である。昨日の朝日新聞朝刊では、
斑目春樹(原子力安全委員会委員長)、
寺坂信昭(原子力安全・保安院)
鈴木篤之(日本原子力研究開発機構理事長)
三者による、「電源喪失などといった危機状況は想定できない」とする発言(2006~2010年)を指摘・批判した。
彼らに今回の事故の責任がどこまであるのか、これは重要な問題である。
一般的に言って、官僚と学者は責任の所在を問いにくい相手だ。
選択は政治家であり、官僚と学者はその補佐をする存在なので、通常責任を取るのは政治家である。
ところが、専門知識が不可欠で、一般人には理解困難な領域では、学者や官僚の権力は必然的に強まる。
両者は場合によっては政治家による選択肢を限定することが可能であり、場合によっては誘導することもできる。
今回の事故の責任を問うのはまだ早いと読者の皆様は思うだろう。
私もそう思う。
しかし、責任問題が今後うやむやになる危険性は非常に高い、
責任問題を回避して、今後の電力政策を市民が納得できるかたちで再決定することは不可能だ。
責任の所在については、言うまでもなく論争的だ。
上に挙げた三者以外に(あるいは彼らには全く責任が無いという意見もあるだろうが)、色々な人間を責任者とする意見が出てくるだろう。
私を含む一般市民は、豊かな電力を享受しており、原子力政策については暗黙の合意を与えてきた。
政治家の一部は、間違いなく原子力政策を核兵器政策として捉え、積極的に支持してきただろうし、そこに流れる利潤も彼ら・彼女らの意思決定に影響を与えたかもしれない。
専門知をほぼ独占してきた関係領域の学者にも当然責任がある。
マスコミにももちろん責任がある。原発反対派が単なる狂信者だとして、ほぼ無視してきたのだから(彼らの議論が必ずしも適切ではなかったとしても)。
だが、それを言い出したら、きりがない。
結局、「みんな悪かった=みんな悪くない」の日本お得意の構図に陥る。
今後、安全対策に不備があったかどうかの検証がいつか始まるだろうが、現在のような、「御用学者=電力関連企業=経産関連の官僚=(族議員とは言わないかもしれないが一部の)政治家」が構成する「原子力仲良しクラブ」にその任を与えれば、責任問題も含め、全てうやむやになる。
これまで一般市民は、原子力について考えないできた。
我々には他にも考えなければならないことが山ほどあった。
日々の生活のことで精いっぱいだし、精々政治のことを抽象的に、経済政策のことをあいまいに考えてきた程度だろう。
我々は信じてきた、原子力問題は難しいので分からないのだと。そして、専門家に任せればよいのだと。
確かに原子力問題を含め、自然科学関係の政策は誰にでも理解できるものではない。
経済学も政治学もそうかもしれない。
しかし、今では関東、特に福島県のお年寄りから若者まで、放射線が一体どのレベルだと危険なのか、真剣に考え、調べ必死に理解しようとしている。
そして、原発の構造や仕組みがどうなっているのか、必死に調べ、頭に叩きこんでいる。
風評もでる。誤解も多い。
だが、私は問いたい。本当に原子力問題は我々一般市民には分からないことなのか?
もっと踏み込んで言おう。国民全員が分かるとは言わない。でも、理系の人間はもちろん、文系の人間の一部くらいには分かることではないのか?
もし分からなかったとしても、これだけは言える。
国民・市民には、説明責任と結果責任を取る人間を指名する権利がある、と。
さらに言おう。
「原子力仲良しクラブ」に対抗するためエリート(対抗エリート)はこれまでも少ないながら存在してきた。その存在を評価すべきだ、と(例えば、共産党の吉井英勝衆院議員)。
最後にひとつ注意しておきたい。
責任問題を問うことは、原発反対を意味するのではない、ということだ。
原発を支持するにしても、いや、支持する場合には間違いなく、責任問題は不可欠になる。
危機管理をより精緻化するためには、責任者を明らかにし、その失敗を究明し、なぜそうした失敗を彼らが犯したのか解明しなくてはいけない。
そして、政策の失敗が必ず「責任」に結びつくことを明確にし、無責任な言動を制限することが必要だ。
今回、原子力がどれほどの電力を供給してきたのか、停電によって一部明らかになった。
代替案としての、風力や水力が絶望的なのは無論多くの専門家が指摘する通りだと思う。
しかし、それがどれほど絶望的かも含めて、キャンペーンを張って、草の根からマスコミまで議論を行わなければ、我々市民は再び暗黙の合意を電力政策に与えることになる。
結局、原子力継続になるのだとしても、市民の明確な合意と、説明責任および結果責任の明確化が実現すれば、もはやその継続の意味は変わる。
こうしたかたちで市民が成熟したときにはじめて、風評やデマは減少するだろう。