それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ウーピー・ゴールドバーグと石橋貴明の違い:「保毛尾田保毛男」は権力を再生産しているだけ

2017-10-01 20:54:44 | テレビとラジオ
 「保毛尾田保毛男」への批判は決して間違っていない。

 けれど、批判するところで止まってはいけない。

 というのも、批判の多くは「批判がお笑いを殺す」という再反論にまだ十分に答えていないからだ。



 おそらく、最も重要な批判は、ウーピー・ゴールドバーグが障害者の女性を演じるお芝居(モノマネ)を行ってきたことを根拠に、

 少数者をネタにすることは必ずしも悪いことではない、というものだ。

 そのお芝居がこちら。

 確かに、彼女は障害者の役を通じて、ユーモアあふれる物語を語っている。



 けれど、ウーピーと石橋のスタンスは、まったく逆方向である。

 その点を勘違いしている人がネット上に多く、私は強い悲しみと恐れを感じてしまう。

 なぜ、両者を一緒に出来てしまうのだろうか?



 ウーピーのお芝居は、障害者の主体性を取り戻すための物語だ。

 障害を持った人の世界をユーモアに満ちた芝居で、「自分たちを健常者として認識している人たち」に伝えている。

 いわば、ウーピーは「自分たちを健常者として認識している人たち」の世界をこじ開けようとしている。

 「私たちもこの世界にちゃんといる、存在している」と訴えかける。

 「ノーマルな人間」という支配的な認識に挑戦している。

 ウーピーの芝居は、障害を持った人に寄り添っている。

 だから、障害を持った人が彼女を支持する。



 けれど「保毛尾田保毛男」は違う。

 これは、ヘテロの男性が同性愛の男性を「奇矯な存在」として表象する、支配的な認識をなぞり、強化しているだけだ。

 この表現では、同性愛の人の主体性は否定され、「嘲笑されていい、劣った存在」になっている。

 端的に言って、このキャラクーは同性愛の友人に向けられたものではない。愛がなく、攻撃的だ。



 少数者を笑いのモチーフにすることは、すべて等しく暴力的なわけではない。

 面白いコントと面白くないコントがあるように、表現における暴力性にもグラデーションがある。

 それを見極める能力が、日本社会の視聴者にはないのか?いや、ある。