ジミ・ヘンドリックスの曲って、ギターのリフが主食で歌がおかずみたいになっている。そういうパターンがある。
そういう場合の歌の位置づけっていうのは今でも新しいのではないか、とふと思った。
興味深いのは、合いの手のような歌に要求されているのが、裏メロ的なそれではないことだ。
それは、語りであったり、つぶやきのようでもある。
その結果、歌という概念そのものが揺さぶられるのではないか。
そこで連想したのが、ローランド・カークの唸りだ。
楽器を同時に吹きながら飛び出してくる唸り声、それは歌なのか?
それはジミヘンの「歌」同様に、確かに声でしか表現できないものだが、それは歌なのか?
しかし、思うに、それは歌という概念をただ揺さぶったというのではなしに、もしかすると、唸りやつぶやきという技法なのかもしれない。
だが、それは技法と呼んだ瞬間に、意味をなさなくなるような類の、すなわち地上に持ってきたら枯れる高山植物のようなものなのかもしれない。
そんな、つぶやき。僕はここに書きました。
そういう場合の歌の位置づけっていうのは今でも新しいのではないか、とふと思った。
興味深いのは、合いの手のような歌に要求されているのが、裏メロ的なそれではないことだ。
それは、語りであったり、つぶやきのようでもある。
その結果、歌という概念そのものが揺さぶられるのではないか。
そこで連想したのが、ローランド・カークの唸りだ。
楽器を同時に吹きながら飛び出してくる唸り声、それは歌なのか?
それはジミヘンの「歌」同様に、確かに声でしか表現できないものだが、それは歌なのか?
しかし、思うに、それは歌という概念をただ揺さぶったというのではなしに、もしかすると、唸りやつぶやきという技法なのかもしれない。
だが、それは技法と呼んだ瞬間に、意味をなさなくなるような類の、すなわち地上に持ってきたら枯れる高山植物のようなものなのかもしれない。
そんな、つぶやき。僕はここに書きました。