それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

歌概念の脱構築可能性:ジミヘンとローランド・カーク

2010-04-30 22:26:14 | 日記
ジミ・ヘンドリックスの曲って、ギターのリフが主食で歌がおかずみたいになっている。そういうパターンがある。

そういう場合の歌の位置づけっていうのは今でも新しいのではないか、とふと思った。

興味深いのは、合いの手のような歌に要求されているのが、裏メロ的なそれではないことだ。

それは、語りであったり、つぶやきのようでもある。

その結果、歌という概念そのものが揺さぶられるのではないか。


そこで連想したのが、ローランド・カークの唸りだ。

楽器を同時に吹きながら飛び出してくる唸り声、それは歌なのか?

それはジミヘンの「歌」同様に、確かに声でしか表現できないものだが、それは歌なのか?


しかし、思うに、それは歌という概念をただ揺さぶったというのではなしに、もしかすると、唸りやつぶやきという技法なのかもしれない。

だが、それは技法と呼んだ瞬間に、意味をなさなくなるような類の、すなわち地上に持ってきたら枯れる高山植物のようなものなのかもしれない。


そんな、つぶやき。僕はここに書きました。

日々

2010-04-29 18:46:03 | 日記
もう結構前になるが、日本の有名な社会学者と飲む機会があって、色々話をさせてもらう。とても勉強になった。有名なだけはあるなあ。

今はとにかく論文書きで激闘。

やる気が出なくても書かんくてはいけないょ。

最初に手を出すのが音楽。200曲のより抜き選抜したブラックミュージックをitunesでかけています。

それでも、もう夜には限界に。

そんなときに飲んじゃうのがお酒。

今はまっているのが、赤ワインのカクテル。

レモネードを作って、氷を入れる。そこに赤ワインを注いで、色のコントラストを出したら完成。

そういうカクテルなんだそうです。

きれいな色のコントラストも、飲むために一瞬で消えてしまう!

でも、論文は残ります!

写真:僕のアタマのなかの「作法」、記号としてのそれ

2010-04-12 10:46:57 | 日記
ここ数日で、ようやく地元の会うべき友人たちには会いつくしたように思われる。

よく飲み、よく話した、と思う。

特に昨日は、写真について勉強させてもらった。私の愛すべき友人が写真を本格的にやっていて、それで写真展やら写真集やら、彼の写真やらを沢山みせてくれて、沢山解説してくれたのである。

論文には論文の作法があり、音楽には音楽の作法がある。

論文のそれはとても厳しくて、なかなか破ってはいけないが、音楽は結構やぶってくれていい。というか、芸術は作法を破るのが、作法。だとしたら、実は芸術におけるその「作法」を破るのは至難の業である。

昨日、写真にも色々作法がある、と僕は思った。

「作法」、というとちょっと堅苦しい表現だから、ちょっと適切ではないが、それは「手法」という言葉では足りない。

なぜ足りないかは、この後徐々に説明したいと思う。



彼がまさに適切にも指摘したのが、「写真にも色々なジャンルがある。それは音楽と同じこと」という点。

なるほど、沢山見せてもらった写真は、それぞれ個性があり、技術的にも洗練されていて、感情を動かすものだったが、「写真の目的・狙い」、「撮る方法」、「刷る方法」、「伝わる情感」、「引き出されるロジック」・・・等がまるで違う。

それはロックとレゲエくらい違う。

そして、知の集積がすごい。すなわち、奥が深い、ということ。



見せてもらったなかに、アフガンの写真集があって(その写真集を全くありがたいことに僕はもらってしまったのだが)、それは僕のイメージするアフガンの写真とはかなり違ったのである。

色がきれい、というだけではなくて、悲哀よりも喜び、というかむしろファッショナブルな構図、が目を引いたのだ。

「紛争(後or中)社会に関するファッショナブルな写真」。

僕はアタマのなかに「報道写真、あるいは紛争社会写真かくあるべし」というのものがあったことに気がつく。

すなわち、「紛争地域の子供の笑顔はこう」、「お年寄りはこう」、「若者はこう」、「少女はこう」、「動物はこう」あるべし・・・!

僕はアフガンに行ったことがない。だから、一体現実がどうなっているのか知らない。

大事なことは、「じゃあ行きなさい」という単純な話ではなくて、行けない人がほとんどの社会のなかで(みんな、暇でもないし、使命感もないし、お金もないし、危険は嫌だし)、写真は一体何なのか、ということなのだ。

写真という一種の記号をどう捉えればよいのか、ということなのだ。



僕が見た写真集は、カメラマンが見たアフガンを撮っただけかもしれない。

しかし、僕にはそれが僕のアタマの中の報道写真の「作法」を揺さぶるという役割を果たすものだった。だから僕はその点において、その写真集をすごく評価したいと思った。



カメラマンによっては、写真に関して、自分が表現したい情感、あるいは写真を見たものに惹き起こしたい感情を目的しているかもしれない。

その情感は、美しいと思う気持ちだったり、切ないと思う気持ちだったり色々だ。

それもひとつ。

あるいは、伝えたいと思う彼らなりの「現実」を伝えたいという場合もあるだろう。

もしくは、相手の想像力を掻き立てたり、混乱に陥れたりしたい場合もあるだろう。

だが、いずれの狙いを持っていたとしても、大事なことは、写真が社会においてどのような記号として伝達されるかは別の話だということだ。

それは書いた文字と一緒。曲解され(背景の事実を勝手に想像)、ゆがめられ(印刷されるなかで大きさも変えられるし、一部が切り取られさえするかもしれない)、色を変えられたり(最悪、カラーが白黒に!)する。

だが、それも写真。いや、それこそ写真なのだ。

記号なんだら、自分ではもはや管理しきれない。




僕の友人は大事なことを言った。

「展示も作品なんだ。」

そう、撮っただけではまだ作品にはなっていない。

印刷も多様な技術がある。

しかし、そこでも話は終わらない。展示という作業がある。

それは必須ではもちろんない。

けれども、もし展示するなら、作者は確実に(第一次の)受け手に対して、記号としての写真を管理できるだろう。

すなわち、曲解、歪曲をかぎりなく避けられるのである。あるいは、バグや複製を生み出さないということかもしれない。

(だが、しばしばカメラマンは曲解を利用する場合もあるだろうけれども。)




写真の何たるかをわざかに叩き込まれ、僕は前よりもずっと写真が好きになりました。

ライブ雑感

2010-04-01 22:30:53 | 日記
昨日、友人のライブに行った。

これまで留学準備やら何やらで行けなかった友人のライブ。ここだ!と思い、行く。

会場のお店はとても雰囲気が良く、また来たいなあと思うほど。

お客さんはその友人の友人たちで結構埋まったのだけど、お店の売上には大いに貢献したんじゃないかなあ。えらいねえ。

写真撮影を友人に頼まれ、自分なりに頑張る。出演者の邪魔をしないよう細心の注意を払い、それが功を奏したらしい(本当なのか、お世辞なのか)・・・。ともあれ、よかった。



演奏内容もとても良かったです。

音のチェックの時の演奏は、ほんのちょっとの間だったが、心にストレートに入ってきちゃって、「これはやばいなあ、泣くなあ、来てよかったなあ」というレベル。

本番、ふたりは予想外の客の多さも手伝ってか、ガチガチに。最初、呼吸がなかなか合わず、かなり苦戦を強いられている様子だったが、徐々に調子が合ってきて、とっても良かった。

ライブを通じて、ギターの深さを知る。ギターは通常バンドならば他の楽器がこなすはずの役割を野心的に同時にこなそうとしており、驚嘆する。

そして、何より歌がうまい。ボーカルがいい。

オリジナルの完成度もなかなか。歌詞も曲も本当に良くできていた。すごい。

両者の実力はすでに相当なので、曲の構成などは、これから自然と工夫されていくだろう。今はまだ、それぞれが前提とするリズムがかみ合っていなかったり、メロディの展開がうまく相互作用していない個所があるが、それも無くなって、「化学反応」が一層進んでいくだろう。

ボーカルと伴奏楽器の相互作用は、歌ものの醍醐味だ。しかし、それは楽器同士のそれとは大いにことなるため、なかなかつかみにくい。しかし、歌ものの伴奏ばかりやっている楽器奏者というのは、伴奏は知っているが化学反応が弱すぎる。

その点、このバンドが面白いのは、ギターがそれまでジャズバンドで演奏してきたということであり、そこに化学反応の可能性が大いにある。ことによると、ボーカルもまたボーカル自体が持つインストゥルメンタルの可能性を検討してもいいのかもしれない。

僕が最も勉強になったのは、静かなで短い曲でも、たくさん人を感動させられるということ。

僕がそこで感じたのは、音や言葉が人の心のなかに入るのがゴールだとしたら、その扉を全力でドンドン叩いて入るのも、静かにゆっくりドアを開けるのも、その結果は同じことだということである。

伸びしろがまだまだあるバンドだなあと思うと、これからが一層楽しみである。



そのあとの打ち上げ的な飲み会はとても楽しく(上に書いた話をギターの人としたり、それぞれの過去やら音楽趣味についてちょっと聞いたり)、また一緒に飲めたらなあと思うメンバーだった。人柄が最高!