それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

芝は案外速いスピードで伸びる

2011-07-31 10:06:39 | イギリス生活事件簿
朝早くに大家さん夫妻が来た。

ガスボイラーの調子が悪くなり、ジョーが引っ越し間際に報告してくれて、それで彼らが来ることになった。

(ちなみにジョーは一昨日親類が何人か手伝いに来て引っ越していった。こちらではまだ引っ越し業者を使っている人を見たことがない。)

シャワーは別のシステムだったから「不便は特にない、緊急事態ではない」とメールしたのだが、何か気になったのかすぐに来た。

当初の予定では、新しい学生が来る前の8月に掃除や整備を行う予定だったので、僕も8月に入ってから彼らに会う心づもりでいた。

僕は少し緊張した。彼らには初めて会うのだ。メールは何度もしているが、人となりもよく分からない。

僕は部屋を借りるのは初めてで(日本で一人暮らししたことはなかったから)、まだ大家という存在が良く分かっていない。

大家と店子(たなこ)は一体どういう関係なのだろう。



彼らしてみても僕を見るのは初めてだ。

日本人に会ったことはあるだろうか?

こっちに来て分かったことだが、イギリス人は案外アジア人慣れしていない。

というか、これはTさんとも毎回議論になるのだが、ヨーロッパにおける東アジア人と、アメリカにおける東アジア人は社会的に意味が違う。

アメリカでは多くのアジア人がアメリカ市民になってきたが、ヨーロッパでは少ない(と、ここでは仮に言ってみよう)。

2000年代初頭、ずっと話題になっていたように、ヨーロッパでアジア人はしばしば「移民2世」「移民3世」と呼ばれる。

間違ってはいないのだが、一体いつまで「移民」なのだろう?

まずヨーロッパの市民概念を理解するには、Citizenshipという言葉は単に市民権を意味するのではない、ということを理解する必要がある。

法的な権利というものとは別に、文化的な何かが条件になっている(批判的に「人種」と言う人もいる)。

だが、これは「保護」と裏表の関係になる。

日本人だからうまく英語が話せなくても、イギリス人は「そうだよね、僕たちも日本語分からないもの」としばしば言ってくれる。

日本人を日本人のカテゴリーでまとめているので、「そういうもの」として認識できる。

問題なのは、日本人がイギリスの共同体に入る瞬間で「日本人なのにカテゴリーから外れる人たち」になることを果たしてイギリス人がどこまで受け止められるのか、ということになる(少数の個人なら可能だろうが、大量に来たらどうだろう)。

この問題は複雑なので、もうこれ以上議論することはできないが、要するに問題なのは「大家は僕をどう見るか」ということだ。



話を元に戻そう。

リビングで僕が本を読んでいたら、突然「こんにちはー」と言って大家夫妻が入ってきた(大家だからね)。

僕の想像ではもう少し年を取ったヨボヨボの夫婦を想像していたのだが、ふたりは初老とは言え溌剌として若い感じだった。

旦那の方はかなり格好いい。

短く切りそろえた白髪。がっちりした体。キリッとした眼差し。

大きな手で握手された(対して僕の手は極端に小さい)。

奥さんの方はきっと若いころはきれいだっただろう、と思わせる感じ。

とにかく話好きで、旦那がボイラーをチェックしている間、沢山僕と話をした。

読者諸氏のなかには、奥さんが僕と話すことで僕の素性みたいなものを聞き出そうとしているのではないかと思われるかもしれないが、質問も色々してくれたりはしたけれど、全体的に見ると奥さんがかなり一方的に話していたのでそうではないと思う。

ふたりの英語はかなり明瞭で、イギリス・ネイティブっぽくない。ほとんど全部きっちり理解できる。

(ちなみに、未だにクリスの英語はときどき何を言っているのかさっぱり分からないことがある。)

色々話したけど、僕が一番印象に残ったのはふたりの服装がめちゃくちゃおしゃれだったことで、階級がちょっと上っぽい感じがしたということだ。

「イギリスと言えばファッション」と言う人がときどきいるが、僕が住んでいる地域では特におしゃれなイギリス人という印象はなかった。

しかしTさんによれば「マンチェスターなどの他の大きな都市では歩いている人たちのファッションは相当違う」そうだ。



彼らは一応僕を気にいった様子だった。勘違いの可能性は十分あるが、僕は来年も住むって言っているし、めっちゃきれいに家を使っているし、今頼りになるのはここに住んでいる僕だけなので、彼らの中で「僕を気に入ろうとする欲求」が心のなかに働いていたはずだ。

そして「技術者を火曜日によこすからね」と言って帰っていった。

大家だから店子の性格、どういう人間なのか、ということは色々考えたとは思う。

ちなみに唯一問題になったのは、僕らが庭の芝を刈っていなかったことだった(僕一人の責任ではない!!)。

これはクリスがいないと厳しい。

というか、ひとりでやるにはちょっと大変すぎる。

しかも、前回僕はあの機械を一度破壊しているので(すぐ直したけど)、クリス無しだとかなり不安なのだ。

(ちなみに女の子たちは一切そういう仕事はしない。そこにも問題があるかもしれない。)

「芝がここまで伸びてしまうと刈るのは大変よ、ははは」と奥さんは言った。

おそらくイギリス人から見て芝がばさばさ伸びているはかなり気分を害するのか、だらしくなく見えるのではないかと想像する。

実際、クリスも去年のデイビッドもいつも芝を刈りたがっていたのだが、その気持ちは僕にはなかなか理解できなかった(いつも熱心に芝を刈っていたデイビッドよ、ありがとう)。

芝って結構速いスピード伸びるということが今年学んだ大事なことのひとつである。

アイドルソング分析シリーズ3:ももいろクローバーZ

2011-07-30 17:30:53 | コラム的な何か
先ほど、テクノポップのアイドルソングについて議論した。

さて、その続きとして「ももいろクローバーZ」の楽曲について少しだけ考えたい。

このグループは現在話題になりすぎてもはや議論する余地もないし、イギリスにいる以上、情報が限られているので非常に限定的な話しかできないということを了承していただきたい。



なぜテクノポップの直後に「ももクロ」の話をするかはすぐに分かるだろう。

まずはこの曲を聴いてみよう。



この曲は「ももクロZ」になる前のものだが、その点は捨象しよう。

聴いてすぐに分かると思うが、音色がテクノポップとはかなり異なる。

チープとポップのバランスを取るのではなく、チープに振り切れている。振り切れ具合が凄い。

チープと単純に言うなかれ。

これは日本の90年代のアニメソング的な音色であり、サビの展開はユーロビートっぽい。

そもそも楽曲のコンセプト全体がコスプレである。

これが意味することは、ももクロの楽曲は日本のサブカルの濃縮されたエッセンスが入っているということだ。

つまり日本の文化圏で育ったものにとってはどこか懐かしい。

しかも、この楽曲で注目すべきはA、B、Cメロの違い、メリハリだ。

コード進行の問題もあるが、それ以上に音楽のジャンルそのものが違うくらいのメリハリになっている。

チープに振り切れている音色を使って、奇想天外な展開にしているとはいえ、インストの組み立て方自体は教科書通りというか、ちゃんとしている。

さらに、PV特有に入っているものを除いても効果音が特殊だ。テクノポップ的なキラキラ感でもないし、グルーブづくりのためでもない。そうではなく、おそらくインパクトのためであり、ここもやっぱりどこか懐かしい。

とにかく一度聴いたら忘れることが出来ない。

そして妙にホッとする。



さらにこれを聴いてみよう。


前曲と全く同じことが言える。

この楽曲も(より一層)アニメと特撮のパロディであり、音色は相変わらず振り切れたチープである。

そこにさらにメンバーそれぞれのキャラを入れ込んできたため、ファンの感情移入を誘う。

しかしポイントなのが、楽曲は(良い意味で)とことんふざけきっているのに、アイドル自身が恐ろしいほどの全力でやっていることであり、そこに異常な説得力が生まれている。



ももクロは日本のサブカルが生んだ規格外の異常なアイドルであり、楽曲はまさにそのことをよく示していると言えるだろう。

アイドルソング分析シリーズ2:テクノポップ

2011-07-30 12:56:12 | コラム的な何か
シリーズって書いちゃったからには、あと何回かやるべきだと思うので、休息しがてらいくつかのアイドルソングを分析したいと思う。

今回は、大胆にもテクノポップについて考えてみようではないか、と思う次第である。

しかし私は完全に門外漢な領域。だから分析は不可能なので、ただ紹介するという感じになると思う。

それでも書かざるを得ないのは、現在のところJポップにおいてテクノポップは無視しえない存在だからである。

もうひとつ指摘できるのが、日本でのテクノポップの隆盛とともに、アメリカのR&Bも2010年代に入る辺りからテクノ寄りなものが主流になり、日米で主流の音色がかなり被っているということである。



では早速Jポップのテクノポップ作品を見てみよう。いまやテクノポップの旗手と言えば、中田ヤスタカだろうと思う。

その最近の作品がこちら。



「きゃりーぱみゅぱみゅ」という声に出して読みにくい名前のモデルさんの曲。

この楽曲は非常に複雑に音が重ねてある。思うに、中田作品のなかでも、かなり重ねてある方だと思う。

そして少し粘るように繰り出されるバスドラム含め、グルーブも良く出来ている。歌詞の語呂も異常に良い(意味は完全に不明)。



テクノポップでまず聴くべきなのは、(私の個人的見解では)使っている音色だ。

音楽において比較的最近発見された領域、いわゆる「質」の問題である。

音の「質」はテクノが発展させた領域であり、テクノポップはそのテクノの大きな財産で食べているところがある。

「きゃりーぱみゅぱみゅ」の本作品もかなり色々な音色が重ねられている。

テクノポップの特徴は、そのキラキラ感だ。キラキラにするために色々な音色が動員される。そのキラキラ音色は、チープとポップのギリギリのバランスを取ったものになる。

もうひとつ指摘できるのが、ボーカルをインストに寄せる傾向だ。インストをボーカルに寄せるというよりはその逆で、ボーカルを加工したりすることで、インストとボーカルが一体になる。

ここで実力派の若手アーティストであるラムライダーのプロデュース作品を見てみよう。


IMALUとやついいちろうのユニットSushi Pizzaによる曲だが、チープとポップのギリギリのバランスの好例と言えるだろう。

ちなみに、別の回で書くと思うがIMALUは歌がうまい。

テクノポップは確かに声を加工するが、歌が下手でいいわけではない。やはり、ボーカルにはテクノポップなりの上手さが求められる。



テクノポップの場合、コード進行は色が濃いめだ。

複雑な進行よりも、原色そのままみたいな進行が多い(その分、転調でメリハリをつけることが多い)。テクノポップはそこで勝負しないからであり、テクノ音色と食い合わせが良いからだ。

テクノは本来コードというものにこだわりが無いジャンルで、そうした縛りから解放された数少ない音楽ジャンルである。

それに対してテクノポップはポップの名に違わぬ分かりやすくてキャッチーな進行を目指す。



テクノポップのなかでも良質な楽曲を歌ってきたSaori@destinyの楽曲を見てみよう。

作曲はKampkin Malkee。中田ヤスタカと比較されるプロデューサーのTerukado周辺でたまに目にする作曲家であるが、全くよく知らない。

例によってコードは非常に単純で、原色そのものだ。

それに対して音色は精巧に出来ている。ねじったり、ひねったりして、飽きさせない展開。これまで紹介してきた作品よりは、やや尖っていると言えるかもしれない。



テクノポップの最後にしておきたい最大の特徴はグルーブだ。

代表的テクノポップのアイドル、パヒュームの楽曲を見てみよう。


「ポリリズム」の詳細な話はまた別の機会にしたいが、要するにポリリズムとは、4拍と5拍など、西洋音楽では想定されていない別の拍子が同時平行的に共存するリズム構造を指す。

この曲では、ポ・リ・リ・ズ・ム、という歌詞が五拍で、これを繰り返すところで4と5が共存し、その後、リ・ズ・ムを繰り返すところで、3と4が共存する。

そうしたことに象徴されるように、テクノポップはテクノの名を冠するだけあって、グルーブへの配慮が出来ている。

テクノはしばしば単純な4つ打ちと思われがちだが、そうではない。それは間違っている。

4つ打つにしても、上に重ねるものによって全くグルーブが違ってくるし、4つの打つタイミングによってもノリは全く変わってくる。

このノリの良さは、ブラックミュージックが伝統的に追及してきたスウィングやグルーブとは相当異なる。



さて、最後に日米の違いについて考えてみよう。

アメリカのテクノっぽい音色の、ポップスと言えばこちら。



泣く子も黙るガガ様のポーカー・フェイスだ。

テクノポップとの違いは明らかというか、比較が不可能なほど違う(テクノっぽい音色という括りがおかしいのか?)。


音色は似ているには似ているが、音数が非常に少ないことに気づくだろう。これは2000年代のソウル音楽およびソウル系のポップスの流れから来ている。

2000年代はソウル系のポップスが非常に単純な構造に向かった時期だった。コード進行もほとんどしない、バックトラックも重ねない。試されるがボーカルの歌唱力であり、グルーブという時代だった。

10年代に入るあたりから登場したテクノ寄りのポップなソウルは、もう少し調性が出てきて音も重ねるようになった。

それでもボーカルの力強さは相変わらず凄い。かわいいではなく、セクシーが追及される。

ボーカルが太いから、音数があんまり多いと食い合わせが悪いのだ。

例えば、Rihannaのこの楽曲はその良い例だろう。



グルーブも全く違うことがすぐに分かるだろう。

テクノというよりも、基本的にジャンルがソウルだからハウスに近く、いわゆるリズムにタメがある。そこがブラックミュージックたるゆえんだ。

どちらが優れているということではない。

どちらも意匠が凝らされているものは凝らされているのである(いないものは、いない)。

ただ私個人はブラックミュージック・フリークである。それは趣味の問題。

児玉先生の議論を聴いて

2011-07-28 21:58:56 | 日記
東大の児玉先生の国会での議論は、話題になっている通りかなり説得的である。

放射線および放射性物質の影響について、結局、ほぼすべての国民が良く分からないままだが、もし児玉先生の議論が正しいのだとすれば、深刻さは相当なものである。

ここに誤っているかもしれないけれど、自分が学んだことを書いておく。



われわれはバカではない。国民の相当数が児玉先生の議論の趣旨を理解することができる。

ただ、問題は非常に混乱している。複雑である。

分けなければいけない論点がありすぎて、それを整理していくなかで、おそらく相当数の国民が脱落していくだろう。

単純に危険か安全かの話ではないらしい。

まずどの場所が高いリスクを抱えているのか、今の状況ではほとんど分からないらしい。

拡散の計算がまず困難。

測定システムが全く存在していないか、機能していない。

さらに行政の怠慢で放射性物質が流通にダダ漏れしている。

つまり自分の置かれている状況が危険なのかどうか全く分からないまま大半の地域の人々が過ごしていることになる。

要するに、現状がよく分からないのが現状(原因は行政の怠慢、ひいては国会の怠慢)。



しかし原発事故の結果放出された放射性物質にリスクがあるということ。そして特に子供がそのリスクを負っている。ということは確からしい(児玉先生によれば)。

放射性物質の種類が沢山あって、それが蓄積される臓器がバラバラで、さらに個人個人によって出る影響が違う。

チェルノブイリに関する様々な調査の結果によると、やはり原発事故によって発がんリスクが高まるということが証明されたと主張する論文が出ているそうだ。

もちろん、今回の原発事故による放射性物質のリスクについては、理系の多種多様な専門家によって意見が分かれている。

けれども、ここで重要なのは確実にリスクがあるということが証明されたかどうかというより、リスクが確実にあると主張する論文がかなり出ていて、医学関係の専門家がYESと言っている以上、子供を守るための政策をまず先に行う必要がある、ということだ。

水俣病のときの事例は、その後に多くの専門家が指摘してきたように奇妙なものだった。

多くの子供に体に異変が起こっていたのに、また魚が原因と疑われていたのに、行政は何もしなかった。

因果関係が証明されていなかったからである。

しかし、もし市民や子供を守ることを本当の優先事項にしていたならば、少なくとも魚の摂取を禁止することは出来たのではないか、と今なら思える。

あるいは、工場の作業を一時的に止めることもできたはずではなかったのか。

疑わしきは罰せず?無論、罰すると言っているのではない。

そうではない。

単純なことなのだ、因果関係が証明されてからでは遅いということなのだ。



ここから言えることはつまりこういうことだ。

以下の政策をまず分けて考える必要がある。

①現状を認識するための政策(放射性物質の測定システムを構築すること)

②発がんにおける因果関係を調査する政策(何がどう危険なのか知ること)

③想定されるリスクから市民、特に子供を守る政策(できるかぎり安全にすること)
 および、すでに高まったリスクを出来る限り減らす政策

④損失への保障のための政策

これらは相互に関連してはいるが全く意味の異なる政策群で、緊急事態の場合にはプライオリティを定め、巨額の資金を充てていかねばならない。



自然エネルギーの問題は非常に重要だし、原発再稼働の問題も重要なのだが、上記の区分で言えば、その話は③のなかでもかなり緊急性が高いのかどうなのか疑わしいものに位置づけられるかもしれない。

というのも、今放出されている放射性物質があまりの量で、その問題への対処が限りなく緊急を要するものだからである。

メディア上の論点はおそらく今後も混乱し続けるだろうけれども、プライオリティを明確にしないとマズイということだけは私でも分かる。

そして、それを決定するのが行政、それを監視するのが国会らしいということも分かる。

ただ、多くの政治家に「子供が・・・」と言っても、あまり影響がないらしいということも分かる。