それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

3年目のナイトライフ

2012-02-25 08:57:15 | イギリス生活事件簿
ここ数日の僕の態度は悪かった。と思う。

研究への集中力が高まって他のことが何も出来なくなりつつあり、そういう時にはもう誰とも話したくない。とにかくすべてのエネルギーをひとつのことに集めようとする(自動的に)。

悪夢も見るし、思い出したくないことも思い出すし、誰かのことを嫌いになろうともする。とにかく自分のなかから生まれてくる幻影との戦いになる。

そういうときの僕のオーラ。話しかけないでオーラ。



今までだったら嵐が過ぎるまで引きこもるのだが、今年は違う。

陽気な人ばっかりが集まっているこのフラット。

今日は夜、僕のフラットでパーティがあった。バレの知り合いのイタリア人女性たちとイギリス人女性などが集まり、そこで食事やお酒を楽しんだ。

フラットで行うパーティは絶対に全員参加だ。これはルールというより、全員参加しないと悲しいという理由からそういうことになっている。バレは誰かが参加しないなどということを許さない。部屋に何度もおしかけてでもパーティに参加させる。

そして、最悪の精神状態である僕もひっぱりだされ、そして料理とお酒と会話を楽しんだ。

バレが連れてくる人たちにはハズレがない。

バレの人柄なのだろうか。

イタリア人のうちひとりは全く英語が話せない。そういうとき、どれだけ僕が勇気をもらっていることか。

イギリス人の社会人女性がまた素晴らしい人で、とても洗練されていて、かつ英語が分かりやすく(正確にはアイルランド人だった)、アジア人にとても涵養というかフレンドリーな人だった。



ひと通り食事が終って、二次会。

イタリアやスペイン流のやり方では、一次会が家、そこから外へ行くというのが基本だという。

あるいは、まず食事は家族ととって。それから外へ遊びに行きなさいというのだ。

気まずかった空気を全て帳消しにしたパーティの勢いそのまま、僕はフラットメイトと夜の街に繰り出した。

エースのコースメイトのホームパーティへ行き、さらにクラブへ行くということに。

しかし、そんな夜遊びに全く慣れていない僕はID(パスポート not 学生証)を持って来ず、クラブのセキュリティに止められる。

僕に代わってセキュリティを説得しようとするみんな。

「こいつはPh.Dの学生なんだ。こいつだけ入れないなんておかしい。こいつはオレの兄弟だから入れてくれ。」

感動して泣きたくなるようなことをガンガン行ってくるフラットメイト。

しかし、申し訳なさで死にそうだ。

「みんな、遊んできてよ。僕のことは気にしないで。」と言ったが、

「何言ってるの。お前をひとりで置いてくなんてマネ、するわけないだろ。」と言って、隣りのパブへ入った。

そして、僕らはひたすら喧騒のなかで話した。



僕はいまだに何故パブに行く必要があるのかよく分かっていない。

話したいのなら、家で良かったじゃん。ひとり加えただけで、ほぼ同じメンツなのに場所変える意味ってある?

たぶん、ある。

たぶんあるのだが、よく分からない。

パブという空気のなかで、人がごった返しているなかで、酒を飲み話をするのがどうも粋というか、テンション上がるというか、何かなのだろう。

少しの緊張感と喧騒、暗い照明。そのなかで一人一人とコミュニケーションすることで生まれる何か。

それがナイトライフの本質の何かなのかなと思う。

もしクラブに行っていたら、何を僕は見ただろう。何を感じただろう。

3年目のイギリス生活で初めて見えてきたことが沢山ある。

僕はまだ真っ白な少年だ。


追記:

本当に幼稚なことを書いて恐縮なのだけれど、今日、パブでの別れ際、友人たちとの別れ惜しんで、内発的にハグをし両頬にキスをした。

それ以外の方法ではこの感情を表せないと思ったから。

その瞬間、僕は自分の固く閉ざされた言語体系にひびが入り、その隙間からカラダがほんの少しはみ出したような気がした。

そして、ヘッセの『デミアン』の一節、「卵は世界だ、生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない」という言葉が頭に浮かんだ。

締切が近づいて少し頭がおかしくなっているのかもしれない

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