それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ゲスの川谷とベッキーの教え:規範的な議論より、リスクマネージメントについて考えてみては

2016-01-17 20:14:55 | イギリス生活事件簿
 ゲスの極み乙女。のボーカル(川谷)とベッキーの不倫騒動を見て、多くの人が一体誰が悪いかということについて考えただろう。

 ただ、そういう規範的な議論をしても実際どうかな、とも思う。

 ゲスの川谷もベッキーも刑法を破ったわけではない(そういう法律はとうの昔に廃止されたわけで)。だから犯罪者ではない。

 ゆえに、これは公的な問題ではなく私的な問題であって、あくまで民法の力を利用しながら、私人間で決着するだけの話である。

 (ただし、社会の倫理や規範というものが、メディアに露出の多い人たちによって変容する可能性があるので、その点、社会的責任がないとは言えないが。)

 不倫問題の場合、視聴者の多くは「裁判官」になって、誰がどのような罪を犯したのか判断しようとするが、誰も罪を犯していないし、視聴者は裁判官ではない。

 視聴者が唯一できるのは、ゲスの川谷やベッキーが関連する商品にお金を使うのか否か、というその一点に限られる。

 市場でのみ「裁判官」としての思いを存分に生かせるわけだ。



 その一方、多くの視聴者が不倫そのものについて色々考えたであろうことも想像に難くない。

 僕もマンガ『アラサーちゃん』の中の格言、「不倫は予防接種!若いうちに済ませておくに越したことはない」を思い出した。

 若い女性が年上の男性に恋をして、それが不倫になる場合はよくある。あまりにもありふれている。僕もそういう話を何人かの当事者から直接聞くことがあった。

 ただ、当事者のなかには自分がどういう状態にあり、どういう行為をしているのか、客観的に理解できている人も多くて、そういう場合、大きな火傷を負うことは少ないようだ。

 不倫だって一種の実験。やってみなければ分からないものなのだろう。そこから教訓を得て十分満足してしまえば、残りの人生は無駄にならないし、ダメージも少ない。

 問題は、客観的に理解できていなかったり、理解できていても精神的に強烈に依存していたりする場合だ。

 この場合、「予防接種」はそのまま「病気」になってしまうわけで、それがベッキーの事例なのである。

 ベッキーの場合、予防接種がなぜ病気なってしまったのかはよく分からない。

 ベッキーに内在的な問題と、川谷が繰り出した甘言の問題と、色々あっただろうけれど、そこはそれ以上考えようがない。



 それで正直言って、ゲスのボーカルがどうなろうと、それは仕方がない。彼の場合、社会的信頼を失うとともに、離婚を不成立にさせるに余りあるほど過失をやってのけているし、そもそも過失だとも思っていないかもしれない。

 そんなゲスは置いておいて、ベッキー、そしてベッキーと同じように不倫が「病気」になってしまったり、なりかけている人は、今回の事例から何かを学び取る必要がある、ということを声を大にして言いたい(=無駄)。

 要するに、不倫にまつわる社会・経済的なリスクと、そのマネージメントの方法についてだ。

 規範的な話よりも、こっちの方が社会的にはずっと大事に思える。

 私の周囲には、不倫の末にシングルマザーになった人が二人いるのであって・・・(逆にそれをちゃんと回避した人が数名)。

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