ドラマ「ジャンクション39 ~男たち、恋に迷走中!~」(NHK BSプレミアム)が興味深かった。
39歳を迎えた男性3人が、どうやったら彼女ができるか考え、試し、迷走する話だ。
この男性3人を演じるのが、武田真治(イケメンだがイタい役)、野間口徹(真面目で高収入だがユーモアが欠如の役)、ダイノジ大地(私生活も仕事も母親とべったりの役)で、とにかくこれが見事なキャスティング。
ストーリー展開のテンポが良く、セリフの歯切れも見事。アドリブも多かったとされ、笑いどころも多かった。
それもそのはず、演出を手掛けたのが「サラリーマンNEO」の監督で知られる吉田照幸だったとのこと。
ドラマで語られるのは、男性(しかもヘテロ)の目線でのパートナーの作り方だ。
女性とどういう風にメールを書くべきか、どういう会話をすべきか、どういう風に女性に慣れていくべきか。
男性が培ってきたコミュニケーションやデートのノウハウは、多くの場合間違っており、それが面白い事件を惹き起こす。
それは決して特殊なことではなく、日常的に起きている。
私が女性の友人たちから聞くデートの感想は、いつも男性として胸が痛くものばかりで、このドラマ以上に世界は悲劇と喜劇に満ちている。
このドラマから見えてくるのは、恋愛と結婚という物語の怖さだ。
パートナーをどのように探すのかについては、学校で教えてくれない。おそらく保護者も十分に教えてくれない。
だから、この分野は常に独学で、それゆえに間違いだらけで、体系を成していない。
もし仮に体系的に教えられるようになったとしても、それはもはや有効ではないかもしれない。
なぜなら、そこにはロマン、すなわち、偶然や運命といったものを感じさせるものが存在しないからだ。
今の日本社会におけるパートナー候補との関係の構築は、「物語」だ。
人口の流動性が著しく低い前近代的な社会であれば、パートナー候補との関係の構築は、「制度」だった。
この違いは著しい。
物語には明確なルールがなく、周囲からのサポートもない。
すべては偶然と運命と奇跡で出来ているフリをしており、最終的に人間個人の力が試される。
恋愛や結婚は、市場における経済活動とは異なる。
人間は非合理的で、カップルはお互いの非合理性と付き合うことになる。
趣味や社会的地位などのデータ、容姿の好みの組み合わせだけでは、この物語は成立しない。
人間の主観のなかで、相手がどのように映り、自分がどのように映っていると理解するかが、ここでの鍵となる。
だから、客観的データは究極的には意味がない。というか、間接的な意味しか持たない。
極端な言い方をすれば、恋愛も結婚も勘違いと錯覚の連続の上に成り立つ。
モテる、モテない、を決めるのは、非常に抽象的な言い方をすれば、フィクションを相手の人間との間に構築する能力だと言える。
つまり、モテる人間は、相手に物語を信じ込ませる良き作家であり、役者であり、場合によってはほら吹きである。
日本のように、自分たちの行動を絶えずメディアのなかで類型化し、「あるあるネタ」にしてしまう社会では、常に恋愛における行動は再帰的に反省の対象になる。
そして、このドラマもその社会的構造の一部を成している。
つまり、何もかも「ネタ」として消費されてしまい、物語を作る方法論は常に変わり続ける。
もし、このマトリクスから脱出してパートナーを選びたいなら、その人の思考そのものを徹底的にお互いに分析し、理解し合う必要がある。
だが、そこにはロマンがない。それを果たして許容できるのか、という問題になる。
で、結局何が言いたいかというと、「恋愛→結婚」が物語であり続ける以上、人間は結婚しないか、さもなくば、簡単に離婚するということだ。
物語はフィクション。
フィクションは、いわば幻想だ。
このNHKのドラマは、恋愛をめぐる幻想(虚構)と現実の間で揺れる人間の群像そのものだ。
だが、単にこんな結論では、社会が立ち行かない。
社会全体にとってみれば、労働力および消費者の再生産という意味で、結婚は非常に重要な要素となり、個人の好き勝手に任せられないほどの重要性がある。
だから、そもそも前近代の社会では、結婚はある程度、制度化されていた。
そこに個人の物語が入り込む余地は少なかった。
社会が維持され、人間が生活するには、制度によって結婚がある程度担保されている必要があった。
だが、近代化され豊かになった社会のなかで、人間は「物語」を強制されている。
「さあ、どうぞ、ご自由に自己実現なさってください」という社会のなかで、恋愛から結婚への過程は、超自然的なロマン主義的物語として構成される。
けれども、それでは困る事態になっている。
日本の場合、出生率の上昇において重要なのは、実のところ、結婚する割合の上昇である。
2014年の合計特殊出生率が1.43、2010年の夫婦の子ども数(完結出生児数)が1.96。
そして、婚姻率は1947年から現在までの数値を見ると、半分以下にまで減少し、現在も減少傾向が続いている。
そのうえ、初婚の年齢も引き上がっている。
恋愛と結婚という絶望的なフィクションの世界を、どのように制度の世界と再び接合できるか。
その課題をクリアしなければ、日本の人口減少は止まらないだろう。
39歳を迎えた男性3人が、どうやったら彼女ができるか考え、試し、迷走する話だ。
この男性3人を演じるのが、武田真治(イケメンだがイタい役)、野間口徹(真面目で高収入だがユーモアが欠如の役)、ダイノジ大地(私生活も仕事も母親とべったりの役)で、とにかくこれが見事なキャスティング。
ストーリー展開のテンポが良く、セリフの歯切れも見事。アドリブも多かったとされ、笑いどころも多かった。
それもそのはず、演出を手掛けたのが「サラリーマンNEO」の監督で知られる吉田照幸だったとのこと。
ドラマで語られるのは、男性(しかもヘテロ)の目線でのパートナーの作り方だ。
女性とどういう風にメールを書くべきか、どういう会話をすべきか、どういう風に女性に慣れていくべきか。
男性が培ってきたコミュニケーションやデートのノウハウは、多くの場合間違っており、それが面白い事件を惹き起こす。
それは決して特殊なことではなく、日常的に起きている。
私が女性の友人たちから聞くデートの感想は、いつも男性として胸が痛くものばかりで、このドラマ以上に世界は悲劇と喜劇に満ちている。
このドラマから見えてくるのは、恋愛と結婚という物語の怖さだ。
パートナーをどのように探すのかについては、学校で教えてくれない。おそらく保護者も十分に教えてくれない。
だから、この分野は常に独学で、それゆえに間違いだらけで、体系を成していない。
もし仮に体系的に教えられるようになったとしても、それはもはや有効ではないかもしれない。
なぜなら、そこにはロマン、すなわち、偶然や運命といったものを感じさせるものが存在しないからだ。
今の日本社会におけるパートナー候補との関係の構築は、「物語」だ。
人口の流動性が著しく低い前近代的な社会であれば、パートナー候補との関係の構築は、「制度」だった。
この違いは著しい。
物語には明確なルールがなく、周囲からのサポートもない。
すべては偶然と運命と奇跡で出来ているフリをしており、最終的に人間個人の力が試される。
恋愛や結婚は、市場における経済活動とは異なる。
人間は非合理的で、カップルはお互いの非合理性と付き合うことになる。
趣味や社会的地位などのデータ、容姿の好みの組み合わせだけでは、この物語は成立しない。
人間の主観のなかで、相手がどのように映り、自分がどのように映っていると理解するかが、ここでの鍵となる。
だから、客観的データは究極的には意味がない。というか、間接的な意味しか持たない。
極端な言い方をすれば、恋愛も結婚も勘違いと錯覚の連続の上に成り立つ。
モテる、モテない、を決めるのは、非常に抽象的な言い方をすれば、フィクションを相手の人間との間に構築する能力だと言える。
つまり、モテる人間は、相手に物語を信じ込ませる良き作家であり、役者であり、場合によってはほら吹きである。
日本のように、自分たちの行動を絶えずメディアのなかで類型化し、「あるあるネタ」にしてしまう社会では、常に恋愛における行動は再帰的に反省の対象になる。
そして、このドラマもその社会的構造の一部を成している。
つまり、何もかも「ネタ」として消費されてしまい、物語を作る方法論は常に変わり続ける。
もし、このマトリクスから脱出してパートナーを選びたいなら、その人の思考そのものを徹底的にお互いに分析し、理解し合う必要がある。
だが、そこにはロマンがない。それを果たして許容できるのか、という問題になる。
で、結局何が言いたいかというと、「恋愛→結婚」が物語であり続ける以上、人間は結婚しないか、さもなくば、簡単に離婚するということだ。
物語はフィクション。
フィクションは、いわば幻想だ。
このNHKのドラマは、恋愛をめぐる幻想(虚構)と現実の間で揺れる人間の群像そのものだ。
だが、単にこんな結論では、社会が立ち行かない。
社会全体にとってみれば、労働力および消費者の再生産という意味で、結婚は非常に重要な要素となり、個人の好き勝手に任せられないほどの重要性がある。
だから、そもそも前近代の社会では、結婚はある程度、制度化されていた。
そこに個人の物語が入り込む余地は少なかった。
社会が維持され、人間が生活するには、制度によって結婚がある程度担保されている必要があった。
だが、近代化され豊かになった社会のなかで、人間は「物語」を強制されている。
「さあ、どうぞ、ご自由に自己実現なさってください」という社会のなかで、恋愛から結婚への過程は、超自然的なロマン主義的物語として構成される。
けれども、それでは困る事態になっている。
日本の場合、出生率の上昇において重要なのは、実のところ、結婚する割合の上昇である。
2014年の合計特殊出生率が1.43、2010年の夫婦の子ども数(完結出生児数)が1.96。
そして、婚姻率は1947年から現在までの数値を見ると、半分以下にまで減少し、現在も減少傾向が続いている。
そのうえ、初婚の年齢も引き上がっている。
恋愛と結婚という絶望的なフィクションの世界を、どのように制度の世界と再び接合できるか。
その課題をクリアしなければ、日本の人口減少は止まらないだろう。
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