それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

とらドラ評:家族になるとは

2012-02-23 00:37:58 | コラム的な何か
研究が佳境だというのに、いや佳境だからこそ私はアニメのレビューを書こうと思う。

私が合間合間でゆっくりと見てきたアニメ、それが「とらドラ」。

評判が非常によく、実際見てみると興味深い点がいくつかあった。



あらすじ。

高校2年生の高須竜児は、ひょんなことから同級生の逢坂大河とそれぞれの恋愛を成就させるべく協力しあうようになる。竜児は生まれつき目つきが鋭く、よく不良と誤解されてきたが、実際には料理や掃除などが得意な優しい青年だった。一方、大河は小柄な美少女であるにもかかわらず、きわめて暴力的な性格の持ち主だった。

高校2年の一年間を舞台に、ふたりとその同級生たちが織りなすラブ&コメディ&ちょっとシリアスな展開が見どころ。



このアニメを見はじめたとき、すぐに止めようかと思った。

理由は、出てくるキャラクターがあまりにも「アニメ好きのためのアニメ」に出てくるキャラクターだったからだ。言葉の使い方、他者への好意の表現、極端な性格の設定、ところどころはさんでくる小ネタ、いずれもギーク感がにじんでいる。

けれども話が進むにつれて、そのノイズが気にならなくなってくる。理由は、それぞれの登場人物の行動の動機が丁寧に描かれているからだ。特にキャラクターが全員そろった中盤からはストーリーもしっかりしてくる。

なぜバイトを一生懸命するのか。なぜ課外活動に真剣になったのか。なぜある特定の人物を好きになったのか。何にこだわり、何がコンプレックスで、何が問題なのか。その点を比較的誠実に描いている。

もちろん、ご都合主義的な展開や、あまりにも極端な行動はアニメだもの、劇画だものご愛敬。それが無ければ意味がない。



僕が一番面白いと思ったのは何かというと、この物語のなかでは「恋愛」と「パートナーになる、家族になる」ということが絶妙に対比されているところだ。

恋愛対象にドキドキし、モジモジし、何も言えなかったり、思ってもみないことを言ったり、とにかく恋愛は面白い。このアニメのストーリーの推進力は、基本的にこの恋愛のエネルギーだ。

しかし、ここが重要なのだが、この物語では同時に「パートナーになろうとする、家族になろうとする」エネルギーがどんどん大きくなっていく。

誰かと一緒にいる、ということの動機には色々ある。友情、恋愛感情、惰性というのもあるかもしれない。だけど、家族だから一緒にいる、その人と自分はパートナーだから一緒にいる、一番わかり合っているから、あるいは、一番分かってもらいたいから一緒にいる、というのもある。

主人公とヒロインは欠損している。何かが欠損している。

おそらく人は皆、何かしら欠損している。不得意なことがあったり、どうしても人に言えないことがあったり、なかなか人に分かってもらえないことがあったり、どうしても欲しいけれど手に入らないものがあったり、とにかく何か欠けている。

欠けているから、欠損しているから、誰かと一緒にいて助け合って、相手の欠けていることを認めて、それでもいいんだよと言ってあげたり、あるいはそれでも負けるなと励ましたり、そのためにパートナーになるのだと思う。

それは恋愛の感情と近いけれど、やっぱり異なるものだと私は思う。

家族になることは、やっぱり家族になることなのであり、それ以下でもそれ以上でもないのだと思う。

恋愛感情が沢山混じっていても、それが入口でも何でも、とにかくそのふたつは異なるのだと思う。

このアニメはそのことを明らかにする。

パートナーになることがどういうことなのか、主人公たちは徐々に自覚していく。



主人公たちは自分たちの何が欠損しているのか、なかなか自覚できない。

自覚出来ていることもあれば、全くよく分かっていないこともある。

自分でも何か分からない自分の欠損、あるいは欲望や恐れを「誰にも自分すらも分からない」と自覚しながら前に進んでいく。

大いに傷つきつつも、遂には悟っていく。



このアニメは非常にうるさい。

良いことを言おうとし過ぎる。それは少女漫画にありがちな傾向だが、このアニメはその傾きが顕著だ。

それはノイズになるかもしれない。しかし、それに負けないほどストーリーはがっちりしていると言っていいだろう。

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