それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

NHK「オイコノミア」:社会科学の理論と向き合う千鳥・大悟の活躍

2015-07-11 17:48:32 | テレビとラジオ
NHK「オイコノミア」は、経済学によって、われわれの身近な問題を考えるバラエティ番組である。

パーソナリティはピースの又吉。彼の落ち着いた語り口と独特のセンスが番組にぴったりである。

又吉とともに番組を進めるのが経済学を専攻する研究者で、それは番組のテーマによって変わる。



先日の「それっておトク?飲み屋選びの経済学」では、千鳥の大悟がゲストで呼ばれた。

大悟がすごく良いコメントをしていたので、今日はこの番組を取り上げることにした。

大悟は酒豪として知られ、それでこの回に呼ばれたらしい。

面白かったのは次の場面。

経済学の研究者が飲み放題はどこまで得なのか考えてみることを提案。

(*ちょっとややこしいので、適当に読み飛ばして。)

例えば、仮に飲み物をビールに絞って考えてみる。

まず、一杯目のビールにいくら支払いたいか(主観的な希望支払額)。・・・それを仮に500円とする。

では、二杯目は。・・・ちょっとビールにも飽きるので、400円としてみる。

これを繰り返すと、どんどん値段は下がり、6杯目は0円になる(と仮定してみよう)。

仮にビール一杯が単品で300円だとすれば、3杯目の時点で満足度は0になる。

単品でビールを3杯飲むと900円だが、支払希望額は1200円となる。

ということは300円得をし、それ以上、飲んでもこの「得」(支払いたい金額-実際の金額)は増えない。

もし、飲み放題を1500円とすると、どうなるか。

支払希望価格が1500円になるには、ビールを5杯飲む必要があり、この場合、飲み放題の価格と支払希望価格が一致する。

ということは5杯飲んだ場合、「主観的に支払いたい金額」=「実際に支払う金額」、になる。

もし6杯以上飲んでも、本人はまったく満足度がないため、意味がない。

この場合、飲み放題にしても、まったく得をしないという結論になる。



すごく簡単に言えば、飲み放題は沢山飲めば一見安いように思うが、実はそれは間違っている、ということ。

沢山飲んでも満足しないのだから、飲み放題にしても多くの場合、意味がない。

それを数値を使って説明すると以上のようになるのである。



しかし、この話に大悟は納得しない。

大悟は言う。「先生、2杯目からも1杯目と同じ満足を得られる人もおるのです。」

そうだ、主観的な満足は人それぞれなのだから、当然飲み放題が損とは限らない。

研究者は言う。「そのとおり、その場合、支払希望額の減り方が少ないんですね。そういう場合、飲み放題は得になります。」



さらに大悟は言う。「先生、途中で仲間が入ってきたら、また満足度が上がる場合もあります。」

そうだ、主観的な満足は外部的な要因によって影響があり得る。

例えば、三杯目でビールと相性の良い料理が出てきた場合、急にビールの満足度は上昇する。

研究者は言う。「そのとおり、この計算は外部的な要因を除外しています。」

大悟は追撃する。「先生、居酒屋は外部的な要因だらけです!!」



いいぞ、大悟。素晴らしいぞ、大悟。

そうなのだ。いかなる魅力的な社会科学の理論も、実際の社会ではまったく非現実的な場合も多い。

というか、そういう理論の方が多い。

理論は一度机上で組み立て、様々な要素を除外することで、成立する。

理論は、その後の様々な修正によって少しずつ現実的になっていくのである。

経済学の研究者の説明は決して無意味ではない。

しかし、それをそのまま鵜呑みにしてもダメだ。



もし、鵜呑みにしたらどうなるか。

鵜呑みにした人は、飲み放題の時に毎回、自分の支払い希望額を計算するだろう。

そして、それで損したのか、得したのかを考えるようになる。

この場合に何が起きているのか。

実は、理論が人間の主観を乗っ取ってしまっているのだ。

普通なら全く別の基準で自分の満足度を測っていた人間が、「理論」というものを飲み込んだ結果、満足度の基準を変更してしまった、というおかしな現象が起きたのである。

つまり、社会科学の理論は、人間の主観を乗っ取って変えてしまう場合があるのだ。

そういう意味で、社会科学の理論は一見、普遍的で中立的に見えるが、実際には人間の形成そのものに関与しているので、中立ではないのである。



ゲストである千鳥の大悟は、自分の経験と経済学の理屈をうまく比較して、人間と社会科学の相互作用を見事に照射してみせたのであった。

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