『アルゼンチンババア』
2007年 日本
監督 長尾直樹
出演 ユリ 鈴木京香
みつこ 堀北真希
父 役所広司
街の外れの野原の真ん中に、アルゼンチンババアと言われる女の人が住んでいた。昔はタンゴやラテン語を教えていたらしいけれど、一風変わっていて、子供たちには魔女のような存在に見られていた。
みつ子が高校生の時、母が病気で亡くなり、ショックで父はその日から行方をくらましてしまう、ところが半年後、ユリと同居していることが発覚し、みつこは取り戻そうと乗り込んでいく。
母の死を受け止められない父と、血を吐いている母を見て「もういい、早く死んで。」と思ってしまったことを悔いているみつ子。二人が向き合うまでの時間にユリがいた。
そして、ユリは子供を産んで死んでしまう。みつこと父はその子と一緒にまた新しい生活を始める。
みつこが母にたいして、「もういい、早く死んで。」と思ったことをずっと悔んでいた気持ち。辛かっただろうな。人は何かしら後悔しながら生きているのだと思う。それを一人で抱えなくてはいけないのが辛い。だれかに共感してもらえて、その痛みを少しずつ取り除いて、もしくはその痛みを分かち合いながら忘れて、乗り越えて行けるものだと思う。
だれかに話しても理解されないと、だんだん打ち明けること自体ためらってしまいがちになる。それじゃぁなんの解決にもならなくて、かえって自分で抱え込むことになってしまうのだけれど、話して理解されなかった時の重苦しさを思い返すと、もう二度と人には言うまいとかたくなになってしまう。
でも、それは避けたい。もなみ自身もそうだけど。もなみのとことに来る人にもそうであって欲しい。痛みはわかちあおう。自分と違う考えであっても、自分にとっては何でもない取るに足らない痛みや後悔であっても、その人にとっては辛いことなんです。
もし、心に痛いことが残っていたら、もなみに話して欲しい。
その痛み 抱え込まないでね。
映画からずいぶん離れてしまったかな。
アルゼンチンババアは、そういう方向ではなく、ユリが父を癒しつつみつこも受け入れていくというお話でした。
しかし、アルゼンチンババアは夏木マリのほうがいいんじゃない?
鈴木京香 若過ぎ。
2007年 日本
監督 長尾直樹
出演 ユリ 鈴木京香
みつこ 堀北真希
父 役所広司
街の外れの野原の真ん中に、アルゼンチンババアと言われる女の人が住んでいた。昔はタンゴやラテン語を教えていたらしいけれど、一風変わっていて、子供たちには魔女のような存在に見られていた。
みつ子が高校生の時、母が病気で亡くなり、ショックで父はその日から行方をくらましてしまう、ところが半年後、ユリと同居していることが発覚し、みつこは取り戻そうと乗り込んでいく。
母の死を受け止められない父と、血を吐いている母を見て「もういい、早く死んで。」と思ってしまったことを悔いているみつ子。二人が向き合うまでの時間にユリがいた。
そして、ユリは子供を産んで死んでしまう。みつこと父はその子と一緒にまた新しい生活を始める。
みつこが母にたいして、「もういい、早く死んで。」と思ったことをずっと悔んでいた気持ち。辛かっただろうな。人は何かしら後悔しながら生きているのだと思う。それを一人で抱えなくてはいけないのが辛い。だれかに共感してもらえて、その痛みを少しずつ取り除いて、もしくはその痛みを分かち合いながら忘れて、乗り越えて行けるものだと思う。
だれかに話しても理解されないと、だんだん打ち明けること自体ためらってしまいがちになる。それじゃぁなんの解決にもならなくて、かえって自分で抱え込むことになってしまうのだけれど、話して理解されなかった時の重苦しさを思い返すと、もう二度と人には言うまいとかたくなになってしまう。
でも、それは避けたい。もなみ自身もそうだけど。もなみのとことに来る人にもそうであって欲しい。痛みはわかちあおう。自分と違う考えであっても、自分にとっては何でもない取るに足らない痛みや後悔であっても、その人にとっては辛いことなんです。
もし、心に痛いことが残っていたら、もなみに話して欲しい。
その痛み 抱え込まないでね。
映画からずいぶん離れてしまったかな。
アルゼンチンババアは、そういう方向ではなく、ユリが父を癒しつつみつこも受け入れていくというお話でした。
しかし、アルゼンチンババアは夏木マリのほうがいいんじゃない?
鈴木京香 若過ぎ。
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