今朝の日経ビジネスオンラインNo.688に、「中村玉緒の歌うCM「マロニーちゃん」が奏功 マロニー2代目社長 河内幸枝さん(後編)」という記事がありました(http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20090216/186201/参照)。
現在、売り上げが好調のマロニーの社長、河内幸枝さんのお話です。
幸枝さんは、マロニーの創業社長吉村義宗さんの3姉妹の長女で、40歳まで箱入り娘、専業主婦として過ごしていたのだそうです。
幸枝さんの旦那さんが、将来の社長候補として入社し、経営を手伝っていたのですが、経営方針の違いで会社を辞めてしまいます。
2女、3女の旦那さんに、次期社長の話が行きますが、最終的に幸枝さんに話が来ました。
1984年4月の出社初日は、河内は会社を目の前にして足がすくんでしまったそうです。
当時すでに100人を超える社員がいました。
入社当時の肩書は、総務部長。しかし、入社してから2年もの間、幸枝さんに仕事らしい仕事はほとんどありませんでした。
それまで働いた経験すらないので、貸方、借方といった言葉も、もちろん分かりません。
次から次へと書類を引っ張り出しては、自分のノートに書きつけるうちに、会社というものがおぼろげながら見えてきました。
しばらく経つと、「“なんで”の河内(かわち)」と呼ばれるほど、「なんでそうなるの?」「なんでそうしたいの?」と、社員をいつも質問攻めにするようになりました。
もう1つ、幸枝さんの“素人目線”が生きたのが、中村玉緒さんのテレビCM起用です。
「なんとか東京での認知度を上げたい」と考えたのが、東京でテレビCMを流すことでした。ただ、予算の関係上、流せるのは1日1本程度。そこで「一度見たら忘れられないCMをつくろう」と選んだのが、中村玉緒さんでした。
その後、河内は専務取締役を経て、1991年に父の跡を継いで社長に就任。
順調に事業を伸張させていきました。
父が育てた大事な会社や商品、社員を守りたい。少なくとも父が生きている間は人手になど絶対に渡さない――。幸枝さんはその一心でここまでやってきました。父が亡くなった今もその気持ちは変わらないということです。
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働いた経験がない専業主婦からの出発でも、懸命にやれば、父親が興した会社をさらに大きくすることもできるというお話に、前篇も合わせて読んでしまいました。
現在、売り上げが好調のマロニーの社長、河内幸枝さんのお話です。
幸枝さんは、マロニーの創業社長吉村義宗さんの3姉妹の長女で、40歳まで箱入り娘、専業主婦として過ごしていたのだそうです。
幸枝さんの旦那さんが、将来の社長候補として入社し、経営を手伝っていたのですが、経営方針の違いで会社を辞めてしまいます。
2女、3女の旦那さんに、次期社長の話が行きますが、最終的に幸枝さんに話が来ました。
1984年4月の出社初日は、河内は会社を目の前にして足がすくんでしまったそうです。
当時すでに100人を超える社員がいました。
入社当時の肩書は、総務部長。しかし、入社してから2年もの間、幸枝さんに仕事らしい仕事はほとんどありませんでした。
それまで働いた経験すらないので、貸方、借方といった言葉も、もちろん分かりません。
次から次へと書類を引っ張り出しては、自分のノートに書きつけるうちに、会社というものがおぼろげながら見えてきました。
しばらく経つと、「“なんで”の河内(かわち)」と呼ばれるほど、「なんでそうなるの?」「なんでそうしたいの?」と、社員をいつも質問攻めにするようになりました。
もう1つ、幸枝さんの“素人目線”が生きたのが、中村玉緒さんのテレビCM起用です。
「なんとか東京での認知度を上げたい」と考えたのが、東京でテレビCMを流すことでした。ただ、予算の関係上、流せるのは1日1本程度。そこで「一度見たら忘れられないCMをつくろう」と選んだのが、中村玉緒さんでした。
その後、河内は専務取締役を経て、1991年に父の跡を継いで社長に就任。
順調に事業を伸張させていきました。
父が育てた大事な会社や商品、社員を守りたい。少なくとも父が生きている間は人手になど絶対に渡さない――。幸枝さんはその一心でここまでやってきました。父が亡くなった今もその気持ちは変わらないということです。
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働いた経験がない専業主婦からの出発でも、懸命にやれば、父親が興した会社をさらに大きくすることもできるというお話に、前篇も合わせて読んでしまいました。
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