今日、興味ある記事を見つけたので、それを書き留めますね。
『「死にたい」に寄り添うには』というタイトルです。
親は自分の武勇伝を語らない方がいい
「自分もつらかったけど、そこで一念発起して頑張ってね、いい学校に行って、こうなれるから、頑張れ」ではなく、
「実は俺もなあ、よくなかったんだよ。勉強もできなかったし。でも、失敗してもなんとかなるんじゃない?」
という、ずっこけた話とか、失敗した話をするほうがいい。
子どもたちは大人の武勇伝より、失敗談の方に目を光らせる。
それが、「今はダメでも、人生にはいろんな選択肢があるんだ」という気持ちにさせる。
大学生の自殺で古くからよく言われていること。
ある時期、街中にあった大学が、手狭になって、郊外の学園都市みたいなところに移転すると、自殺が増える。
学校の中でドン詰まると、本当に孤立してしまう。
自殺が少ない学校の特徴は、周りに歓楽街とか雀荘とか、学業から逸脱するのに便利な場所がたくさんあるところ。
そこで若者たちが見るのは、いろんな生き方があり、「多様な選択肢がある」ということ。
それが、ドン詰まってる人たちにとって、逃げ道になる。
自殺の危険があって措置入院になった人たちの典型的なケースは、すぐ「よくなる」「元気になりました」と言う。
「なんであの時、死にたいって思ったのかなあ。どうかしてましたね、私」って。
そして、退院させてもらってすぐに、自殺行為をやる。
「ダメだ」と言われている中では、本音は語れない。
「もう死にたい」って言った瞬間に、「あなたは退院させられません、自傷の恐れがあるので措置入院に切り替えます」となるから。
「何があってもダメなんだ。人は死んではならない」という社会では、ほんとに苦しい人は何も言えないし、助けを認められない。
安心して「死にたい」と言える社会でないといけない。
相手の意見を、「そっか、あなたはそう考えるんだね」「その考えは間違ってるとは思わないけど、自分はこう思うよ」と、
相手の主張を認めたうえで、自分の考えを言うのはかまわない。
「いろいろ考え方があるよね」という感じ。
ただ、「私自身の個人の考えを言えば、でも、あなたには死んでほしくない、って思ってるんだ」と。
議論ではなく、そういう対話であればいいと思う。
まず友達の場合、聞いてあげることと、否定しないこと。
死にたい理由を言ってくれても、解決困難な問題も多い。
それを解決しなきゃ、って思うから、死にたい人の相談は苦しい。
だから、「何もできないけど、聞くことはできるよ」っていうスタンスでいい。
そばにいてくれて、否定されず、「ああ、あなたは今、死にたいくらいつらいんだね」と受け止めてくれた。
それだけでも、救われると思う。
そして、できれば次に会う約束をしてほしい。
「次の約束まで生きている」っていう時限的な契約を毎回、更新していく……みたいな関わり。それでいいと思う。
死にたいって思う人をサポートする人たちにも、サポーターが必要。
話を聞いてあげたあとに、「どうだろう、今度さ、保健所とか精神保健福祉センターとかに行ってみない? もし何なら、私もついて行くよ」というふうに、身近な人が、より専門的な支援機関につなげるのを助ける役割をしてほしい。
身近な人はどこかで卒業していって、専門職の支援者の方にゆだねていく。
あるいは、関わり続けたとしても、「1人で背負う」という負担を回避する。
そういうことが、すごく大事。
1人で抱えていると、自分がなんとかしなきゃ、助けてあげなきゃ、その人の問題を解決してあげなきゃ、と意気込んでしまい、
それが本人にもプレッシャーになってしまう。
難しいことは専門家に任せて、自分は素人として、できることをすればいい。
できるのは聞くことだけということ。
自分の家族の誰かが、いつも「死にたい死にたい」って言っている場合・・・
家族自身が保健所や精神保健センターに行って、「こういう状況なんです」と相談することが大事。
できれば定期的に行って、愚痴っていい。
本人の目の前で言うと余計傷つけちゃいそうな言葉も、そういう所で言えたらいい。
「死にたい」って言われる度に、自分が親として、家族としての対応を非難されているような気がしてくる。
それが怒りとか敵意になって、言わなくていいことも言ってしまう。
家族がそうならないようにするためには、家族のサポーターが必要。
家族の気持ちになって、「おつらいですよね。仕事から帰ると、死にたい死にたいと言われて」と共感してくれる人がいるかいないかで、
ずいぶん家族のスタミナ、心のスタミナの持ち具合が違ってくる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私が今日、読んだのは、『「死にたい」に寄り添うには』の第5回です。
「死にたい」という言葉・・・
「自分が直面している困難は解決不可能だ」「自分の中では万策尽きた気がしている」、
そして、「この苦痛から逃れるための解決策は一つしかない。
自分の一切の意識活動を停止させることだ」というのが、「死にたい」ということなのではないかと。
それを誰かに告げるということは、
「死にたいぐらいつらい」「でも、そのつらさが少しでも和らぐのであれば、本当は生きたい」という気持ちもあるのだと思うと。
実際に、睡眠薬などを大量に飲んだ人で、助かった人に聞くと、
「死にたい」と思って薬を飲んだ人は半分しかいなかったと。
それ以外の人たちは、「つらい気持ちを何とかしたい」「嫌な気持ちを忘れたい」などという理由だったそうです。
「ただ話を聞く」ことで助かる命はあるのですね。
元記事をここに貼っておきます。
興味のある方はどうぞ読んでみてください。
「死にたい」に寄り添うには(1)この人なら分かってくれる…自殺予告の相手は「選ばれている」
「死にたい」に寄り添うには(2)虐待した母が自殺 嫌いな「顔」の整形繰り返した末…
「死にたい」に寄り添うには(3)「生きてさえいれば、きっといいことがある」は、言っていいのか?
「死にたい」に寄り添うには(4)増える未成年の自殺 衝動…思いついてから1時間ぐらいで
「死にたい」に寄り添うには(5)歓楽街に近い学校で自殺が少ないのはなぜか?
『「死にたい」に寄り添うには』というタイトルです。
親は自分の武勇伝を語らない方がいい
「自分もつらかったけど、そこで一念発起して頑張ってね、いい学校に行って、こうなれるから、頑張れ」ではなく、
「実は俺もなあ、よくなかったんだよ。勉強もできなかったし。でも、失敗してもなんとかなるんじゃない?」
という、ずっこけた話とか、失敗した話をするほうがいい。
子どもたちは大人の武勇伝より、失敗談の方に目を光らせる。
それが、「今はダメでも、人生にはいろんな選択肢があるんだ」という気持ちにさせる。
大学生の自殺で古くからよく言われていること。
ある時期、街中にあった大学が、手狭になって、郊外の学園都市みたいなところに移転すると、自殺が増える。
学校の中でドン詰まると、本当に孤立してしまう。
自殺が少ない学校の特徴は、周りに歓楽街とか雀荘とか、学業から逸脱するのに便利な場所がたくさんあるところ。
そこで若者たちが見るのは、いろんな生き方があり、「多様な選択肢がある」ということ。
それが、ドン詰まってる人たちにとって、逃げ道になる。
自殺の危険があって措置入院になった人たちの典型的なケースは、すぐ「よくなる」「元気になりました」と言う。
「なんであの時、死にたいって思ったのかなあ。どうかしてましたね、私」って。
そして、退院させてもらってすぐに、自殺行為をやる。
「ダメだ」と言われている中では、本音は語れない。
「もう死にたい」って言った瞬間に、「あなたは退院させられません、自傷の恐れがあるので措置入院に切り替えます」となるから。
「何があってもダメなんだ。人は死んではならない」という社会では、ほんとに苦しい人は何も言えないし、助けを認められない。
安心して「死にたい」と言える社会でないといけない。
相手の意見を、「そっか、あなたはそう考えるんだね」「その考えは間違ってるとは思わないけど、自分はこう思うよ」と、
相手の主張を認めたうえで、自分の考えを言うのはかまわない。
「いろいろ考え方があるよね」という感じ。
ただ、「私自身の個人の考えを言えば、でも、あなたには死んでほしくない、って思ってるんだ」と。
議論ではなく、そういう対話であればいいと思う。
まず友達の場合、聞いてあげることと、否定しないこと。
死にたい理由を言ってくれても、解決困難な問題も多い。
それを解決しなきゃ、って思うから、死にたい人の相談は苦しい。
だから、「何もできないけど、聞くことはできるよ」っていうスタンスでいい。
そばにいてくれて、否定されず、「ああ、あなたは今、死にたいくらいつらいんだね」と受け止めてくれた。
それだけでも、救われると思う。
そして、できれば次に会う約束をしてほしい。
「次の約束まで生きている」っていう時限的な契約を毎回、更新していく……みたいな関わり。それでいいと思う。
死にたいって思う人をサポートする人たちにも、サポーターが必要。
話を聞いてあげたあとに、「どうだろう、今度さ、保健所とか精神保健福祉センターとかに行ってみない? もし何なら、私もついて行くよ」というふうに、身近な人が、より専門的な支援機関につなげるのを助ける役割をしてほしい。
身近な人はどこかで卒業していって、専門職の支援者の方にゆだねていく。
あるいは、関わり続けたとしても、「1人で背負う」という負担を回避する。
そういうことが、すごく大事。
1人で抱えていると、自分がなんとかしなきゃ、助けてあげなきゃ、その人の問題を解決してあげなきゃ、と意気込んでしまい、
それが本人にもプレッシャーになってしまう。
難しいことは専門家に任せて、自分は素人として、できることをすればいい。
できるのは聞くことだけということ。
自分の家族の誰かが、いつも「死にたい死にたい」って言っている場合・・・
家族自身が保健所や精神保健センターに行って、「こういう状況なんです」と相談することが大事。
できれば定期的に行って、愚痴っていい。
本人の目の前で言うと余計傷つけちゃいそうな言葉も、そういう所で言えたらいい。
「死にたい」って言われる度に、自分が親として、家族としての対応を非難されているような気がしてくる。
それが怒りとか敵意になって、言わなくていいことも言ってしまう。
家族がそうならないようにするためには、家族のサポーターが必要。
家族の気持ちになって、「おつらいですよね。仕事から帰ると、死にたい死にたいと言われて」と共感してくれる人がいるかいないかで、
ずいぶん家族のスタミナ、心のスタミナの持ち具合が違ってくる。
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私が今日、読んだのは、『「死にたい」に寄り添うには』の第5回です。
「死にたい」という言葉・・・
「自分が直面している困難は解決不可能だ」「自分の中では万策尽きた気がしている」、
そして、「この苦痛から逃れるための解決策は一つしかない。
自分の一切の意識活動を停止させることだ」というのが、「死にたい」ということなのではないかと。
それを誰かに告げるということは、
「死にたいぐらいつらい」「でも、そのつらさが少しでも和らぐのであれば、本当は生きたい」という気持ちもあるのだと思うと。
実際に、睡眠薬などを大量に飲んだ人で、助かった人に聞くと、
「死にたい」と思って薬を飲んだ人は半分しかいなかったと。
それ以外の人たちは、「つらい気持ちを何とかしたい」「嫌な気持ちを忘れたい」などという理由だったそうです。
「ただ話を聞く」ことで助かる命はあるのですね。
元記事をここに貼っておきます。
興味のある方はどうぞ読んでみてください。
「死にたい」に寄り添うには(1)この人なら分かってくれる…自殺予告の相手は「選ばれている」
「死にたい」に寄り添うには(2)虐待した母が自殺 嫌いな「顔」の整形繰り返した末…
「死にたい」に寄り添うには(3)「生きてさえいれば、きっといいことがある」は、言っていいのか?
「死にたい」に寄り添うには(4)増える未成年の自殺 衝動…思いついてから1時間ぐらいで
「死にたい」に寄り添うには(5)歓楽街に近い学校で自殺が少ないのはなぜか?