最近の記憶より、遠き幼き時の記憶が鮮明に感じるときが
あります。
アジアについての記憶を辿ってみました。
横浜の北端の鶴見というところ、商店街の一隅で生まれ育った。
わが家と並びの3軒先に、中華そば屋が2軒隣合わせにあった。
台湾出身か大陸出身か分からなかったが、中国の人と思っていた。
一軒の内に同じ年頃の子がいて、小学生のころよく住まいの方へ
遊びに行った。2階の部屋は手すりがついて、広々していた。
裕福な感じがした。わが家と比べていたと思う。
おやつで、一斗缶に入った揚げ麺をボリボリ食べた。
美味しかった。
同級生でも、中国人の女の子がいた。家は商店街から離れた、丘の
上にあった。ときどき、遊びに行った。頭のよい子だと思っていた。
振りかえってみると、ぼくの中国人の記憶はこれがはじめらしい。
曹洞宗本山総持寺というのがわが家の西側に広がっていた。
この寺の保育園がその敷地の北端の崖の上にあった。
崖の下には、バラックのような家が十数軒が寄り集まって、
ぼくの記憶では何か同じような境遇で暮らしている人々が
いるように見えた。
当時のぼくにそんなイメージが強くあったとは思わないけど、
友だちがそこにいたのか、よくそこに出かけていた。
違和感がなかった。
そこが、どんな集落だったか、何か夢のなかの出来事にも
思えるけど、あとでそこが朝鮮の人たちだったかもしれないと
思ったりした。
子どもらの間で「チョーセンジン、チョーセンジンといって、ドコわるい」
みたいな囃子ことばを知らなかったわけではないが、ぼくの記憶には
身近な人には、この人がそうだとするような朝鮮人と出会ったことが
なかった。迂闊だったのか、チョウセン人というイメージが、今、思い
出してみてもなかった。
人を蔑むような記憶がないとは言えない。
高校生のころ、横浜のドヤ街に暮らす人たちに関心をもったときが
あった。今の若い人に”ドヤ街”といっても通じない。
路上生活者とまではいかないけど、日銭を稼ぎながら、日々やっと
暮らしている人たちというイメージがあった。
1週間ほど、そこで暮らした。そのときの感想文を国語の授業に
提出した。
「この人たちに生きる意味があるのだろうか」とか書いた。
女先生だったけど、手厳しいコメントが原稿用紙の欄外に書かれて
返って来た。
「その人たちがどう考えているかはわからないでしょう。
独断と偏見を感じます」
ガーンと来たのを覚えている。
大学時代、1965年ごろ、日韓条約が話題になり、学生たちは
「日韓条約反対」のデモをしていた。当時のぼくは、その意味が
よく分かっていなかった。
日本が朝鮮を植民地として併合し、朝鮮地域の人々の暮らしを
困窮に追い込み、自由を奪うことをやってきたと、歴史の本などで、
知識として入ってきた。
大杉栄など読むと、関東大震災のとき、流言飛語によって、日本の
庶民が朝鮮人を虐殺したなどの記録に触れたりした。
それでも、身に迫ってくることはなかった。
大学4年で除籍になり、そのあと、発展途上国からの技術研修生を
受け入れる通産省の外郭団体の研修施設に勤めることになった。
行き詰った気持ちで暮らしていた自分が、奇縁によって救われた。
アジア・中近東・アフリカ・ラテンアメリカから、いろいろな技術の
勉強に、いろいろな人たちがやってきていた。
韓国の浦項製鉄所の技師さん3人が、1970年ごろやってきた。
何かウマが合って、ハングルの勉強など通して、仲よくなった。
この3人が帰国した。
そのころ韓国からやってくる研修生がけっこういたので、仲のよい
上司と2人で、帰国後のそれぞれの人の様子を視察するという
名目をつくって、2月の寒い頃、10日間の韓国の旅をした。
朴大統領の統治下で、韓国全土、戒厳令がしかれていた。
研修生の視察もあるけど、そのころの韓国の人たちがどんな暮らしを
しているのかに関心があった。
ソウルから南下してプサンまでの旅だった。
朝ごはんは、街の食堂で、マッコリと味噌汁を食べた。
習いたての、単語をならべたハングルで、話しかけていると、
相手は途中から日本語を話し出したした。
「ああ、日本語ができるんだ」
ほっとするとともに、日本語が話せるその人の気持ちや背景を想
わざるを得なかった。。
韓国は貧しかった。そのころ、「ユンボギの日記」というのがあって、
子どもたちが日々生きることに精一杯の物語が日本で話題になって
いた。
喫茶店に入ると、子どもがどこからともなく入ってきて、お客がいる
テーブルにガムを置いて回る。それが、買われないと分かると、
目にも留まらないぐらいに回収して、出て行った。
麦飯だった。
プサンの西にあるマサン保税地区の工場に見学に行った。
昼ごはん、食堂で働いている人といっしょに食べた。
弁当箱に麦飯、真ん中にキムチがのせてあった。
日本でいう日の丸弁当だな、と思った。
浦項(ポハン)製鉄所に3人を訪ねた。
とても丁寧に案内していただいた。
溶鉱炉を見せてもらった。火が赤々と燃えていた。
その後、もういちど、この3人に会いたいと思いながら、果たせないで
きた。
その後、この浦項製鉄所は植民地支配時代の賠償というのではなく、
日本からの経済協力として、韓国に支払われたものの一つだった。
お金の欲しかった韓国政府はぎりぎり、それで妥協した。
日本企業が請け負って作ったもので、結果として、韓国の近代化に
おおいに貢献したということだった、ということもあると知った。
当時の韓国の人の生き様のエネルギーに圧倒された。
韓国の化学工場の生産部長と言う人と、ある夜、キャバレーで
飲んだ。12時になると、店は閉店。大急ぎで、帰路につく。
夜間外出禁止なのである。ぼくらは、部長と別れて、ホテルに
帰った。
翌朝、その街の市場を見てまわっていたら、一軒の飲み屋で
酒を飲んでいる部長に出会った。
聞くと、一晩飲み明かしたというのである。
貧しいとはいえ、並々ならぬ生への気魄を感じたのだった。
当たり前なのか、不思議なのか、中国人や朝鮮人たいしてに、
親しみや尊敬の気持ちを抱いたことはあるけど、蔑むような
気持ちをもったことはないし、体験もない。そのような記憶が
ない。
自分でもよく分からない。
優劣の感情や上下感や比較感には、人並みに染まっていたと
思う。
30代のころ、場で仕事をするときがあって、そこで働く
人たちに怒鳴られながら、と殺や皮むきをすることがあった。
必死でやっていたせいか、ここでもその人たちに特別な感情
が湧いてこなかった。ここのところが、やっぱり、不思議。
2000年のころ、ぼくが生まれ育った鶴見で、関東大震災の折、
大勢の住民が朝鮮人に危害を加えようと騒いでいるとき、鶴見
警察署の署長が「いわれのない流言で、朝鮮人に危害を加えては
ならない。。どうしてもやるというなら、俺を殺してからにしろ」と
押しかけた住民の前に立ちはだかったという。
結果、300人からの朝鮮人が助かったという。
鶴見警察署というのは、ぼくが通った中学校の隣にあった。
そんなこと、全然知らずに、その前を毎日、通っていた。
今日、1月31日、川崎駅東口で「ヘイトスピーチを許さない」という
市民の集会やデモがあったと聞いた。
まだ、ヘイトスピーチのある現場に遭遇したことはないけど、それに
直面した中国や韓国の人たちのことを想うと心が痛い。
ぼくの現状は未だしとはいえ、表現したいことがある。
「人として、本来、どこに住もうと自由だし、、どんな考えを持っていても、
それを咎められる謂れは無いはずだ」
その人が何を思おうが、その人の自由と思う。
そう思うということについては、なにも言うことは無いけど、
未来の世界については、いっしょに描きたい。
国境があるのがほんとうか、無いのがほんとうか。
人として生まれてきて、待遇に差が出ている状態が正常か、無いのが
正常か。
根源的に、差別待遇のない社会が現われて来ないだろうか?
日本を盟主とした戦前の「大東亜共栄圏」の亡霊が、アジアでの記憶を
忘却しながら、その姿を現そうとしている。
人間を知り、人間らしく生きる。
正常な人の姿への復帰から・・・。