あらためて考えてみると、ぼくを育んでくれた我が家族で、生き残っているのは、
兄伸一とぼくの二人だけだ。妹は、3年目に亡くなっている。兄とは、三歳違い。
兄は、ことし満67歳。
64歳で、四十年余、勤めあげた、東京に本社がある会社を定年前退職。
その後、日本語教師の資格をとって、多少の収入を得ながら、日本語の仕事を続けている。
その頃、旧東海道五十三次を歩いてみようと思い立った。
「定年後に思いつく、よくある例だよなあ」と、すこし冷ややかだった。
兄にその話を聞いた時は、口では「いいねえ」と言っている。
兄は、実際やりはじめた。
一気に歩くのではない。時間をみつけては、鈍行列車で先回たどりついた宿場まで行き
そこからまた歩くのだ。
2年前、ぼくがまだ津で暮らしていた時、四日市のあたりまでやってきた。
たしか、車で四日市まで兄を迎えに行ったと記憶している。ぼくのところに一泊して、
翌朝、きのう着いたところに送って行った。
「今日は、関宿まで行くよ」と兄から聞いた。後ろ姿を、しばらく見ていた。
「一緒に歩くのも、やってみるかなあ。次回は・・」
それから、シンガポールにある日本語学校で働くことになり、1年半家族から離れて暮らして
いた。兄の家族は、妻と娘二人。長女はすでに結婚し、近く暮らしている。孫の一人、女の子が
いる。次女も、兄がシンガポールにいるときに、結婚。この新婚夫婦は、兄の家の隣に引っ越してきた。
兄の他は、全員女という家族になっている。
「長いこと家族と離れて暮らして、兄と奥さんはじめ娘たちとは、どんな感じになるのだろう?」
いろいろ、想像してしまう。
春、兄は日本にもどった。
8月28日夕方、青春18切符を買って、鈍行列車で住まいのある横浜から、近鉄平田駅にやってきた。
我が家に一泊。
ぼくらが、津から鈴鹿に引っ越してはじめての来訪。
「ヤマギシを出たのだったの?」とびっくりしていた。鈴鹿にもヤマギシがあると思っていたのだ。
兄の語りの最後は、「人間ってそんなもんだよなあ」「組織ってのは、そんなもんだよな」
になることが多い。
子どものころは、兄に反発することがあっても、兄がやったことをたよりに、じぶんの進路を
考えていた。高校まで、兄と同じ道を辿った。
違いは、兄は優等生の感じだったし、ぼくはやんちゃな感じがあったのではないか。(このへんは、
ぼくのなかのストーリー)
内観で、父や母にたいしてのことを観ているとき、中学時代、ぼくは別の家に一部屋あてがわれて、
個室暮らしを始めた。そのとき、当時狭かったガラス屋の家で、父や母がどこで寝ていたか、兄や妹が
どの部屋で寝ていたか、場面が思い出せなかった。
兄は二階にあった四畳半の部屋を使っていたという。
残りは、4畳ぐらいの居間と6畳ぐらいの板の間だ。
「おやじは、居間で寝ていたかもしれないなあ」兄は言った。
おやじやおふくろが、どんどん成長するぼくらをどう見て、どうおもっていたのか。
「こうだった」なんていえるものはないが、なにか胸が熱くなるようなものがあった。
翌朝、一号国道を走って、関宿まで送った。
ちょうど、関宿に入る起点の場所に石の道標が立ち、関宿観光のはじまりとして、案内板や駐車場が
整備されていた。
兄伸一は、リュックを背負い、運動靴で、いざ歩くと車から降りた。
「この関宿だけでも、一緒に歩こう」とそのとき、決心した。
気温はあがりはじめていた。
兄は、関宿のあとは、京都まで二泊して、一気に京都に上りきると決めていた。
今回が、数年間の総仕上げになる。
関宿は、よく往古の面影を保存している。
兄は、ガイドブックを読み込んでいて、ぼくにいろいろ解説してくれた。
「そのことは、知ってる」というのが、そのたび、ぼくのなかに立ちあがった。
「ぼくは、ここに暮らした居るんだから・・」
関宿は2キロ。西の追分に着いたのが、朝9時過ぎ。
そこで、二人でトイレに入り、そのあと、兄は国道一号にそって、次の宿場坂下に向かう。
陽がぎらぎらとしかけてきていた。
兄の後ろ姿をみながら、「暑さ、大丈夫かな」と思った。
別に、そのとき、永遠に別れるわけでもないのに、胸のあたりに疼くもんがあった。
それから、3日後、ふと兄のことが浮かんだ。
「京都まで着いているはずだ。これは、赤飯ものだ。おめでとう。祝・江戸~京都旧東海道五十三次
一人歩き」
早速、兄にメールを送る。
兄からの返事。
「 8月31日17:15、なんとか京都三条大橋にたどりつきました。夏にはきつい歩きはやるもんじゃないね。暑くて何度もやめようかと思った。熱中症にならないように、頻繁に休んで飲み物を飲んだ。二人ほど、同じ方向に歩く人がいたが、追い抜いてもらった。
でも、おかげで、目標達成できた。ありがとう」
兄伸一とぼくの二人だけだ。妹は、3年目に亡くなっている。兄とは、三歳違い。
兄は、ことし満67歳。
64歳で、四十年余、勤めあげた、東京に本社がある会社を定年前退職。
その後、日本語教師の資格をとって、多少の収入を得ながら、日本語の仕事を続けている。
その頃、旧東海道五十三次を歩いてみようと思い立った。
「定年後に思いつく、よくある例だよなあ」と、すこし冷ややかだった。
兄にその話を聞いた時は、口では「いいねえ」と言っている。
兄は、実際やりはじめた。
一気に歩くのではない。時間をみつけては、鈍行列車で先回たどりついた宿場まで行き
そこからまた歩くのだ。
2年前、ぼくがまだ津で暮らしていた時、四日市のあたりまでやってきた。
たしか、車で四日市まで兄を迎えに行ったと記憶している。ぼくのところに一泊して、
翌朝、きのう着いたところに送って行った。
「今日は、関宿まで行くよ」と兄から聞いた。後ろ姿を、しばらく見ていた。
「一緒に歩くのも、やってみるかなあ。次回は・・」
それから、シンガポールにある日本語学校で働くことになり、1年半家族から離れて暮らして
いた。兄の家族は、妻と娘二人。長女はすでに結婚し、近く暮らしている。孫の一人、女の子が
いる。次女も、兄がシンガポールにいるときに、結婚。この新婚夫婦は、兄の家の隣に引っ越してきた。
兄の他は、全員女という家族になっている。
「長いこと家族と離れて暮らして、兄と奥さんはじめ娘たちとは、どんな感じになるのだろう?」
いろいろ、想像してしまう。
春、兄は日本にもどった。
8月28日夕方、青春18切符を買って、鈍行列車で住まいのある横浜から、近鉄平田駅にやってきた。
我が家に一泊。
ぼくらが、津から鈴鹿に引っ越してはじめての来訪。
「ヤマギシを出たのだったの?」とびっくりしていた。鈴鹿にもヤマギシがあると思っていたのだ。
兄の語りの最後は、「人間ってそんなもんだよなあ」「組織ってのは、そんなもんだよな」
になることが多い。
子どものころは、兄に反発することがあっても、兄がやったことをたよりに、じぶんの進路を
考えていた。高校まで、兄と同じ道を辿った。
違いは、兄は優等生の感じだったし、ぼくはやんちゃな感じがあったのではないか。(このへんは、
ぼくのなかのストーリー)
内観で、父や母にたいしてのことを観ているとき、中学時代、ぼくは別の家に一部屋あてがわれて、
個室暮らしを始めた。そのとき、当時狭かったガラス屋の家で、父や母がどこで寝ていたか、兄や妹が
どの部屋で寝ていたか、場面が思い出せなかった。
兄は二階にあった四畳半の部屋を使っていたという。
残りは、4畳ぐらいの居間と6畳ぐらいの板の間だ。
「おやじは、居間で寝ていたかもしれないなあ」兄は言った。
おやじやおふくろが、どんどん成長するぼくらをどう見て、どうおもっていたのか。
「こうだった」なんていえるものはないが、なにか胸が熱くなるようなものがあった。
翌朝、一号国道を走って、関宿まで送った。
ちょうど、関宿に入る起点の場所に石の道標が立ち、関宿観光のはじまりとして、案内板や駐車場が
整備されていた。
兄伸一は、リュックを背負い、運動靴で、いざ歩くと車から降りた。
「この関宿だけでも、一緒に歩こう」とそのとき、決心した。
気温はあがりはじめていた。
兄は、関宿のあとは、京都まで二泊して、一気に京都に上りきると決めていた。
今回が、数年間の総仕上げになる。
関宿は、よく往古の面影を保存している。
兄は、ガイドブックを読み込んでいて、ぼくにいろいろ解説してくれた。
「そのことは、知ってる」というのが、そのたび、ぼくのなかに立ちあがった。
「ぼくは、ここに暮らした居るんだから・・」
関宿は2キロ。西の追分に着いたのが、朝9時過ぎ。
そこで、二人でトイレに入り、そのあと、兄は国道一号にそって、次の宿場坂下に向かう。
陽がぎらぎらとしかけてきていた。
兄の後ろ姿をみながら、「暑さ、大丈夫かな」と思った。
別に、そのとき、永遠に別れるわけでもないのに、胸のあたりに疼くもんがあった。
それから、3日後、ふと兄のことが浮かんだ。
「京都まで着いているはずだ。これは、赤飯ものだ。おめでとう。祝・江戸~京都旧東海道五十三次
一人歩き」
早速、兄にメールを送る。
兄からの返事。
「 8月31日17:15、なんとか京都三条大橋にたどりつきました。夏にはきつい歩きはやるもんじゃないね。暑くて何度もやめようかと思った。熱中症にならないように、頻繁に休んで飲み物を飲んだ。二人ほど、同じ方向に歩く人がいたが、追い抜いてもらった。
でも、おかげで、目標達成できた。ありがとう」