かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

社会を知るために

2015-05-24 10:10:32 | アズワンコミュニテイ暮らし

じっくり考えたのか、ぼーっと1週間を過ごしたのか。
何かをテーマにして、かんがえはじめているのに、
途中で「あれっ、今、何をかんがえてるんだっけ」という
感じに何回も見舞われた。
これを、耄碌っていうんだろうか。

いつから、人は争うようになったのか。
人と人が、集団と集団が、民族と民族が、国と国が闘い、
果ては殺したり、殺されたり。
何でそんなことはじめたのか。
人って、好んで争ったり、殺したり、殺されたくないだろう。
だいいち、人はこの世に生まれ出たときは、そんな気持ちは
これっぽちもなかった。ただ、ひたすら親や周囲にじぶんの
すべてを委ねきっていた。
何で、したくもないことを人はすることになったのか。

人は一人では生きていけない。
人は寄り合って、集団をつくり、暮らしてきたけど、
いつから一人ひとりがやりたくないことでも、しなければ
ならなくなったり、何かじぶんの意志以外のもので、人から
させられたり、人をさせるようなことがおきてきたのか。

いつから、とか、どういうことで、ということは、もっと
究明したら見えてくるかもしれないが、少なくとも、
誰もが好まないことが何かのキッカケか、思いつきで
はじまった。
争いとか、社会に人を縛る法律のようなものができたのは、
紀元何千年前からだと思われるが、そんなことが起こる前の
人間や人間社会の状態というのはあったんじゃないか。
そのとき、誰かか、何かの思いつきで、争いのある社会や
人の意志を法で縛らなかったら、社会がまとまらない、と
言って、本当はやりたくないことを、そうするもんだ、と
たまたま、そんなふうに暮らしてきたんじゃないか?
どれも、人間の考えだ。
だったら、ほんとうは、人間としては、どうしたいのか。
本来の人間ってどんなものだろう?
そのような人間が集まって、暮らすとしたら、
どんな社会が現われてくるか、真面目に考えたくなる。
今がそうだから、しょうがないとか、今更、なにができる
わけでもないとか、それはそうかもしれないけど、
おなじ人間のかんがえなら、人間らしく生きられる社会を
選びたい。

今まで出来なかったから、出来ないよ、とか、自分一人で
何ができるわけでもないし、という人もいるかも。
はじまりは、人間って、そんなに愚かなんだろうか、
ここからのような気がしている。


一人ひとりが悟っていったら、社会が結果としてかわって
行くと、つい何年か前まで、無意識な感じでおもっていて、
「ああ、ぼくはそういうベースでかんがえているんだ」と
気がついたときがある。
「そうだろうか」
そのときの社会ってどんなものだろう?
あいまいな感じがあった。


人がこの世に生まれてくるとき、(お腹のなかにいるときも?)
先ず親に接する。その親はその社会の空気を親として滲みこませて
いる。
周囲の人たちもその社会の気風をその人なりに滲みこませたもので
子どもに接する。


歴史上、争いのない世界、社会が法律などによって人を縛らない
社会と、争いがある世界、社会が法律などによって人を縛る社会
の二つあるとすれば、子どもは選べないとしても、親はその社会を
選ぶことができると言えるのではないか。
どちらが、人間本来の実際を現しているか。
どちらが、人間の思い込み、砂上の楼閣か。

 

法律などで縛る社会というのは、人が力を合わせて何かやろう
とか、するとき、取り決めやルールや法律や規範をつくって、
人をそれに合わせて動かそうとする。
そうしないと、人というのは動かないもんだという人間観が
なにかのキッカケで、できたのかな。
厳しくなると、そうしない人を非難したり、裁いたり、果ては
罰までつくって、そうさせようとする。
そのしきたりが。紀元前何千年前から営々と続いている。

法で縛らない社会。
法とか規範とかルール、取り決めがあっても、それで人を
縛らない社会。取り締まらなくてもいい、裁かなくてもいい、
罰しなくてもいい。
そんなことしたら、社会は混乱して、収拾がつかなくなるのか
どうか。

社会が、その人の意志を決して妨げない。
社会がはっきりそれで存立するためには、「意志を妨げない」と
いうなら、それはどういうことをいうのか。
社会はその人の意志をよく知っていくことをするだろう。
その人の気持ちや願っていることも知っていくだろう。
そうして、その人の意志を実現する方向に向かって、いくつかの
選択肢を示して、その人に自由に選んでもらうことになるだろう。


こんなことは、現状の社会やそこで暮らす人たちの様子を見ていたら、
絵空事のように聞こえるかもしれない。


社会が人を法律などで縛らない、その人の意志を縛らないという
ベースでの社会の機構や制度は、そうしようと考える人が何人か
寄ればその基盤をつくり、固めることはできる。
その人の意志が尊重されていく社会気風ができてくる。
かといって、おそらくそれだけでなく、そのように意志を邪魔され
なくて、人と争ったり、人の行く手を妨害する人がいなくなっても、
人間とはどういうものかを探究していく仕組みは欠かせない。
人として、一人ひとりが自覚していくこともあるだろう。

 

人間とはどういうものか、人間の根源本質的なものって、どんな
ものだろう。
その人間でつくる人間社会はどういうものか、その根源本質的な
ものって、どんなものか。
それは、おそらく人間、ぼくら一人ひとりに具わっている、
また人が寄り集まったとき、お互いの間に含まれる人としての
情愛が湧いてくるようなものとして、実際にあるものだから、
人間の智慧でその社会の実際を表現し、解説することができ、
その具体的な内容が明らかになって、それに同調する人も、
現われてくるんじゃないか。


できるんじゃないか、というのも人間の考えだと思うんだけど、
より根源的、本質的なものに即しながら、生きていきたいし、
くらしていきたいなあ。世界中の同調の人たちとともに、手を
つないで実現していきたいなあ。


先ず、社会が本来の人間に適した社会機構や制度をはっきり示す。
同時に、各々は人間の根源本質的なものへの探究を楽しむ。
世の中ってこんなものと、暗い、夜の世界にいたけど、人間って、
案外、分け隔てなく降り注ぐ太陽の輝きに照らし出されて、
明るい昼の世界に、気がついたら、暮らしていた、なんてことは
簡単にできそうだ、と今思っている。
だって、一人ひとりが努力して、難行苦行しなくとも、わがうち
なる願い、ほんとうはこんな社会で暮らしたいという願いは
必ず、方法もって、実現すると、そうなんだよなあ、70歳にもう
手がとどく今頃になって、確信がでてきたんだよなあ。
これも、耄碌の現われか?