いやあ、正直、「えっ、まさか」という反応と、なにか
「せっかく、ここまでやってきたのに、残念」という、コトバに
できないけど、コトバにしたらこんな気持ちになった。
9月6日は東京から映像クリエーターの方が、アズワン
コミュニテイの広報用のビデオをつくるため取材撮影の
日だった。
里山大好き男高崎広はシルバー人材の仕事があって、
案内できないという。
鈴木英二さんに案内をお願いした。
当日、朝、鈴木さんから携帯に電話。
「窯が崩れた」
案内の前に、炭窯の様子を見に行ったのだった。
午後、東京の映像クリエーターの方と里山に取材撮影に行った。
英二さんが迎えてくれた。
何事もなければ、15日の日曜日、炭窯開きのイベントを予定
していた。地域の子育て世代の親子に寄ってもらい、炭窯の
完成と窯のなかに出来た炭を取り出すはずだった。
この炭窯づくりは、南伊勢町で炭焼き50年の右田嘉次翁との
出会いがキッカケだった。
鈴鹿で「やさしい社会」の試みをしている片山弘子・高崎広が
南伊勢町にある泉楽農会に訪問し、炭焼きを通して地域づくりを
している様子を見学。
今年正月にも、鈴鹿で活動している地域創生みえの会の有志が
泉楽農会と交流。
炭窯に感動した鈴木英二、大平達男、辻屋哲男など60代の
おっさんたちが、「鈴鹿の里山にもつくろうじゃないか」と立ち
上がった。
右田翁は、その心意気に深く感じて、「人生の集大成」として
鈴鹿に炭窯をつくるプロジェクトに全身全霊でかかわってくれた。
灼熱の6月、7月、8月かけて完成。8月17日火入れして、
あとは炭だしをするばかりだった。
鈴木英二さんは「ショックはショックだけど、いま言えるのは、
これでやめるわけにはいかない。年内には完成させたい」
と語っていた。気迫を感じた。
「炭窯が崩れた」という報告は関係者にすぐさま伝わった。
9月15日には、南伊勢から右田翁もやってきた。
「こりゃあ、天災やなあ。ここまでは、予想してなかった」と右田翁。
9月始めに鈴鹿地方は集中豪雨に見舞われた。
高崎広は東京にでかけていた。
英二さんに「窯の廻りの水はけをやってほしい」連絡した。
英二さんは、雨のなか一人でやれる範囲のことはした。
窯が崩れた物理的な原因は、これから崩落後の窯を片付け
ながら、丁寧にみていくことになるだろう。
後日の寄り合いで高崎は言った。
「物理的な原因はもちろん探っていきたい。それはそれとして、
なんというか、窯の方から見たら、”助けてほしい”と叫んでいた、
そんなふうに感じるんだ。大雨のあと、東京から帰ってきたも、
真っ先に窯を見に行かなかった。窯づくりをやろうとした、ぼくらが
そういうところ、どうっだかな、とおもってね」
この言葉、こころの底に響いた。
右田翁から高崎さんのところに何回も電話。
「泉楽農会のメンバーが、これであきらめることなく、最後まで
つくろうよ、と言っている。これを、鈴鹿の人たちに伝えてほしい。
涙がでるほど、うれしかった」
この気持ちを知って、これもぼくのこころに響いた。
7月21日炭窯たたき神事のとき、馳せ参じてきて、親も子どもも
誰から指図されるでもなく、楽しげに、天井の小枝詰め、土の
運搬、窯たたきをして、終わったら、「またね」と帰って行った
メンバーの顔と動きを思い出す。
炭窯をつくることだけがもくてきだろうか?
ほんとうは、これを通してなにがしたいんだろう?
窯は崩れても、崩れないもの、そこをみていくのかなあ。