かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

執念深い男

2013-09-05 20:49:28 | アズワンコミュニテイ暮らし

 最近、気になる文章に出会った。

 何回読んでも、これって、どういうことを言わんとして

書かれたものか、はっきりしてこない。でも、気になる。

はっきりしてなくとも、いまの感じていること、メモしておこう。

 

その文章。

ーー多川柿

    奈良の多川という柿の先生が、柿の優秀品種の接穂を冷蔵庫で

   たくさん貯蔵しておいて、老躯・病身を厭わず、その接ぎ穂を

   持って、各地を自費で訪ね廻り、実生樹や劣悪柿樹の接換えを

   させてもらっていました。無論タダです。

    私の方へも来ました。その時、私は云いました。

    「あなたは欲の深い人ですね。自分の柿畑で足りないで、そんな

   ことして日本中多川柿を接いで廻り、多川が死んでも柿に多川を

   生き続けようとは執念深い男だね。」と。

    「その通りです。よう接がしてくれました。有難う」と言って、置き土産

   までして帰りました。

    こちらは接がして上げて、お礼まで貰って、憎まれ口たたいて、

   一言の御礼も云わないのです。

    私にしてみれば、多川の素晴らしい技術と、その精神を永久に

   生かさして、彼氏に喜びを与えたのであるから、御礼をいってもらうことは

   当然で、常識外れで、時季外れの柿の接ぎ穂から、昨今いきいきと青い

   芽をふき出したから、やがて来る年には熟れる柿の実に、広く、永く、

   多くの人々と共に、多川の味を思いうかべるでありましょう。

 

 多川という柿の先生が、柿の接ぎ穂の接ぎ換えを、「してあげました」

ではなく、「させてもらいました」

 ここから、ぼくの感覚と違う。「あれえ?」

 世のため、とか、他人のためとか、いうと、どうしても、「してあげる」という

ことになりやすい。

 それが普通という感じ。

 やってみたら「やらせてもらった」となることは、ありそうだけど。

 ふだん、じぶんが思いなすことの元は、どうなっているのだろう?

 

 「自分の柿畑では足りないで」、日本中に多川柿を接いでまわり、

多川を生き続けようとは「執念深い」と言う。

 これは、普通の人でない、「執念深い」人の話だろうか。

 ふだん、じぶんはどんな心の状態から、思ったり為したりしている

だろう。

 

 社会のため、とか、人のため、とか思っているけど、多川の先生の

ことかんがえると、なにか上っ面でやっている感じがしてくる。

 やってあげて、相手の人が不平や不満を言おうものなら、

「せっかくやってあげているのに・・・」とか「人の気持ちもしらないで・・・」

とか、自分のなかがモヤモヤしかねない。

 

 多川の柿を接がせてやった人は「彼氏に喜びを与えてやった」と言う。

 なにか世界の異いを感じがする。

 「してあげて」、そして「してもらってありがとう」って関係していくのが、

普通だよな。場合によっては、お返しもかんがえる。

 「させてもらう」となると、「させてもらってありがとう」となる。

 これって、特別のことかどうか。

 

 「させてもらってありがとう」は、その人のなかに喜びが

ありそう。

 その人の心底からの気持ちから出てきたものって、そんな

感じになりそうだけど。

 

 あたりまえの姿、本来の人の姿について、かんがえる。

 

 その思い為すことのもとが、すべて自分の喜びからのもの、というのが

当たり前の姿といったら、飛躍し過ぎだろうか。

 それが、時と場合による、となれば、その程度のものに過ぎない。

 でも、「人間って、本来どんなもの」と自問があるかぎり、ここは

もっと見ていきたいところ。