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処刑後数百年以上たってから無実が判明した中世の魔女の奇妙な物語(ドイツ)

2019年09月23日 | 世界びっくりニュース
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Image by ZU_09/iStock

 人類の歴史を通して、世界中の多くの場所で、無実の者に対する非常に理不尽な処罰や弾圧が長いこと行われてきたのは周知の事実である。

 そしてそれは形を変えながらも現代まで続いている。ネット上の正義という大義名分を得た匿名者の言論による私刑(制裁)だ。事実確認がなされないまま、断片的な情報だけが拡散され、知らない間に犯人にされてしまう。いつ誰が被害者になってもおかしくない状況だ。

 これはかつて行われていた「魔女狩り」と同じ原理が働いているのだろう。かつて魔女狩りのターゲットにされていたのは、災いや死、不幸や不和を招く魔術を使ったと言いがかりをつけられた人たちだ。

 実際には政治的な動機や、特定の人間に対する個人的な怨恨があったのかもしれない。だが、「魔術で人を陥れた悪」という大義名分のもと、結果的に大勢の罪もない人たちが殺されていったのだ。

魔女狩りの歴史


 魔術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約して社会の破壊を企む背教者という「魔女」の概念が生まれた。

 更に16世紀後半から17世紀になると、大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。魔女狩りのターゲットにされたら最後、火あぶりなどの厳しい処刑が待っていたのだ。

 ターゲットにされた人はたまったものではない。ほとんどは正式な裁判もなく、弁明の余地も与えらない。無実の罪を着せられたまま、歴史の闇に埋もれてしまった人は数知れない。

 ある日突然魔女認定され、事実確認もなされないまま火あぶりにされた犠牲者の無念は計り知れないものがある。

 今では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは、無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。

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魔女裁判で処刑され、数百年後に無罪が判明した奇妙なケース


 ところが近年、数百年前に火刑になった魔女だと言われた女性のケースが覆された奇妙な出来事があったことがわかった。

 処刑後ずいぶんたってから彼女は無罪だったと公式に認められ、その汚名を晴らすことができたのだ。彼女はこんなにも時間がたってからやっと平穏な眠りを手にいれたのだ。


地域から信頼されていた女性が魔女の汚名をきせられるまで


 この奇妙な話の発端は、1600年代のこと。ドイツのケルンにある平穏な村でのことだった。ここに、カタリーナ・ヘノットという若い女性が住んでいた。

 町の郵便局長をやっていて、ドイツ史上初の女性郵便局長だったことが広く知られている。カタリーナは影響力のある高潔な人物だと皆に思われていて、父から受け継いだ郵便局を、兄のハーガーと共に経営していた。

 ふたりともは地域社会の信頼の柱だとされていて、愛され尊敬されていた。しかし、それもタクシスの伯爵レオンハルト二世が、郵便制度を改革して国全体で統一された中央郵便局をひとつ設立しようと圧力をかけ始めるまでのことだった。

 これにカタリーナは反対していて、この対立が、彼女とその家族にふりかかることになる災難の元凶となったようだ。

 1626年の始め、ケルン一帯は大規模な魔女パニックに襲われた。突如として、これまで闇に隠れていた超自然の力が、無実の者を餌食にし始めたというのだ。

 人々は、魔女や魔法使いが夜さまよい歩いていると信じ込むようになり、誰が魔女なのかという噂が飛び交った。


ヴュルツブルグの魔女裁判にかけられる


 1626年から1631年、ヴュルツブルグの魔女裁判の悲劇が始まった。この間に今度は地元の修道院のある尼僧が憑依されたと言い出して、人々を闇の魔術の驚異にさらした。

 どういうわけか、カタリーナとハーガーが、闇の魔術でケルンのその修道院に病気や不幸をもたらした張本人たちだと、後ろ指をさされるようになった。

 ふたりのきょうだいは大司教の命令で逮捕され、裁判や陪審もなく監禁、魔女だとされて過酷な拷問を受けて自白を強要された。


罪を認めなかったことが「魔術の証拠」とみなされ処刑


 しかし、カタリーナは身に覚えのない嫌疑をすべて否定し続け、ハーガーは宮廷に訴えようとしたが、これが却って、魔術を使った証拠とみなされてしまった。

 当時、カタリーナと同じような立場にある影響力のある人たちの多くが、黒魔術を使ったという同じ疑いをかけられ、手あたり次第に逮捕された。

 兄のハーガーは、有罪を宣告される前に釈放されたが、カタリーナへの情け容赦ない拷問は続き、右手がまったく使えなくなってしまった。

 それでも、彼女は決して屈しなかった。いっさい罪状を認めなかったにもかかわらず、カタリーナは町中を引き回され、群衆からやじられ唾を吐きかけられたあげく、1627年に火あぶりになった。

 ドイツで1500年から1782年の間に、魔女の疑いをかけられて死に追いやられた2万5000人のひとり
となった。

 ヴュルツブルグの魔女裁判だけで900人以上が死んだのだ。その中には、老若関係なく、あらゆる信仰、職業の人が含まれていたが、これらの人たちのほとんどが世間から忘れ去られ、いまだに公には有罪だとされている。

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 しかし、近年になってようやく、カタリーナへの嫌疑が変わったのだ。

数百年たった後、事件が見直され無実が証明される


 驚いたことに、2012年になってこの事件が見直されて、何世紀も前に生きていたカタリーナの嫌疑が晴れた。処刑されてから既に400年近く経過している。

 かなりの時間がたっているにもかかわらず、ただ権力側と反対の立場だったというだけで、まったくの無実の女性に対して、あまりにも理不尽な不正が行われたと考える人がいたのだ。

 福音司祭で宗教教育の教師でもあるハートムート・ヘゲラーは、ケルンの評議会に再審請求をした。

授業で魔女裁判についてとりあげていて、生徒たちから、カタリーナ・ヘノットに対する裁きは無効にできるのかどうかと訊かれました。

ノーと答えるしかありませんでした。カタリーナは尊敬に値する評判の人でした。さぞかし、いわれのない汚名を晴らしたいと思ったことでしょう。

キリスト教徒として、無実の人々が処刑されたことは、捨て置けないことだと思いました。それがたとえ、何世紀も前のことであろうと

 ヘゲラーは、カタリーナの生存している子孫を実際に探し当てることから始め、遅まきながら彼女の汚名を晴らすための活動に道筋をつけることができた。

 カタリーナの処刑はまったくの不正によるものだったこと、政治的な対立や無分別によってたきつけられたものであったこと、彼女の死は政治的な怨恨によるものだったことなどの証拠を公にした。

 皮肉なことに、かつてカタリーナを逮捕、起訴した評議会の末裔である現代のケルン評議会が、彼女が誤まって死に追いやられたことを認めるのにそれほど時間はかからなかった。

 結果、カタリーナ・ヘノットは、完全に汚名を晴らし、死後恩赦されただけでなく、町の尊敬も回復することになった。

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不正を許さない不屈の象徴として記念像が立てられる


 カタリーナ・ヘノットの話は、ドイツ国内では書物や歌でとてもよく知られている。

 ケルンの市庁舎の外には、火あぶりになりながらも、断固と抵抗して手を掲げている彼女の像があり、"このような不正が再び起こることを消して許さない"というシンボルになっている。

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ケルンにあるカタリーナ・ヘノットの像(右)、左側は魔術の裁判の反対者として知られるドイツの聖職者、フリードリッヒ・シュピー
image credit:commons wikimedia


 カタリーナのケースは非常に稀有な例だ。

 いまだに多くの人が法的に魔女だとされ、公にはその汚名は晴れていない現代社会ではまれなことだ。カトリーナ・ヘノットがやっと正義を勝ち取り、ゆっくり休むことができるだろうことは、せめてもの救いだろう。

References:The Strange Tale of a Witch Found Innocent Over 300 Years After Her Execution | Mysterious Universe/

☆俺の会社も無実の罪ばっかりや・・・!

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