友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

春まで待てるのかなあー

2022年12月20日 17時12分44秒 | Weblog

 娘たちが帰っていった部屋は寒々としている。今朝はまた一段と冷えていた。ご近所に、ひとりで井戸を掘っている元学校の先生がいる。その方から、「掘った穴に水が溜まっているが、井戸が掘れたということでしょうか」と電話をもらったので、「水を汲み出してみましょう」と返事をし、今朝、出かけて行った。

 通販で購入したという井戸掘り道具を使い、7メートルほど掘ってある。よくひとりでここまで掘ったと感心した。以前、お会いした時に「ひとりは危険ですから」と申し上げたが、土壌が柔らかいためなのか、他人の力を借りなくても済んでしまったようだ。けれど、ここは難しい土壌で、3メートルくらいから下は泥土の層が続いている。

 どこまで掘れば水脈の辿り着けるのかと不安になる。とにかく、水を汲み上げてみようと25ミリの塩ビ管を入れ、エンジンポンプで吸い上げようとしてみたが、やはり泥がつまるのか水は上がって来ない。仲間のひとりが昼から用事があるというので、今日の作業はここまでにした。

 さて次はどう掘るか、また思案の時が来た。先生に「どうして井戸を掘ろうと思ったのですか」と聞いてみた。「庭の樹木に水をやるためです。温暖化のせいか枯れてしまう樹があったので、水撒きをするのですが、これが大変なんです」と言われる。確かに建物の南と北にたくさんの樹木があり、南には芝生もある。

 「それにしてもなぜご自分で掘ろうと思ったのですか」と尋ねると、「やりますよと、言ってくれる業者もいるんですが、やっていたら最後までやり遂げたくなってきて」と照れ臭そうに話す。私たちも一緒だ。土に穴を掘り、それで水を汲み上げた時の喜びが何とも言えず、老骨に鞭打って続けている。春まで待てるのかなあー。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気でいます、安心してください

2022年12月19日 17時34分00秒 | Weblog

 今朝はとっても寒かった。カミさんは、まだ陽が上らないうちから朝食の用意を始めた。次女とその娘を7時半前に、駅へ送っていかなくてはならない。次女たちは16日に茨城からやって来て、その日は友だちの家に泊まり、17日は我が家へ長女一家も集まり、みんなで食事をした。この夜は、長女の中1の娘も泊まり、夜遅くまではしゃいでいた。

 翌日は中1の孫娘は卓球の試合があり、早くから出かけていった。試合を見に来たのに見られなかった長女夫婦も加わり、みんなでトランプをしたり、ウノをしたりした。小2の孫娘は自分で点取り表を作ったり、遊ぶ順番も決めたりと遊びを主導した。

 しかも、驚いたのは「一番勝った人は200円もらえる。一番負けた人は200円払うこと」と言い出す。えっ、そんな賭けをしていいの?と思ったが、「その方が真剣になれるでしょう」と涼しい顔だ。一番の勝利者はカミさんで、私と孫娘は同点で差し引きゼロ、孫娘はカミさんからお年玉をもらって大喜びだ。

 この日の午後、帰り際に次女のダンナから電話が入り、「新幹線が止まっている」と言う。急いで部屋の戻りテレビを点けると、新幹線は電気関係の故障で停車している。次女がスマホで調べるが回復の目途は立っていないようだ。小2の孫娘はもう一日泊まっていける喜びと、学校を休まなくてはならない不安とで複雑な様子だった。

 私の子どもの頃と違って、従姉妹も少ないから、我が家にやって来て従姉妹に会えることがとっても嬉しいのだ。孫たちを見ていると、会う度に成長していると実感する。学校での生活やいじめの問題も、それなりによく見ているし、的確に判断できるまでの育っている。

 親はあんなに子どもに過干渉だったのかと、私は自分を振り返ってみる。次女のところはひとりっ子だから異常なほど世話を焼く。もう少し放っておいてもいいのにと思うが、面と向かっては言いにくい。まあ、そのうち笑って昔を語れる日が来ることだろう。

 16日と17日の2日間だけ、ブログを休むつもりでいたのに、ハプニングに巻き込まれ3日間も休んでしまった。元気でいます、安心してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼の小説が仕上がることに期待している

2022年12月15日 17時55分05秒 | Weblog

 12月も半ばを迎え、あっという間に時が過ぎ去っていく。12月生まれの中学からの友だちに、「お誕生日おめでとうございます。小説を書いてください。楽しみに待っています」とメールした。彼と知り合ったのは中学3年で同じクラスになってからだ。

 伊勢湾台風の後、「名古屋で死体がゴロゴロ転がっているから見に行かないか」と彼に誘われ、自転車で出かけたが、笠寺辺りからは前に進めず、死体を見ることも無く帰って来た。高校生になり、私が生徒会長になった時は役員を引き受けてもらった。

 彼は文芸部、私は新聞部で、一緒にいることも多かった。『籠の鳥』をよく歌っていたので、自然と私も覚えてしまった。彼は吉行淳之介の『原色の街』を高く評価していたが、私はむしろドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に魅かれていた。

 彼に誘われてブログを続けているが、記事の書き方が全く違う。私は新聞部にいた時から、「簡単に、短く」を心がけてきた。このブログも800字前後で書いてきた。新聞のコラムは600字から800字と指示されてきたからだ。

 彼のブログは1400字と長文で、形容詞も多く難解な文章の時もある。彼は大学生の時に父親を亡くしたため中退し、働いてきたから小説など書いている暇は無かっただろう。ブログでは生い立ちや恋愛が目立つし、営業でいかに活躍してきたかも記している。

 大変な道を歩んで来ただけに、今はゆったりと人生を振り返り、小説に仕上げるたくさんのネタを物語に編み込んで欲しいと思う。中学からの友だち4人の軌跡もネタになるだろう。彼の小説が仕上がることに期待している。

 さて、明日と明後日は忘年会のため、ブログを休みます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもたちへのプレゼントで一番大切なもの

2022年12月14日 18時02分40秒 | Weblog

 朝から強烈な北風が吹き荒れ、ルーフバルコニーの花たちが震えていた。秋が短いままに、瞬く間に冬の到来である。16日の市民講座メンバーとの忘年会に続いて、17日は茨城の次女が娘とふたりでやってくるので、長女の一家も来てみんなで食事会となった。

 長女のところの中学1年の娘は、翌日が卓球の試合とかで泊まることが出来ない。17日は次女と娘のふたりが泊まるから、いつもなら隣の部屋に大勢で泊まるけれど、今回はこちらの北の室でいいだろうと、朝からその準備で大忙しだった。

 布団を2組敷くことが出来るように、家具を移動させ、床に雑巾かけし、オイルヒターも用意したが、なぜか作動しない。明日、調べてみよう。孫たちが集まるのだからと、カミさんは早速、書店で頼んだ図鑑と絵本をクリスマス用の包装紙でラッピングすると言う。

 歳を取ると、こうした孫や曾孫へのプレゼントづくりが実に楽しい。どんな顔で受け取るのか、どんな様子で苦労して包んだラッピングを開けるのか、今からそんなことを想像してしまう。次女が娘のことを、「この子は親戚も遠いし、少ないから、プレゼントがもらえなくて可哀想」と言っていたが、これも少子化の悲劇なのだろう。

 「いつ攻められるか分からないから、防衛費を増額して反撃能力を高めよう」と、政府は言うけれど、本当にやらなければいけないことは軍事に金をかけなくてもすむ世界づくりだ。世界中の各国が軍事費を無くしたら、世界はもっと豊かになれる。餓死で亡くなる子も助けられる。

 子どもたちは、ジジババや両親や大人たちから、素敵な品をもらえば大喜びするだろう。けれど、大人たちが子どもたちにプレゼントする一番大事なものは世界の平和だ。安心して暮らしていける社会だ。

 三菱自動車に就職した昭和46年の卒業生が、「三菱カーデザインの軌跡」を送ってくれたのでお礼のメールを送ったが、エラーが発生し送信できませんになった。ごめんなさい。でも、確かに見せてもらいました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市民が楽しめる音楽の街

2022年12月13日 17時49分37秒 | Weblog

 車で通り抜けただけの印象だが、生まれ故郷の刈谷の街は随分と変わっていた。私の子どもの頃は映画館は2館で、刈谷東宝では大映、東宝、松竹が上映され、花道まであった芝居小屋の大黒座では、洋画と東映、日活が上映されていた。

 子どもの頃に大黒座へ映画を見に行った時、ストリップショーが始まりビックリしたことがあった。そのうちに洋画専門の日劇が出来たので、大黒座は洋画を止めてしまった。刈谷東宝へは、長谷川和夫や市川雷蔵が好きだった祖母がよく連れて行ってくれた。

 書店も3店あり、小学校の帰りに3店を回り、店内にどんな本が並んでいるのか見比べるのが好きだった。学校からの帰り道は毎日が散策で、2時間でも3時間でも街中を見て回った。集団下校は無かったし、塾も無かったから、暗くなるまでに帰ればよかった。

 両親は教師だったのに、「勉強しなさい」とか「宿題はすんだのか」と言わなかった。中学3年の時、夏休みの宿題をやることがバカらしくなって、何もしなかった。両親も担任も叱らずに、「そうか」と言うだけだった。

 今の子どもたちは可哀想だ。集団に居ることを求められ、勉強や習い事を強いられ、スマホを眺めることしか楽しみが無いようだ。市内に映画館はもとより、書店も無いところが増えているという。新聞を購読する家も減っている。スマホだけが文化の入口になっていていいのだろうか。

 午後、マンションのコーラスグループから出発した合唱団の発表会に行ってきた。「歌と共に41年」とタイトルにあるように、随分と長く活動してきた。揃いの舞台衣装で登壇されたが余りにも高齢で、しかもメンバーはかなり減っていた。

 歌が流れ、楽器の演奏が聞こえる、そんな音楽の街が少しずつ変化している。市民オーケストラが誕生し、少年少女合唱団が生まれ、音楽活動は広く盛んになった。多くの市民が楽しめる機会が、今後も増えていくことを願いながら聴いた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

互いに認め合って欲しい

2022年12月12日 18時47分34秒 | Weblog

 刈谷市駅の周りはすっかり変わっていた。日劇があった場所には大きな歯科医院が建っている。確か、小学校の同級生が行っている医院だ。学校帰りに彼の家に行ったことがあったが、空気銃が置いてあったことを覚えている。

 日劇は駅のすぐ隣のビルに移っていた。私が子どもの頃、この家から名古屋の名門の旭丘に通っていた人がいた。その後は、パチンコ店になっていたが、日劇は3階と5階に映画館を開いたようだ。

 どうして日劇で井上真央さんが出演する映画が上映されることになったのか、不思議に思ったが、パンフレットを見ると、刈谷・知立で撮影が計画されていたようだ。映画を観ていてどこだろうと探してみたが分からない。ただ、背景に名鉄の赤い電車が見えたり、浜名湖かなと思われる場所があった。

 映画『わたしのお母さん』は重かった。井上真央さんが演じる長女と石田えりさんが演じる母親との、溝というか葛藤がどこまでも続く。母親の思いは娘には通じなくて、娘は頑なに母親を避けている。次女や下の弟は早くに夫を亡くした母親がひとりで、3人の子どもを育ててくれたことに感謝しているのに、どうして長女は許さないのだろう。

 母親の醜い部分が何なのか、想像する他ないが、長女は次女や弟と比べて理解できる時期に入っていたのだろう。母親と本音で話すことが出来なくて、いつも曖昧な言い方をしてしまう。母親はそれがたまらなくて腹を立てる。どこの親子の間でもある問題だが、頑なな態度を取らなければ、いつか解決することだろうに。

 人付き合いが良くて明るく振舞う母親、いつも仏頂面で愛想の無い長女、母親が亡くなるまで溶け合うことが無かったが、母親が亡くなった時、母親の使っていた口紅をさし、母親の寝具に顔を埋めて泣き続けたシーンで助けられた気がした。親子だけに、思いが伝わらない苦悩は深い。互いに認め合って欲しい。まず自らが動かなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どんな街に変わっているのか

2022年12月11日 18時15分01秒 | Weblog

 「市民が企画し 市民が開催する 市民のための勉強会」である市民講座を行ってきたメンバーで、忘年会を開くことになった。2年間も行ってこなかったから、「寂しい」気持ちが募ったのだ。メンバーのほとんどが70代と80代の高齢者だから、「会いたい」気持ちが強かったのだと思う。

 15人のメンバーのうち、既にひとり亡くなっている。全員から返事をもらったが、出席と答えてくれた人は10人、4人の欠席者のうちで多忙な人がひとり、体調不良が2人、連れ合いの介護のためがひとりだった。やはり高齢だから避けられない現実が迫っている。それでも、ワイワイと出来るだけでも幸せである。

 私にブログを続けるように約束した、中学からの友だちは最近、「小学、中学時代からの親友が、今どれだけ、自分に残っているかを数えてみれば分ることである」と、親友がいないことを嘆く記事が多い。彼が何をもって「親友」と決めているのか分からないが、私は彼を親友と思っている。

 残念ながら私は生まれ故郷を離れてしまったが、人には人の道があり、いつまでも一緒ということはない。遠く離れていても、私は毎日彼のブログを読み、彼のことを高校までと同じように感じている。いやもっと深く理解できているように思う。高校を卒業して、居酒屋に出かけていった彼を含めて4人のうち、ひとりは脳梗塞で話せないし、ひとりは同じ市内でも別のところに引っ越してしまった。

 みんな同じように歳を取り、しかし別々に人生を重ねてきた。過去は話のネタになっても、取り返すことは出来ない。あんなこともあった、こんなこともあったと懐かしむ他ない。私たちを可愛がってくれた先生はいないが、確かに彼が願うように、また中学のクラス会を開いて欲しいものだ。

 明日は孫娘と、彼女が好きな井上真央さんが出演する映画『わたしのお母さん』を、刈谷日劇へ観に行く。懐かしい映画館だ。私が小学生の頃に開館した時は、洋画専門の映画館だった。どんなに街が変わっているのか、孫娘と散策してみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私たちが元気なうちに、次世代に伝えていきたい

2022年12月10日 17時31分09秒 | Weblog

 とうとう守山区での井戸掘りは不成功に終わった。5mから6mまで掘れたなら、水があることは確実な土地なのに、川原にある漬物石くらいの石が多くて、掘り進められなかった。とはいえ、実際に作業したのは依頼主と息子さんで、私たちは手伝いをしただけだった。

 でも先輩は、「本当に悔しい」と肩を落とす。私たちとしては、井戸掘りを成功させられなくて申し訳ない気持ちで一杯だった。私たちに人智と時間の余裕があれば、もう少し役に立ったかも知れない。鉄管で掘る経験が1度でもあれば、いやインターネットにある「鉄管で井戸を掘る」動画を見ていれば、また違ったかも知れない。

 とにかく撤収となった以上、グズグズ言うのは止めよう。依頼主は「ああしてみよう、こうしてみようと考えながら作業して、楽しかったです」と言ってくれた。私たちがチェーンブロックを使って、鉄管を抜いているのを見ていた隣りの家の主人が、枯れてしまったミカンの樹を指さして、「それでこの樹も抜いてくれんかね」と言われた。

 ここでの最後の仕事とばかり、撤収の後でミカンの樹を根こそぎ抜いた。見事にチェーンブロックの力が発揮され成功した。隣りの家からは飲み物をいただき、井戸掘りの依頼主からも「最期に成功して気分よかった」と笑顔をもらった。どんな些細なことでも、成し遂げることには喜びがある。

 先輩は「死ぬまでやる」と意気込むが、腰が痛くて立っておられない。けれど、確かに私たちが経験した井戸掘りを後輩たちに伝えていきたいと思う。そんなに金がかからず、時間も労力も必要としない井戸掘りを何とか伝授していけたらと思う。まだ私たちが元気なうちに、次世代に伝えていきたいものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私たち大人の務め

2022年12月09日 17時31分10秒 | Weblog

 12月に入って下校時間が早くなったのか、マンションの中庭で遊ぶ子どもたちの声がよく聞こえる。キャーキャーワイワイとかなりやかましい。自転車が10台以上並んでいるから、マンションの子だけでなく近所の子が遊びに来ているのだろう。

 家に居る高齢者から、「ウルサイ!」と苦情が出ないことを願う。人はどうしても自分本位だ。子どもの頃、大きな声で遊んでいたいたこともすっかり忘れている。元気な子どもの声はウルサイかも知れないが、何となく心が癒されるのに。

 エレベーターで上に上がろうとした時、小学3年生くらいの女の子が「一緒にお願いします」と入って来て、扉を抑えて「もうひとり女の子が来ます」と言う。「じゃー、開くの方を押していないとね」と私がボタンを押していると、友だちの女の子がスケートボードを持って乗り込んできた。

 「お願いします」と言っていた女の子が、私に見せるように、「これ拾った」と言う。「ナットだね。今、工事しているから落ちていたんだ」と答える。エレベーターを出ていく時、女の子は「ありがとうございました」と言い、「ウチのおじいちゃん、大工さんなんだ」とナットを見せながら友だちに話していた。

 子どもはみんな素直でいい。なのにどうして不登校になったり、自傷行為に走る子が生まれてしまうのだろう。年齢が高くなると、自殺志望まで増えてくる。自殺志望者が集まって、思いとどめるのではなく、幇助する事件も起きている。この世が生き辛いのは分かるけれど、死んでしまったらこの先にある楽しいことも味わえない。

 人生のどこで素敵なことが生まれるか分からない。いつか素敵な楽しいことに出会えると信じて生きていって欲しい。子どもたちの無邪気な遊び声が、止まることのない社会であって欲しい。それを保障するのは子どもたちではなく、私たち大人の努めだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真珠湾攻撃の悲劇を繰り返してはならない

2022年12月08日 17時48分59秒 | Weblog

 日本海軍は1941年12月8日未明、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲攻撃し、太平洋艦隊の戦闘能力に大打撃を与えた。真珠湾攻撃については、宣戦布告が遅れていたので、映画にもなった記憶がある。

 遅れた原因は、ワシントンの在米大使館の怠慢説や日本外務省が意図的に遅らせた説などあるが、どういう理由にせよアメリカにとっては「だまし討ち」で、ただちに日本に対して宣戦を布告し、日米大戦に突入した。

 戦争が始まってどういう結果になったか、日本人はよく知っている。東京も大阪も名古屋も、焼け野原になり膨大な人々が亡くなった。その時、生き残った人も悲惨な暮らしを強いられた。どんな理由があっても、戦争をしてはならないと人々は決意した。

 今、政府は2023年からの5年間で防衛費を1.5倍超にするという。総額43兆円になるという数字だけ見ても実感は伴わない。けれど、防衛体制は大きく変わろうとしていることは、「敵基地攻撃能力」が強調されていることも分かる。

 81年前の真珠湾攻撃は、正に敵基地攻撃だった。軍備を強化して戦争に備える結果は、誰の目にも明らかだ。片方だけが無傷で勝利することはあり得ない。ましてや今日のように、新鋭の武器が揃っていてはなおさらだろう。

 「あなたは戦争になったら、国のために戦いますか?」という調査で、「はい」と答えた青年は、世界の中で日本は最下位の13%だった。軍備強化を主張する人たちには「ふがいない」と怒るだろうが、日本の若者は政治に関心が低いというが、正しい選択が出来ると私は思った。

 戦争で得をするのは軍需産業を牛耳る連中だけだ。家族や友人、恋人を死に追いやったりする、悲惨な目に遭わせてはならない。真珠湾攻撃の悲劇を繰り返してはならない。軍事力強化に反対、防衛費の増額に反対、戦争反対、みんなで声をあげよう!

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする