友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

立ち入るべきではない領域なのかも知れない

2022年10月21日 17時41分37秒 | Weblog

 秋晴れの爽やかな空の下、我が家の金木犀は金色から銀色へと変わりつつあった。時の流れを止めることは出来ない。少しずつ止まることなく変化していく。この世界もこれからどこへ向かっていくのか分からない。不安もあるが楽しみもある。

 先輩が、「テレビはウクライナと統一教会のことばかりで面白くない」とぼやいていたが、これからどうなっていくのだろう。統一教会の信仰は偏り過ぎているが、人の信仰を「間違っている」と言えないし、信仰がどんな形をとるかについても部外者があれこれ言うべきではない。信仰する人々が、その形を検証し、変えていくのだろう。仏教もキリスト教もそうやって世界に広がっていった。

 ウクライナとロシアとの戦いは長引けば死者は増え、土地は荒廃するばかりだ。第1次世界大戦で戦車や戦闘機が誕生し、戦争の仕方も大きく変わった。歩兵が銃撃し合う戦闘から、今は遠くからミサイルやドローンで爆撃し合っている。多くを破壊することで相手に白旗を上げさせようとしている。戦争を強いる人は安全なところに居て、死ぬのは巻き込まれた兵士や市民だ。

 こんなに世界は発展し、豊かになったのに、貧しさに逆戻りしているように見えるが、きっと次へと向かっているのだろう。カミさんは先週の金曜日に病院で、コロナ感染は陽性と診断され、薬を飲み続けて陰性に変わった。今日は友だちと打ちっぱなしに行き、お茶を飲み、おしゃべりをしている。いったいコロナ感染は何だったのだろう。

 ウイルスとの戦いに人類は勝利した訳では無いが、戦い方は習得したのかも知れない。けれど、人の悩みや欲望や恐れなどは、まるで進歩して無い気がする。心の問題まで科学で解決するのは不可能なのだろう。いやむしろ、それは立ち入るべきではない領域なのかも知れない。今日は「国際反戦デー」だったのに、報道は全くない。

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朝晩は冷え込み、秋はさらに深まっていく

2022年10月20日 18時05分56秒 | Weblog

 朝はとても寒かった。部屋の温度計は19度、今年最高の寒さだ。ところが昼間はとても暑い。文化勤労会館での文化祭の絵画展を見てこようと、外に出ると思った以上に暑い。車の中は真夏のようだった。

 なのに、こうした温度変化に私の身体はついていけないのか、鼻水がポタポタと落ちる。家の中ではこれが常態だが、外に出た時は緊張からか鼻水は止まるのに、今日はなかなか止まらない。

 外出したついでに、馴染みの文房具店さんに寄った。プリンターのインクが無くなってきたので品物を見ていると、店主が声をかけてきた。「これでいいのかな」と私が言うと、店主は「虫眼鏡で見てみよう」とカウンターに誘う。

 互いに歳を取って来て、小さな文字が読めないのだ。「どう、元気にしている?」と言うので、今、井戸掘りで苦戦している話をする。店主の家の庭にも井戸を掘ったので関心が高い。「ワシは考えることは好きだが、力にはなれん。力が出ない」と話す。

 そんな世間話が出来たのは久しぶりだ。カミさんは「陰性」になったけれど、まだまだとても慎重だ。慌てることは無い、自分が納得できるまで養生に努めればいい。皆が心配してメールをくれるが、曾孫は40度の熱が何日も続いているという。大丈夫かと、こっちの方が心配になる。

 次女が小2になる娘の運動会をメールで送ってくれた。ひときわ大きくなっていてビックリする。のっぽだがやせっぽっちだ。学年で行ったダンスは切れもあってよくできていた。隣の男の子も孫娘を意識して、負けないくらいうまかった。

 この地方は土のグランドが多いのに、茨城の孫娘の学校のグランドは芝生だった。天気にも恵まれ、子どもたちも楽しそうだった。背の高い孫娘は黒のハイソックスを穿いていたが、短いソックスの方が足がきれいに見えるのにと思った。

 空を見ると、抜けるように青い。朝晩は冷え込み、秋はさらに深まっていくようだ。

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年老いたおバカさんの証拠なのだろうか

2022年10月19日 17時46分45秒 | Weblog

 おバカさんだった。お天気もよいし、カミさんは闘病中で、家に居るより外へ出た方がお互いの気持ちのためにも良いかと思い、書と陶芸の『2人のWORK』展を観に行ってきた。駐車場が限られているようだったので、電車に乗って出かけた。

 駅までの道のあちこちから、金木犀の香りがする。秋の匂いだ。私が通った小学校の隣に、図書館があり、その角に金木犀が植わっていて、運動会の頃になるとちょっと甘い香りを放っていた。

 久しぶりに乗る電車は、昼間なのでガランとしていた。案内ハガキにあった駅で降りて、地図を見ながら会場を探す。線路の西側に駐車場が2台確保されているようだったので、その辺りを探すが見当たらない。

 行き交う人に尋ねたいのに、そういう人もいない。それでもう一度案内ハガキを見ると、会場は駐車場とは反対の東側に記されている。地図も読めなくなったのかと思いながら行くと、ここは昔の岩倉街道ではないか。そんな雰囲気が残る家並みが続いている。

 その中に展覧会場があった。なかなか古風な趣がある。「ごめんください」と戸を開けて中に入るが誰もいない。そんなことは無いはずと、靴を脱いで上がり、声を大きくして挨拶すると、中から男の人が出てきて、「今日は定休日です」と言う。

 私が納得できないでいると、「ハガキに書いてありますよ」と言うので、ハガキを見てみると確かにそう記されていた。アホや。歩き回って疲れたことを理由にして喫茶店に入った。男同士が2組と老夫婦が1組、それに女の子がひとりいた。

 女の子は分厚い本に赤いセルロイドを当てながら、ノートに筆記して、何やら勉強している。高校生かと思ったが、パイプのようなものを口にくわえている。帰りの駅のホームで黒いスーツの女性が大胆に足組みして、スマホに熱中している。金融関係の仕事の女性だが、太ももが丸見えだ。

 ふと、女性はミニスカートを穿いたり、水着になったりするのは、見られることを意識する本能なのかと思ったりした。そんなことを考えるのは、年老いたおバカさんの証拠なのだろうか。

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ありがとうございました

2022年10月18日 17時50分47秒 | Weblog

 私が地域新聞の第1号を発行したのは1985年10月12日だった。第1号の1面の広告は、この町の出世頭と思われる元町長が創立した会社から頂いた。最後の4面は私が食らいついて、何とか出してもらった隣り市のホテルの結婚会場の広告だった。

 中の2面と3面は、子どもが通っていた塾と音楽教室、私が通っていた理容店、それと同じマンションで友だちになった人の会社の広告で、言わば泣き落としで頂いたものだった。けれど、第1号を見た人たちの好感度はよかった。

 1面に広告を出して頂いた会社に行くと、社長が「親父が勝手なことを言ったようだが、1面広告はこれで終わりだ」と言われる。地域の新聞なのに、その会社名は絶対に欲しい。「題字横に月1でいかがでしょうか」と頼み、了解をもらう。

 第2号の1面は、ポッカで広告を担当している大学の友だちに広告掲載を依頼した。この町にポッカは工場を持っていたから、地元への協力ということでOKが出た。次の課題は目につきやすい4面の広告を探しだ。出来上がった第1号を持って、これはと思う企業を回った。

 木造建築を謳っていた会社の事務所に飛び込んだ時は、辺りがすっかり暗くなっていた。何の面識も無い、どこの馬の骨とも分からない者が、いきなり「広告を出しませんか」と言うので、事務所の人たちは「帰れ」といった目で私を見た。

 その時、奥から身体のがっちりした男が、「広告くらい出してやれ」と担当者に言った。10月27日発行の第2号から、毎号の広告掲載となった。社長と親しくなって、「毎回出して頂きありがとうございます」と礼を言うと、「たいしたことないさ。ワシんとこもあんたとこのおかげで、助かっとるで心配いらん」と笑った。

 今日、その社長の葬儀に参列させてもらった。地域新聞の現編集長が知らせてくれて、一緒に連れて行ってもらった。遺影を見たら、「オーイ、頑張っとるかねえ」と声をかけられた。ありがとうございました。

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今晩は何を作ろうか

2022年10月17日 17時20分49秒 | Weblog

 カミさんが買い貯めてあった食料品がたくさんあったので、食事の用意はなんとか出来た。昼食にラーメンを作った。カミさんが「レシピ通りにやった?」と聞くので、私流にアレンジしたのがバレたのかと思ったら、「私が作るのとは違うけど、美味しいじゃん」と言う。

 インスタントもので、作り方も書いてあるから、それに従って作れば間違いはない。けれど、冷蔵庫には中途半端に残っているものがある。大切に使う気持ちは分かるけど、こうして残しておいても賞味期限が切れてしまう。そんな品を加えただけなのだが‥。

 しかし、朝のパンと野菜が足りなくなったので、午後は買い物に出ることにした。そんな時、友だちから電話がかかってきた。「長野から美味しいリンゴが届いたから、(カミさんに)食べさせてあげて」と言う。コロナ感染の家には来てもらうことは出来ないので、買い物の帰りに寄ることにした。

 友だちは私のブログを読んでいるので、「大変ね」と同情してくれる。まあ、老いた夫婦はどこでも一緒、相手が「空気のような存在」の時は気にならないが、求めることが多くなるとイラつくものだ。今晩、食事の後のデザートに、頂いたリンゴを出そう。

 長女からもらった体温計は直接肌に触れずに計ることができる。けれど、いつも数値が同じだからとカミさんは信用しない。そこで脇に挟んで計る体温計を取り出してきたが、残念なことに電池切れになっている。長女からもらった体温計で充分だと思うけれど、気に要らないようなので、買い物ついでに脇で計る体温計の電池を取り替えてきた。

 さて、今晩は何を作ろう。主婦の大変さがよく分かる。

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人は余裕が無い時は、人に優しくなれないようだ

2022年10月16日 20時06分08秒 | Weblog

 今朝は早くから散々だった。8時20分に先輩から、「何をしている?誰も来ない!」と電話があった。昨日、別れる時、「9時半ではなく9時20分にしましょう」と約束したのを勘違いされたようだ。

 作業していた時、先輩はほとんど作業には参加せずに座り込んでいたが、どうしても人手が足りなくてご主人が先輩に、「スパナをください」と頼まれ、先輩は立ち上がり、スパナを届けようと手をの伸ばしたがひっくりかえってしまった。

 動きがおかしいとは思っていたが、とうとうまともに動けなくなってしまった。もうひとりの先輩が、「井戸掘りもこれを最後にしなくちゃーいかん」と宣言する。確かに、どう見ていてもやることがおかしい、そんな時期を迎えているようだ。

 結局、今日も何の成果も無く帰ってきた。5時過ぎていたので、あれこれやっているうちに6時になってしまった。急いで台所に立ち、晩御飯の準備にかかる。それでも6時40分には食事の準備は完了した。

 カミさんに「準備できたよ」と声をかけると、寝室にいたまま「こっちに持ってきて」と言う。うつるといけないからとは分かるけど、余りにも勝手すぎる。やっと食卓に座ったが、「こんなにたくさんは食べられない」と言う。

 腹が立ったので、「残せばいい」と言うと、「本当に思いやりが無いわね」と怒り出す。あなたは病気で滅入っているかも知れないが、こちらもうまくいかなくてがっくりしている。何かもっと他に放す言葉はないのだろうか。

 先輩は「コロナ感染はもう心配することは無い」と断言する。「重症化する人は既に食事も出来ない、自分で自分のことができるくらいなら心配はいらない」と持論を披露する。しかし、人は余裕のない時は、人に優しくなれないようだ。今日は厄日だったと思うしかない。

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成果の見られない作業は疲れる

2022年10月15日 17時57分25秒 | Weblog

 カミさんが起きてくる前に朝の食事を用意し、一緒に食べるが会話はしない。食器を食洗器に入れてセットし、次に洗濯機を動かし、「洗い終わったら干しておいてね」と言うと、「私が干してもいいの?」と聞くので、「太陽に当てるのだからいいんじゃないの」と答える。

 私が出かける用意をしていると、「濃厚接触者なのに、どこへ行くの?他の人にうつさないでよ」と言うので、「ハイハイ。私は感染していませんから大丈夫です」と空返事をして家を出た。カミさんは感染者だけれど、いたって元気だから、昼食はひとりで作って食べられるだろう。

 何しろ今日は、守山区での井戸掘り作業が待っているが、人手は私と先輩のふたりだけだ。ご主人が「鉄管を5メートル打ち込んだ」と言うのに、吸管を入れると4メートルしか入らなかった。ご主人は「先端の矢じりが鉄管の中に入ったからではないか」と推測する。そんなことは無いと思うが、そのためには鉄管を抜いてしまう必要がある。

 三脚を組んで、チェンソウーで鉄管を引っ張り上げるしかない。ワイヤーロープが切れてしまったりして、散々な思いをしながらもなんとか鉄管を抜いた。けれど、やっぱり吸管は入らない。そこで鉄管の中の砂を取り出し、もう一度鉄管を入れてみる。やはり、3.5メートルくらいから入っていかない。

 上からハンマーで叩くと、少しずつ入っていく。5メートルまで入ってくれないと、水を汲み上げることは出来ないだろう。もうここまで来たのだから、水を汲み出せるところまで頑張るか、諦めがつくところまでやり抜くか、どちらかだろう。今日は私と先輩のふたりだったから、作業はご主人と高1の息子がしてくれた。

 さて、明日はもうひとり助っ人が参加するが、口は動くがなかなかのウルサ型だ。果たしてどうなることかと心配だ。それにしても成果が見られない作業は疲れる。

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他人のことより、まず己の始末だろう

2022年10月14日 17時51分32秒 | Weblog

 カミさんがコロナに感染した。昨夜かその前だったか覚えが無いが、眠っている時も咳をしていた。今朝もひどい咳をしていたから、「病院に行った方がいいよ」と言うと、自分でも気になったのかすぐに病院に電話し出かけて行った。

 お昼になってもなかなか帰ってこないので、私のいつもの昼食であるフレンチトーストとサラダを作って待っていると帰ってきた。そしていきなり、「コロナ陽性だって」と言う。「病院で体温を計ったら、38度5分もあり、鼻の粘液を採取され、陽性が判明した」と説明する。

 すぐに隔離なのかと思ったら、与えられた薬を1週間飲み、再検査されるらしい。「どこで感染したのかなあー」と思い巡らしているので、「なってしまったものは仕方ない。まず、予定をキャンセルし、これからどうするかを考えよう」と言ってみたものの、やることは我が家での隔離しかない。

 ミセダブルで寝ているので、隣の部屋から1組のフトンを持ってきて、寝室を別々にした。後は食事の用意を私がする以外にやることはない。カミさんは、「あなた基礎疾患があるから心配」と気にするが、そんなことよりウイルスをまき散らさないように注意してくれと言いたい。

 テレビ朝日系の朝の番組『羽鳥慎一モーニングショー』のコメンテーターの玉川徹氏が番組からの降板するらしい。残念ながら我が家はフジ系の『めざまし8』を見ているので、玉川氏のことはよく知らない。インターネットではストレートな物言いが受けているようだ。直接の原因は、安部前首相の国葬儀での菅前首相の挨拶が素晴らしいとの賛辞に、玉川氏が「電通がからんでいる」と放送の中で述べたからだ。

 調べてもいないのに、思込みで発言し、謝罪している。長くコメンテーターの座にいると傲慢になる。インターネットの世界では、安倍首相が118回も虚偽答弁を行っているのに咎めなしなのに不公平と言う人がいる。正義の人と信じていたのに、確かめもせずに発言した責任は大きい。

 他人のことより、まず己の始末だろう。感染経路よりも病気に負けないで貰いたい。いや、人のことより、私が感染に気を付けなくてはならない。

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列に入らない突出した子を望むのだろうか

2022年10月13日 18時01分29秒 | Weblog

 中1の孫娘は昨日が運動会で、期待通りリレーで活躍できたようだ。母親である長女も運動会が、一番目立っていた。高校では陸上部に入り大会にも出たが、スポーツは身体が大きい方が有利だが、あいにく小柄だったので目覚ましい記録は出なかった。

 隣の小学校は運動会が近いのか、練習に明け暮れている。何度もやり直しているのは、競技に入る前と後の行進である。先生も必死なのか、「何度も同じことを言わせないで」と注意が飛ぶ。子どもたちにとっては、競技は面白いが行進は面白くない。

 けれど、一糸乱れず行進できれば見栄えがいいので、先生としては力が入るのだろう。誰のための運動会なのだろう。オリンピックの選手団の行進も、欧米は自由気ままに行進していたが、日本は足並みを揃えて行進していた。

 美意識というか価値観が違うからだろう。何に重きを置くかは、国のあるいは各学校の方針だから私がとやかく言うことでは無い。詰め込み教育が批判され、ゆとり教育にシフトされたけれど、今はゆとり教育が批判の的になっている。

 全体のレベルを上げたいが、底上げを図ろうとすると、出来る子の能力を伸ばせないジレンマに陥る。日本の教育レベルは、世界ランクでは低い方と言われている。ノーベル賞を獲得できる優秀な人材が育たないと懸念されている。

 優秀な子もそうでない子もいる。特別な子がいなくても、それでいいのではないかと思うが、それではダメだと言う人が多い。かつては1億総中流と言われたくらい似通った生活だった(?)が、今は貧富の差が大きくなっている。

 どうしてそんなに差をつけたいのだろう。みんながそこそこに暮らしていけることが一番大切なのではないのか。運動会における小学生の行進のように、みんなが同じであることを望みながら、列に入らない突出した子を望むのは矛盾のように見えるけれど。

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親をどう見てきたのか、ちょっと気になる

2022年10月12日 17時57分36秒 | Weblog

 『秋の遠足』で醒ヶ井の町を散策していた時、中1の孫娘が「ジイちゃんもいたらよかった」と呟いた。前日が命日の法要だったかも知れないが、彼女にとっては思い出に残る人だったのだろう。

 孫娘と親しく話す機会は無かったが、バアちゃんを気遣う場面もあり、身体だけでなく心も成長していた。食べ物に好き嫌いがあるところは、まだまだ子どもだったが意外な面も見せてもらった。

 孫娘の小学校の時の同級生に、医者の息子がいる。その子は医院を継ぐために名古屋の名門中学校に通っているが、勉強は同じ中学を卒業した父親に見てもらっている。その方がよく分かるからだと孫娘は言う。

 その子の小3の弟も、兄の病院の「副院長になる」と言って勉強している。「兄弟揃って、百点しかとったことが無い」と教えてくれる。同学年の男の子には「いいなづけがいるの」と言う。「病院を維持するためには、頭のいい人と結婚する必要があるから」と。

 「いいなづけに会わせてもらったら、めちゃ可愛い子なので、ライン交換しちゃった」と屈託なく話す。今どきの子は変わってるなと思って聞いていたが、孫娘は躊躇することなく、「お金が無ければ幸せにはなれないじゃん」と言い切る。

 両親の会話を聞くともなく聞いているのだろう。「高学歴でないと幸せになれないとか、お金が無くては幸せになれないとか、確かにそういう面はあるけど、それだけじゃーないよ」と、私もダンナの母も言うけれど、孫娘には届かないようだ。

 「あなたは将来をどう考えているの?」と聞くと、「わからん」と答える。振り返って、私は中学1年の時に将来のことなど、何も考えていなかった。夢も持っていなかった。ただひたすら、毎日をそこそこに過ごしていた。

 孫娘はこれからどんな風に生きていくのだろう。子は親の背中を見て育つという。親は子に、あれこれ言う前に、人として見本を見せることになる。長女も次女も親をどう見てきたのかと、ちょっと気になる。

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