中1の孫娘は昨日が運動会で、期待通りリレーで活躍できたようだ。母親である長女も運動会が、一番目立っていた。高校では陸上部に入り大会にも出たが、スポーツは身体が大きい方が有利だが、あいにく小柄だったので目覚ましい記録は出なかった。
隣の小学校は運動会が近いのか、練習に明け暮れている。何度もやり直しているのは、競技に入る前と後の行進である。先生も必死なのか、「何度も同じことを言わせないで」と注意が飛ぶ。子どもたちにとっては、競技は面白いが行進は面白くない。
けれど、一糸乱れず行進できれば見栄えがいいので、先生としては力が入るのだろう。誰のための運動会なのだろう。オリンピックの選手団の行進も、欧米は自由気ままに行進していたが、日本は足並みを揃えて行進していた。
美意識というか価値観が違うからだろう。何に重きを置くかは、国のあるいは各学校の方針だから私がとやかく言うことでは無い。詰め込み教育が批判され、ゆとり教育にシフトされたけれど、今はゆとり教育が批判の的になっている。
全体のレベルを上げたいが、底上げを図ろうとすると、出来る子の能力を伸ばせないジレンマに陥る。日本の教育レベルは、世界ランクでは低い方と言われている。ノーベル賞を獲得できる優秀な人材が育たないと懸念されている。
優秀な子もそうでない子もいる。特別な子がいなくても、それでいいのではないかと思うが、それではダメだと言う人が多い。かつては1億総中流と言われたくらい似通った生活だった(?)が、今は貧富の差が大きくなっている。
どうしてそんなに差をつけたいのだろう。みんながそこそこに暮らしていけることが一番大切なのではないのか。運動会における小学生の行進のように、みんなが同じであることを望みながら、列に入らない突出した子を望むのは矛盾のように見えるけれど。