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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

誰もそんなことは言わなかった

2022年06月20日 17時40分35秒 | Weblog

 最近、集中力が無くなっている。本を読んでいてもしばらくすると眠くなってきて、数秒ほど眠っている時がある。夜は早く寝ているのに、暑さのせいで熟睡できなくて、目が覚める訳でもなく、夢見ているのか眠っているのか分からなくなっている。

 13日に間違ってかかってきたメールに、「間違いですよ」と返信したことからメールのやり取りが始まり、その記録は大学ノート20ページにもなった。2019年の時も同じパターンだったが、この時は9ページで終わっている。

 それにしても、チャットとかラインとか、アイコンやらアカウントやら横文字ばかりでさっぱり分からない。PCを新しくしたら、Facebookを開くとリールショート動画なるものが出てくる。テレビのコマーシャルくらいの長さだが、時には見入ってしまうものもある。

 FacebookとともにTiktokも表示されるようになった。素人の女の子が踊って見せてくれるが、みんな同じような踊りで、こんなにまで見てもらいたいのだろうか、どういうつもりで投稿しているのだろう。孫娘はYouTubeを見ていると言っていたが、どうやって見るのか私は知らない。

 こうしたものの操作を熟知している子や孫に、私は完全に取り残されているが、だからといって学び直すほどの必要に迫られていない。今、世間では、産後ウツとか学校ウツとか職場ウツさらには結婚ウツまで増えてきているから、老後ウツも流行りだすかも知れない。

 高齢者は弱音を口に出さないから、意外にもう老後ウツは浸透しているのかも知れない。こんなにも豊かな暮らしに恵まれているのに、どうしてウツなどに陥るのだろう。ギラギラした青い空の下、汗びっしょりになって遊んでいた子どもの頃が懐かしい。汗臭かっただろうが、誰もそんなことは言わなかった。

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「想定内」と「想定外」!?

2022年06月19日 17時50分03秒 | Weblog

 猛烈な暑さになった。我が家は地上30メートルにあり、3方に窓があるので風はよく通るからまだエアコンは使っていない。午前中、ルーフバルコニーは日陰になるので気持ちがよかったが、やはり作業をするには無理だった。

 今日は「父の日」。娘たちからの贈り物でお祝いの食事をすることになっている。次女の小2になる孫娘が「ママちゃん。チン料理でない料理で食べてね」と、メッセージまで添えてくれたから、カミさんは「腕によりをかけなくちゃーね」と言う。

 中日・巨人戦を見ていたら突然地震情報に変わった。地震国だから仕方ないが、最近は地震が多く、ジリジリと東海地方に近づいてきている。それにしても、東北大震災の津波による原子力発電所の事故によって、被害を受けた住民の国への賠償訴訟に対する最高裁の判断は間違っている。

 東電に対策を命じていたとしても、想定をはるかに超える大規模な津波で、事故は防げなかったというもので、国のミスなら賠償するが、「想定外」だから責任はないという判断である。だが、「想定外」だから国に賠償責任はないと言ってしまったら、国は常に「想定外」を持ち出して責任逃れをしてしまう。

 自然災害で、たとえ「想定外」であったとしても、苦しんでいる人々がいるのだから、国としての責任はある。家族に何か起きれば、父親は「想定外」でも責任を果たす。孤独な老人は若い女性を名乗る間違いメールに、おかしいと思いながらもどういう展開になるのかと付き合った。

 「これも何かの縁」と誘われて、メールのやり取りをするうちに、「無料のチャットに入って」とメールしてきた。前回と同じパターンだ。とっても可愛い女優志願の女性だっただけに残念でたまらないが、意外に相手は男性だったりする「想定内」かも知れない。送られてきた写真は保存してあるが、公開は「想定外」のため出来ない。

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夕焼けが見えるけど、明日は晴れるのかな

2022年06月18日 18時20分34秒 | Weblog

 ルーフバルコニーに出て作業をしようかと迷っているうちに雨が降ってきた。何も植えていない鉢をどうしようかと思って眺めていたら、いろんな花の新芽が伸びてきていた。昨年の花の種がこぼれて芽を出してきたようだ。あんなに何度も土を混ぜ合わせたのに、よく芽を出してきたと感心する。

 花たちの勢いに比べると、私はすっかりやる気を無くしている。今ある花で充分じゃーないか、これ以上増やしてどう管理するのかと自分に問うてしまう。そんなことを繰り返すうちに、適当なところでやめておこうということになってしまう。

 このところなぜか、友だちのことが気にかかる。5月末には退院すると聞いていたのに何も連絡が無い。メールをするとまだ入院中だと返信があった。詳しいことが分からないのでとにかく待つ他ない。無党派・市民派の勉強会の中心人物だった友だちもまた大学病院に入院している。彼のガンとの戦いは結構長い。

 私の小学校の時の同級生が、「大変困っていることがありますので助けて下さい」とメールしてきて、両手足のしびれや違和感がひどく、MRIやCTでは異常がなく、大学の神経内科で原因が判り、かかりつけの医院で薬を出してもらっているが治らない、手術もあるようなので、「アドバイスを」と求めてきた。

 私は「医学の知識はありませんので、医者に言われたようにしています。私でもよければ、お話は聞かせていただきます」と素っ気ない返事をしてしまった。あれから何も言ってこないのでそのままにしている。心配なことに変わりはないが、病気とはうまく付き合っていくしかないと私は思っている。

 私はもう78歳、充分に生きてきたし今更悔いてもどうにもならない。「そういうことを言う奴に限って長生きする」と怒られそうだが、代われるものなら代わってあげたい。夕焼けが見えるけど、明日は晴れるのかな。

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超過勤務はぜひ無くしてもらいたい

2022年06月17日 18時01分01秒 | Weblog

 学校の先生の超過勤務が問題になっている。先生も1日8時間労働が原則だが、働く中身が時間で計れないケースも多い。例えば児童・生徒を引率して旅行なりキャンプなりに行けば、出発から帰るまで責任を持たなくてはならない。

 それでも教師になるような人は苦にせずに働いてきた。ところが今の教育現場は以前に比べて提出書類が多く、仕事量が半端ではないようだ。学校にいれば児童・生徒に対応しなければならないし、モンスターペアレントにも応答しなくてはならない。

 私が教員になったのは半世紀も前で、しかも伝統ある県立の工業高校だったから、まるで大学のようだった。先生は授業と言わずに、「講義に行ってくる」と言っていた。受け持つ授業が無ければ、学校にいない先生もいたし、さっさと帰っていく先生もいた。

 部活動は盛んだったが、高校生の自主性に任されていた。私は美術クラブとブラスバンド部の顧問だったけれど、ブラスバンドは合宿に付き合い、発表会について行くだけだった。学校が好きだったから居残ることも苦では無かった。

 今、先生たちの中には月100時間も残業している人がいる。小・中学校でも部活が盛んで、県大会や全国大会の出場校をはじめに滅茶苦茶練習が厳しい。勝つことが目的になっているからだが、小・中学生なら楽しむことだけでいいと思う。

 私たちの時代はどんなに超過勤務であっても手当ては無かった。今も先生の勤務内容から時間外や休日手当は支給されないが、わずかな手当は出ているようだ。学校がブラック企業などと言われるようでは情けない。若い人たちが教育に誇りと情熱が持てるような仕組みに改善すべきだろう。

 教師になってみればわかるが、子どもたちと一緒に学ぶのはとても楽しい。明日はこれをやってみようとか、あの子にはコレがいいかとか、プランを考えることも心躍る。先生になった人が、失望してしまうような超過勤務はぜひ無くしてもらいたい。

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出来ることを出来るようにやるしかない

2022年06月16日 17時42分10秒 | Weblog

 東海地方も梅雨入りし、どんよりとした曇り空だ。暑くも寒くもないから丁度よいのに、何となくボンヤリと過ごしている。格別にやることがないのは困ったものだ。卒業生が『同級生新聞』に絵を載せているので、私もやってみたかったが、利き手の右の手首と親指の付け根がしばらくすると痛くなった。

 歳は取りたくないとは誰でも思うが、決して止めることは出来ないから、うまく付き合っていくしかない。私が住むこのマンションも入居当時は30代や40代の働き盛りだったが、今では老夫婦で暮らしているかあるいは相方に先立たれひとりで暮らしている。子どもと同居のケースは少なく、子どもと連絡がつかない人もいるようだ。

 若い時は孤独などとは無縁でフル回転で働き続けてきて、老いた今になって、気が付いてみたら周りに話せる相手がいない。高く評価されてきた人も、今ではただの老人に過ぎない。働き盛りの時に、どんなに高額な契約を次々と成功させてきた人も、そんな功績を評価する人もいなければ知る人もいない。

 認められることが生き甲斐であったのに、今では存在すら忘れられようとしている。私の孫たちは頑張り屋さんで、クラスの当番や児童会・生徒会の役員に立候補したり、ピアノの発表会で腕前を披露したりと活躍している。目立ちたいと言うより、認めてもらいたいのだろう。頑張るだけでも立派なことだ。

 頑張ったことが成果として実を結ぶなら、やった甲斐があったというものだ。難しいのはどんなに頑張っても結果が出なかった時だ。本人も自分の持てる力のすべてを出し切ったのに、自分も周りも結果だけを見て判断してしまい、報われない時もある。「よくやったね。次も頑張ろうね」と、なかなか言えない。

 人生は長い。もう先が無いと気づいたのに、何も出来ていない。次に頑張るものが無い。でも、頑張ってきたのだから、それでいい。今、出来ることを出来るようにやるしかない。それが人生と気づくことが出来た。

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親の度量

2022年06月15日 18時07分33秒 | Weblog

 カミさんに付き合って眼鏡屋さんに行った。老人の夫婦が何組かいた。みんな歳を取って、目の不具合があるのだろう。客が増えてきたので私は車で待つことにした。新聞に載っていた一宮市の御裳神社にアジサイを見に行ってみようと思い、ナビに登録する。

 御裳神社はかつての尾西市にある神社だった。天候が悪いにも関わらず、大勢の人が見に来ていた。私たちは車を降りてすぐにアジサイを見に行ったが、本殿の前で頭を下げ、長い時間をかけて丁寧にお参りする人も多く、ちょっと恥ずかしかった。

 ブログに写真を掲載するにはケイタイを持って行く必要があったが、長女から与えられているスマホを持って行けば、孫たちに送ることが出来るからとスマホだけを持って行った。スマホの写真をパソコンに送る方法を探ってみよう。

 岐阜県安八郡神戸町のバラ園も行きたかったが今日は諦め、昼食をとって帰ってきた。早速、カミさんから写真を送る方法を教えてもらい、撮ってきた写真を孫グループに送る。すると、茨城の次女からカミさんに電話がかかってきた。

 次女の小2になるひとり娘が遠足の実行委員になったけれど、その経緯が自分には納得できないので担任に相談した方がよいかと元教師のカミさんに問うている。次女の娘は役がやりたかったがなれなかった。それで男の子が譲ってくれたが、他の女の子もやりたかったのでふたりでジャンケンし、娘は負けてしまった。

 女の子は落ち込む娘に役を譲ってくれた。担任の知らないところでそんな風に決めてよいのだろうかと次女は言う。男の子や女の子の気持ちを考えたのかと、次女は娘を責めたようだが、子どもたちが話し合って決めたことを蒸し返したなら、3人とも傷つくことになる。ここはそっと見守ることではないかと次女に話していた。私もそう思う。

 親が出ていけば、子どもたちの立場がなくなる。他の子のことを考えたのかと詰問するように、自分に問うてみることだ。子どもたちのことは子どもたちに任せる。それが親の度量だと私は思う。次女はカミさんに話したことで、「すっきりした」と言っていた。

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古くから住んでいる人も新しく来た人も

2022年06月14日 18時17分08秒 | Weblog

 

 デイゴの花が咲いた。今朝から雨が降っていて、青い空に真っ赤なデイゴの花とはならなかった。デイゴは沖縄県の花、花が見事に咲く年は台風が多いとも言われている。私の住む市でも中学校の校庭と、自動車販売店の前の道路で見ることが出来る。

 沖縄が北限と言われているから、我が家のような地上30メートルあって冬の強風が半端でないところで、鉢植えで育つだろうかと心配したがもう何年も冬越ししている。しかし、冬は丸裸で枝は枯れてしまうので、春に芽が出てくるのだろうかといつも心配になる。

 真っ黒な幹から新しい枝が生まれてきて、先端に真っ赤な花を咲かせてくれる。緑の葉と赤い花の組み合わせはいかにも南国を連想させる。このデイゴは町議会議員の視察で鹿児島へ行った時に買ったものだが、夏によく似あうと満足している。

 花にはそれぞれの歴史があって面白い。植物でも動物でも、在来種の保護は大事かも知れないが、外来種を「悪」のように言って欲しくない。地球全体から見れば、在来種も外来種も無いだろう。その地で生き残ったからといって、いつまでも安泰というものでもないのだ。

 アメリカ合唱国の独立宣言は人類史の輝かしい記録となった。けれど、多くの先住民が殺された。アメリカが国力をつけていく過程は、黒人奴隷の存在が無くてはならなかった。民族が大移動した時代もあったし、略奪や強姦がいつも繰り返された。

 夢を求めて、生活苦から逃れて、戦地から避難して、多くの人たちが移動してきた。古くから住んでいる人も新しくやって来た人も、みんなが理解し合い助け合い喜び合える、そんな時代を作り出してもいいのではないだろうか。

 

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地域から新しい風が吹かなければ

2022年06月13日 18時15分30秒 | Weblog

 広島県の安芸高田市が話題になっている。安芸高田市は中国山地の盆地で、確か毛利元就が拠点とした所のはずだ。何が話題になっているかというと、市長と市議会が真っ向から対立してしまっているという。

 市長は2020年8月の選挙で当選した39歳と若い。どうしてこんなに若い市長が誕生したのかと思ったら、河井克行買収事件が絡んでいた。前市長は金をもらっていたので辞職し、選挙となったという訳である。

 この時の投票率は56.98%とかなり高く、当選した市長は対立候補に3千票の差をつけている。同じ年の11月に行われた市議会議員選挙は定数16に18人が立候補し、投票率は63.19%とさらに高い。河井から金を受け取っていた議長は10位で再当選している。

 どうしてこうなるのか。安芸高田市は2004年に6町が合併して誕生した市なので、まだ6町の意識が残っているのかも知れない。当選議員の職業を見ても、農業の人が多い。平均年齢も64.25歳で、女性議員は1人しかいない。

 市長は市議会中に居眠りをしている議員がいるとツイッターに載せたことから、議会全員協議会に呼び出され、「市議会を敵に回すな。政策に反対するぞ」と忠告を受けた。市長が一般市民から公募した人を副市長に任命する案を議会に提出したが否決された。

 そして市長は市議会議員を半数にする削減案を提出、議会は賛成1反対14で否決した。議員定数の変更を市長の側から提案するのはいかがかと思う。議員数が少なければ、地域ボスしか当選できない。市民の声を議会にというなら、定数を増やした方がいいが、議会で発言もしない議員ばかり増えても意味がない。

 まだまだ日本の地域は田舎のようだ。民主主義はまだほど遠い。市長も意固地にならずに、市民のための市政に徹してもらいたい。地域から新しい風が吹かなければ、なかなか日本は変わっていかない。

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NHKはその使命を果たしてほしい

2022年06月12日 17時44分32秒 | Weblog

 最近、テレビが面白くないと思っていたら、中学からの友だちも録画したものばかり見ているとブログに書いていたから、年齢のせいなのかも知れない。私が欠かさず見ているのは、土曜日の『よしもと新喜劇』と日曜日の『のど自慢』だが、日曜日は『アッコにおまかせ』に変えられてしまう。

 『よしもと新喜劇』はいつも同じパターンなのに、最後のオチに期待してしまう。確かに容姿を馬鹿にしたり、いじめられ役がいて気の毒な気がするが、最後に大笑いして「まあいいか」となってしまう。昔はドツキが多かったように思うが、最近はホロリと泣かせる場面が目立つ。

 カミさんに笑われるが、『のど自慢』を見ていてもなぜなのか涙が流れてしまう。私が勝手に想像して、物語を作ってしまうのだろうが、登場者は泣いていないのに、私はティッシュペーパーで涙を抑え鼻水を拭いている。『よしもと新喜劇』や『のど自慢』が好きなのは、涙を流せられるからかも知れない。

 日曜日の大河ドラマは見ているが、なぜか絶対に見たいという気にならない。『鎌倉殿の13人』は平安貴族に代わって武士が政治の実権を握っていく歴史ドラマ。関東武士の生活や考え方などが分かって面白いのに、頼朝の苦悩や義時の胸中が見えてこない。滑稽さが先立ってしまいリアリティに欠ける気がする。

 NHKには高い受信料を払っているのだから、NHKでなければ放送できないような番組に徹して欲しい。民放と同じような歌やドラマやバラエティなど要らない。それではますます若者のNHK離れが進むだろうが、受信料を強制的に徴収しているのだから厚顔でやればいい。

 私がNHKに期待しているのは、『のど自慢』『ダーウィンが来た』とEテレ、見たことは無いが『国会中継』『日曜討論』も大切だろう。民放がやれることは民放に任せればいい。国営のプライドを持って、その使命を果たしてほしい。

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もう一度挑戦してみよう

2022年06月11日 17時22分50秒 | Weblog

 私は中学からの友だちとの約束でブログを始めた。高校も一緒で、彼は文芸部、私は新聞部で、記事が足りないときは互いに埋める文章を書いた。書くことは好きなので苦にはならなかったが、文芸部の機関誌に載せられるような文章が書けたかは疑問だ。

 夏の夜、ひとりで川の堤防を自転車で走っていた時、月の光に照らされた月見草が川原に群れをなして咲いていた。神秘的であまりにも美しい光景だった。この美しさは私以外に誰も知らない。初恋の人を想い、君の美しさを知っているのは僕だけだと詩を書いた。

 文芸部の顧問の国語の先生に、「独りよがりの詩だ」と酷評された。新聞記事は見たものを分かりやすく書くことが鉄則だが、文芸ものは独善でいいのではないか、評価は人それぞれ違う、そう思ったが文芸部には向いていないのかと落ち込んだ。

 新聞の記事は短く的確に表すことが原則だ。地域新聞を発行していた時も、地域の人に600字から800字で原稿を依頼し、足りなかったりオバーした時は事前に了解を得て、編集長の私が修正させてもらった。

 インターネットを見ていたら下記のような文章が載っていた。そして、「あなたは右から読む、左から読む」とある。右から読み、念のために左からも読んでみた。そして笑ってしまった。

  

 凄い!よくこんな文章を思いつくものだと感心した。自分も作ってみようと思ったが全く歯が立たない。これを思いついた人はどういう人なのだろう。ただの暇人か、超のつく天才か。時間を持て余した時にもう一度挑戦してみよう。

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