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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

記者も政治家も安定の上に胡坐をかいている

2020年06月20日 17時31分06秒 | Weblog

 地域新聞の記者をしている時、議会を傍聴していたら、「オイ、どこに座っているのだ。ドケよ」と声をかけられた。声の主は大手の新聞記者だった。記者席に座って何がいけないのか分からなかったが、記者席は大手の新聞記者のための席だったのだ。

 私よりも若い大手新聞の記者の横柄な態度に腹が立ったが、それが当然だと思い込んでいる男と言い争う気はなかったので席を譲った。傍聴席には私と彼しかいなかったのだから、どこに座ってもいいはずなのに、彼は会社を背負っているプライドがあったのだろう。

 県庁には記者クラブがあって、記者クラブに入っていなければ知事会見の席には出られなかった。新聞という表現の自由を代表する仕事の場も中身は極めて封建的だった。国会閉会後の安倍首相の会見を見ても、まるで所信表明を聞かされているようだ。記者の質問にも的外れな答えなのに、食い下がる質問者はいなかった。

 『インファクト』編集長の立岩陽一郎氏が、この会見を「総理慰労会」と批判していたがうまい表現だ。前法相の河井克行議員と妻の案里議員が買収容疑で逮捕された。立憲民主党の枝野党首は安倍首相の責任を記者に、「焼きが回った。退陣すべきだ」と語った。

 「焼きが回る」とは、切れが悪くなったとか、能力が落ちたという意味なので、枝野さんは安倍さんを評価していたことになる。野党党首なら安倍首相の任命責任を追及し、自民党政治の腐敗の構造に切り込まなくてはならないのに、全く鋭さに欠けている。

 記者も政治家も、安定の上に胡坐をかいている。投票した私たち国民も、そんなところを気にしながらも、政治を変える意欲が無いから同罪と言える。

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私は何をするといいのだろう

2020年06月19日 17時26分18秒 | Weblog

 梅雨だからなのか、頭も身体も気持ちも重い。何もする気になれない。本を読んでいると眠くなってしまう。テレビは今日から県外へ移動が出来ると、旅行に出かける人の姿を映していた。「何も国に言われることではないのに、ヘン」とカミさんは指摘する。

 全くその通りだが、じゃ―無視して旅行に出かけたかと考えると、絶対に有り得ない。マスクをしていない人を見る眼は、犯罪者を見る眼だ。そんな眼に耐えられないから、みんな自粛して外へは出ない。他人の眼が怖いのだ。

 NPOの関係で、司法事務所へ出かけた。入室するとすぐ消毒液を手にかけられた。「申し訳ないですね」と謝るが、これがこれからの習慣になっていくのだろう。「バイキンをいっぱい持ってきちゃったから、仕方ないですよ」と冗談で返す。

 「司法書士さんは、コロナの影響は無いでしょう」と聞けば、「3月4月は6割減でした。土の売買は極端に無くなりましたね」と話す。3密を避けることが至上命令だったから、みんな家から出ずに、人と会うことを嫌った。日本人は他人の眼を気にして、自粛生活を選んだのだ。

 それでもひとり暮らしの人や他人との交流が好きな人は、いつまでも閉じ籠ったままでは息が詰まるようで、人のいそうなところへと出かけて行く。スーパーへ買い物に行けば誰かに会うし、スーパーには安い喫茶コーナーもあるからおしゃべりも出来る。

 マンションの中庭では子どもたちの声が聞こえるようになった。雨もちょうど止み、少し陽が射してきた。するともう、子どもは家から外へと飛び出して来た。子どもは外で大いに遊ぶがいい。やっぱり家で本を読むのが好きなら、それもいい。決まりは無いから自由にすればいい。

 私は何をするといいのだろう。

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今日、河井前法相夫妻の逮捕

2020年06月18日 17時15分56秒 | Weblog

 カミさんたちはゴルフに出かけた。「お天気のことは大丈夫。絶対に雨の心配はない」と先輩は言っていたが、このところ神通力が発揮されなくなった。今日は朝からずぶぬれの中でのプレイだったのではないだろうか。

 年老いてきて、若い人のようにはプレイできなくなっているから、逆に、雨降りは差が出ないのかも知れない。ゴルフをやったことの無い私が考えても仕方がないか。テレビも新聞も「河井前法相夫妻の逮捕」を取り上げている。河井案里参議院議員が初当選した昨年7月の参院選挙での、買収が疑われているのだ。

 河井克行衆議院議員は安倍内閣で法務大臣に任命されているし、その前は副法務大臣で、『司法の崩壊』という著書もある。そんな人がどうして買収など行ったのか不思議だ。買収は確実な票集めと言われているが、絶対に発覚する。そんなことがどうして分からないのだろう。

 安里議員は28歳で河井克行さんと結婚、夫の選挙を手伝っているうちに克行さんから、「君は政治に向いている」と言われ、29歳で広島県議会議員になった。テレビの解説者も「夫の克行氏より政治家向き」とコメントしていた。ご本人もその気になったのか、36歳の時には広島県知事選挙に立候補しているが、落選だった。

 安倍首相の肝いりで、しかも自民党本部から1億5千万円も渡されている。同じ自民党候補者の1千5百万円の10倍の資金援助だ。これから裁判で何が明らかになっていくのだろう。自民党本部の責任とかは無いのだろうか。1億5千万円の使い道も明らかにして欲しい。

 東京都知事選挙も注目に値する。コロナ禍で従来型の選挙運動は出来ず、政策や人柄はインターネットと選挙公報で知るしかないとなると、新しい選挙になるがどうなることだろう。

 

 

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全てのものが定められた運命にある

2020年06月17日 17時41分57秒 | Weblog

 午後3時、お茶の時間の用意をしていると部屋が揺れ出した。地震だ。テレビをつけてみる。岐阜県美濃中西部で最大震度4の地震が発生したという。この頃、岐阜県や長野県は深さ10キロ辺りでよく地震が起きている。連動して大地震になることは無いと専門家は言うが、不吉な予感だ。

 北朝鮮が南北連絡事務所を爆破した。北朝鮮からの脱北者たちが、気球を飛ばして金正恩を批判するビラを撒いたことへの報復らしい。どうして事態を悪化させる方へと動いてしまうのだろう。互いが歩み寄る手立ては無いのだろうか。宮城県の上空に得体の知れない物体が浮かんでいるという。気象観測の気球とか、UFOとか、北朝鮮から飛んできたとか、情報が乱れている。

 今朝の早い時間は快適だったので、ルーフバルコニーでの作業に精を出した。ところが陽が射してくるとメチャクチャ暑い。やれるところまでやって、後は明日の朝にすることにした。ミミズが1匹、動けなくなって蟻にたかられていた。どうして安全な鉢の中から出てきてしまうのだろう。

 バラの蕾を食べる虫がいる。毎朝、気を付けて見ているのに、被害にあった蕾が3つもあった。食用のバラの花弁を食べたことがあるが、苦くも無くちょっと甘かった。蕾を食べるのはテントウムシのようだ。可愛い虫なのに困ったものだ。

 虫も何かを食べなければ生きていけないし、一生を土の中で過ごすミミズも何かを食べているはずだ。バラも草花も身を守りながら花を咲かせて子孫を残そうとしている。新しい花を咲かせるためには、古くなった花や葉が身を引かなくてはならないが、頑固に留まるものもある。

 全てのものが、定められた運命にある。明日は「誕生日会ゴルフ」。ゴルフをしない私も反省会に呼ばれるので、久しぶりに生ビールが飲める。

 

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人の触れ合いは無くなっていくのだろう

2020年06月16日 17時32分17秒 | Weblog

 カミさんの友だちのお母さんが亡くなった。享年99歳。子ども4人、孫7人、曾孫8人、幸せな人生だったと想像できる。「とってもキレイな、素敵な写真だった」とカミさんは話す。「家族葬だから、どうしよう」と悩んでいたが、通夜も告別式も参列した。

 現役の人が亡くなった時とは違い、退職してしまうと「家族葬」で行う人が多い。家族葬だからと言っても、家族以外の人の参列を拒否している訳では無く、親しい人で見送ってもらう葬儀という意味が強い。だから身内が高齢になれば、家族葬が多くなる。

 人は生まれたからにはいつか死を迎える。早いか遅いかは神様が決められることだ。私は75歳までに旅立ちたいと思っていたので、既に「死亡通知名簿」を作成し、娘たちの名で出す「死亡通知ハガキ」の文面も作り、パソコンに保存してある。

 手順としては、どこで死ぬにしても死亡診断書が必要となる。死亡診断書を受け取って市役所で火葬許可をもらい、葬儀屋に依頼して火葬場に運び、「当人が『骨は拾わないで』と言っていた」と伝える。それでも火葬が終わるまでは、立ち合いしなくてはならないだろう。

 仏壇も墓も要らない。どこかで親族が集まり、故人の思い出などをつまみに食事でもすることになるのだろう。コロナ禍で葬儀に集まることが出来なくなっているという。葬儀や結婚式をインターネットで行うところをテレビが報じていたが、全く考えられない時代になった。

 伝統は時代とともに変わっていくと分かっているつもりでも、素直には受け入れられない。私が子どもの頃は、結婚式も葬式も自宅で行われていたから、近所が総出で手伝った。ある意味で祭りだった。人の触れ合いは、どんどん無くなっていくのだろう。

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紫陽花の寺

2020年06月15日 17時38分38秒 | Weblog

 仙台に住む6歳の孫娘の幼稚園も6月から始まったようで、次女から「誕生日会へのメッセージを送ってとメールが来た」とカミさんは嬉しそうだ。「何て書くといい?」と聞くから、「思ったままでいいよ」と答えると、「パパちゃんとママちゃんの連名で送るんだから、あなたも考えてよ」と迫る。

 日頃使っている言葉でなければ、孫娘には響かないだろうから、よそ行きの言葉でない方がよいと決まったが、それでも長い時間カミさんは考え込んでいた。「あまり考えすぎるといい文章にはならないよ」と伝え、適当に書いてみせるがそれでもまだ、考え込んでいた。

 6歳を迎えたということは来年は小学1年生か。まだまだ赤ちゃんだと思っていたが、時々、次女から送られてくる写真や動画を見ると、随分と大きくなったと思う。それに、次女が手を焼くような反抗的な態度をとる時があるようだ。成長の証なのだが、母親としては「小憎らしい」ことだろう。

 今日、仙台の孫娘を連れて行ったことがある、稲沢市の性海寺へアジサイを見に行って来た。私が地域新聞を作っていた頃、手伝ってくれていた女性が花や食べ物や名所に詳しかったので、読者のバスツアーを組んだことがあった。最初に出かけたのが、性海寺だった。

 その頃に比べれば、公園としてかなり整備されている。素朴さはないが、名所になっているので見物人は多い。東屋で3人の老人が休憩していたので、「今年のアジサイはちょっと元気ないですね」と声をかけると、「もう時期が過ぎたから」と答えてくれた。

 3人ともシルバーの帽子をかぶっているので、「私のところのアジサイは花が枯れてしまうのですが、どうしてなんでしょうか」と教えを乞うと、「私らは掃除しとるだけだで」と言われてしまう。駐車場の係りの人も公園の掃除も、市のシルバーが請け負っているようだ。働くことは大変だろうが、人との接触もあり、楽しみもありそうだ。

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時代遅れは仕方ないが‥

2020年06月14日 17時26分18秒 | Weblog

 「『行ってきます』いつもの通り居間を出し 夫は七歩で〈職場〉に入る」。朝日歌壇に掲載された横浜市の女性の歌である。私は癖で、短歌や俳句あるいは投稿欄を見ると、この人なら原稿を書いてもらえるだろうと、同じ市の人を探してしまう。

 コロナ禍で働き方が変わったと聞いた。これまで出張であちらこちらと出かけていた、時には海外にまで何週間も出かけていたのに、今はテレワークとかで一日中家のパソコンの前にいる。「いったい、あの出張は何だったの?本当に出張だったの?と疑ってしまう」とまで言う。

 AIだITだといろいろ言われているが、私にはさっぱり分からない。脳科学者の中野信子さんが『毒親』の中で、「母親のサポートシステムを、ビッグデーターと機械学習によるAIによって組んでしまうということも考えられるかもしれません」「育児や家事をやってくれるロボットもできるでしょう」と言う。

 「上の世代の人は進化する社会に対して『すぐに新しものに飛びつくな』と言うものです。それはあくまでも前の世代の感覚。たしかに一世代前の人の生活感覚とは違うかもしれないけれども、これからの生活に適応した形になっていればいいのです」と結ぶ。

 私は完全に時代遅れになっている。中野信子さんは私の長女よりも5つも年下の1975年生まれだ。新聞に掲載される学者などの生まれ年を見ると、60年代や70年代の人が多くなっている。先日、新聞に紹介されていたので買った、『武器としても「資本論」』の著者の白井聡さんも77年生まれだ。

 昼からは雨は降って来なかった。分かっていたなら稲沢市のアジサイ寺に紫陽花を見に行けばよかった。テレワークもないし、掃除以外にやることのない巣ごもり生活、脱出の機会を逃してしまった。

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ドクダミもツユクサもユダも

2020年06月13日 17時12分20秒 | Weblog

 鉢植えのツバキの根元で、ツユクサが大きく伸びてきた。花の苗を買った鉢に種があったのか、いつの間にか大きくなり、私は面白がって放っておいた。次の年にはさらに増え、ツバキやキンモクセイやツツジの鉢でも見られるようになった。余りに増えるので、今年はツバキの鉢以外は見つけ次第抜いている。

 ツユクサは可憐な青い小さな花を咲かせる。友だちが「父の好きな花」と言っていたので、絶やすことは気が引ける。マンションの庭に移植してみたが、今は1本も見当たらない。毎年、住民による草取りが行われ、ツユクサもドクダミもむしり取られてしまう。リーダーの高齢の女性に、「残してもいいのでは」と言ってみたが、「増えて困る」と一蹴された。

 今年はコロナ禍で草取りが中止になった。おかげで、一面にドクダミが白い花を咲かせている。今日は雨降りで花が小さく見えるが、雨の降っていない時は十字架のような形が大きく見える。こんなに可愛い花なのにどうして嫌われるのだろう。昔は薬草として重宝されたというのに、なんとも理不尽な気がする。

 理不尽といえば、キリストの12人の弟子のひとりユダくらい不運な人はいない。キリストが好きで、キリストのために尽くしてきたのに、最後の晩餐の席で、「私を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方がいい」と言われてしまう。太宰治の小説『駆け込み訴え』はユダの苦悩がよく分かる。神は全能の方なのだから、ユダの行為は織り込み済みということで、十字架にかけられ復活するためにシナリオに使われたのだから、忌み嫌ってはならない大事な人のはずだ。

 ドクダミもツユクサもユダも、悲しい運命を背負わされた。

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祖母の日課

2020年06月12日 19時29分02秒 | Weblog

 梅雨らしく降ったり止んだりして、まるで人の世のようだ。「空けない夜は無い」と昔の人は言うけれど、確かに苦難ばかりが続くわけではなく、笑って過ごせる時も必ず来る。人生はそんなことの繰り返しだ。

 幾つになってもひたすら努力を続ける人もいれば、「もう苦しいことは止めた。余生は楽しく生きたい」と開き直る人もいる。それは、歳を重ねてきたからで、若い時なら毎日、意味など考えずに我武者羅に時間を過ごしてきた。それが「生きてきた」という意味だった。

 コロナ禍でこれからどうなっていくのか、誰も分からないが、分かっていることは「なんとかなるさ」と誰もが自分に言い聞かせていることだ。経済は落ち込むだろうけれど、だからと言って、特別定額給付金の10万円を消費しても、寄付しても、そんなに大きく変わるとは思えない。

 庶民は庶民らしく、毎日をコツコツと生きるしかない。人はこれまでも、どんなに大きな災難が降りかかってきても、逆らうこともせず、黙った自分の生活だけを見つめて生きてきた。祖母は毎朝、仏壇にロウソクの火を灯し、線香をあげ、水とご飯をあげることを欠かさなかった。

 祖母が仏壇から下ろしてきたご飯を私は一度食べてみたが、線香の臭いが沁み、硬くなって食べられるものではなかった。毎朝、こんなご飯を食べて祖母は幸せになれたのだろうか。いや、きっと、それが嫁の日課だと疑うことが無かったのだろう。

 デイゴの花はかなり散ってしまった。落花を片付けるのは私の日課である。雨の止むのを待って掃除をする。

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神代の時代から続いてきた異性への恋慕

2020年06月11日 17時25分44秒 | Weblog

 朝から空は灰色に覆われ、時々風が強く吹いて辺りが暗くなると、大粒の雨が降り込んでくる。ルーフバルコニーの手すりに止まり、けたたましく鳴くヒヨドリは今日は姿を見せない。こんな雨の日はどこでどうしているのだろう。ヤモリは無事に暮らしているのだろうか。

 昔の人は、天変地異を神様の怒りと考えた。旧約聖書には、神への敬意をおろそかにする人々を懲らしめるため、大洪水を起こされ、信心のあったノアの家族だけを助けられた。ギリシア神話の中でも、豊穣の女神デメテルは冥界の王の妃となった娘を悲しみ、娘が冥界にいる間は悲嘆に暮れる日々となり、作物が育たない季節が出来た。

 旧約聖書でもギリシア神話でも日本の神話でも、神々は実におおらかに暮らしている。旧約聖書の中には、子どもをつくるために自分の父親に酒を飲まして交わる話があるし、日本で最初に子どもを創ったのは兄と妹だった。ギリシア神話ではゼウスが有名だが、ゼウスの正妻ヘラは姉に当たる。神話には姉妹はもちろん母や人妻との情交もある。

 ゼウスは数えられない程のたくさんの女神と情交したばかりか、人間の女性とも交わり、半神半人の子をもうけている。こうした神話が世界中にあるのは、人間はもともとたくさんの異性を好きになる性質かもしれない。そのため諍いが絶えなかったので、キリスト教は一夫一婦制を導入したのではないだろうか。

 神代の時代から続いてきた異性への恋慕を断つことは出来ないことのようで、今もテレビのワイドショーのネタにされているが、懲罰という意味よりも関心の共有みたいな気がする。さて、梅雨入りしたばかりだが、大雨で土砂崩れや洪水などにならなければよいがと祈るばかりだ。

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