友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

恥ずかしい話

2014年01月21日 18時17分16秒 | Weblog

 恥ずかしい話だけれど、私は高校生になるまで知らなかった。高校1年の春、新聞部に入ってすぐだったけれど、何かの話から「モットー」が話題になった。私は「もっとーって、どう書くんですか?目到ですか?」と先輩に聞いて大笑いされた。「モットーは日本語じゃーないぞ。英語だ。つづりはローマ字表記と同じ、mottoだ」と教えられた。モットーは信条とか目標という意味だから、目到かと思っていた自分が恥ずかしかった。

 「ドンマイ」という言葉も、野球やソフトボールの練習でミスした時に発する。中学に入って、野球部の連中が「ドンマイ、ドンマイ」と叫んでいるのを聞いて、はじめは何を言っているのだろう、何か部員同士の隠語なのかと思った。これはすぐ、"Don't mind"だとわかった。ドン臭いというか、思い込みが激しいというか、私は検証が足りない。しかも、「ドンマイ」は和製英語で、英語圏の人には通じないということを知ったのは社会人になってからだ。

 童謡『せいくらべ』の「昨日くらべりゃ 何(なん)のこと やっと羽織の のたけ」という箇所を歌った時、昨日と比べてどうしてのたけも背が伸びるのかと思った。その前の歌詞「は おととしの 五月五日の 背くらべ」の意味が全く分かっていなかったのだ。計ったのは昨日でも、比べたのは一昨年の傷だ。前後の意味も考えず、おかしいなと思っても検証せず、これでは何も学ぶことができない。

 学ぶというのは、おかしいなと思うことを検証することで、それで自分の知恵を蓄積していく作業だ。ところが私は中学生の頃からまともに学ぶ態度に欠けていた。英語塾に通っていた級友は発音がきれいだった。私は恥ずかしくなって発音するのをやめた。先生に当てられないようにばかり願っていた。数学は、「答えが分かっているのになぜ解くのか」不思議で、やる気にならなかった。

 結局、学ぶことをしない口実ばかりを探していた。それが私の勉強だった。数学が論理学だと知った時は、「しまった。もっとしっかり学べばよかった」と悔やんだが、後の祭りである。そんなことを繰り返しているうちに、「人生はそんなもの、気がついただけでいいのだ」と開き直っている。

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