友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ピアノの発表会

2009年03月30日 16時54分08秒 | Weblog
 連弾でブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」を、個人ではシューベルトの「楽興の時」とショパンの「幻想即興曲」を弾いた。演奏は実に見事だった。以前から、水泳とピアノでは使う筋肉が違うのか、「肩が痛い」と嘆いていた。いや、本当は泣いていたかったのかもしれない。ピアノをやめたいのに、好きな「水泳をやめるならやめてもいいわよ」と母親から言われ、やめたくてもやめられない。

 私は水泳もピアノも、それを生涯の生活の土台にするわけではないのだから、ほどほどでいいのではと思っている。それに水泳は、中学2年生で150センチに満たない小さな身体では無理であるし、むしろ無理であるにもかかわらず、1日に5キロも泳ぎ続ける練習を毎日続けているのだから、身体はもう限界を超えていると思う。肩の痛みはその危険信号だと思うのだけれど、“やればできる”の体育会系人間には頭から拒否されてしまう。

 昨日のピアノ発表会では、ジジ馬鹿であるが孫娘の出来が一番よかった。一部にトチッたところがあったとしても全体のデキは最高だった。「それで、ママは何と言ってくれた?」と聞くと、「階段からずっこけるかと思ったんだって」と言う。ショパンの「幻想即興曲」はものすごくテンポが速い。指がとろけてしまうのではないかというくらいに動きっぱなしだ。それを最後まで弾き終えたのだからたいしたものだ。カミさんが「何でそんなことを言うのかね」と不思議がる。孫娘は「あの人は練習しているところを聞いたことも見たことないから」と言い放つ。

 確かに孫娘は1日に2時間は必ずピアノに向かっていた。水泳で5キロ泳ぎ、ピアノに2時間、学習塾は週2日だけだが2時間半、彼女に自由な時間がどれだけあるというのだろう。私ならとっくに音をあげているのに、実に彼女は根性がある。泣き言を言わない。やればできるし、やらなければ落ちる。そう信じて実行している。だからこそ、結果に対しては「よく頑張った」とほめて欲しかった。けれども、親はもっと上を望むものなのだろうか。

 身勝手と言えば、その後が大変だった。孫娘は午後6時半から学習塾で試験があるので、早く食事をさせなくてはならない。ピアノの発表会の後だから散らし寿司にしようと買い物をして家に帰った。長女から5回電話が入っていた。メールも1回届いていた。孫娘を迎えに来て欲しいというものだ。孫娘は長女が車で連れて行ったから、当然車で二人は帰って来ると思っていた。また、家族みんなで会場へ出かけていったのでケイタイは不要と家においてきた。ところが長女の思いは全く違っていた。

 長女は自分の知り合いが来てくれたので、その人を駅まで送っていくから、孫娘は私たちが連れて帰って欲しいと思っていたのだ。思っていたのなら、そのように伝えてくれればよかったのに、知らないから当然自分たちの計画で動くことになる。そういえば、長女はよくそうしたことがある。「今、ヒマ?」とだけ聞いてくるから「ヒマじゃないけど」と答える。本当はそうではなく、ちょっと迎えに来て欲しいとか、これを手伝って欲しいとか、やってほしいことがあるのだ。それをはっきり言わずに、こちらの都合だけを聞くから、心の行き違いが生まれてしまう。

 会話がヘタなのかも知れない。余りに相手のことを読みすぎて、結局うまく伝えられないのかもしれない。けれどもそういう時は、自分の思いとは違う結果なのでご機嫌が悪い。わがままな性格はどうも父親譲りのようだ。
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