友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

個性を尊重する教育

2012年09月09日 19時51分49秒 | Weblog

 久し振りの井戸掘りだった。結論から言えば、水脈に当たり、1日で成功した。後は電動ポンプを据付ければ完了である。濃尾平野だから水は出るだろうとは思っていたが、井戸は掘ってみなくては分からない。初めは埋め立てた土に小石が多くて難儀をした。80センチくらい上の土をスコップで掘り除き、鉄柱で3つ股を立て、掘った穴に塩ビ管を立てて水を送り込んで掘っていく。この濃尾平野は砂層が広がっていて、これが邪魔をしてなかなか進まなかった。

 途中で雨が降ってきたりして、ロスもあったけれど、吸管を入れて汲み上げると、思った以上に水量は多くホッとした。このところ、1日でここまで作業が進むことはなかったから、久し振りにスカッと出来た。帰りに喫茶店に立ち寄り、次の仕事の打ち合わせをして、雑談に入った。我が家に戻り、洗面所で鏡を見ると顔が真っ赤だ。曇り空でしかも時々雨に降られ、太陽に照らされたのはわずかな時間しかなかったけれど、それでも日焼けをしている。

 夕方、新聞を読みながらブログのネタを探していたら、猛烈な睡魔がやって来た。この夏はよく昼寝をしたのに、今日は寝ていない。それに朝早かったから余計に眠くなったのだ。ゴロリと横になるとあっという間に眠ってしまった。昔は「このまま目が覚めなかったどうしよう」などと思ったけれど、歳を重ねて来て、「明日が来なければありがたい」「いや、それではやりっぱなしになっていて、恥ずかしいからせめて片付けてからに」などと、欲張りになっている。

 「まだ遣り残した仕事がある」のは、民主党の野田首相も自民党の谷垣総裁も同じ思いだ。政治談議が好きな年寄りにかかっては、混迷する政局は格好の話題である。大阪市長の橋下さんは「決断できる政治家と評価する」けれど、その傘下で国会議員になろうと集まっている人たちには手厳しく、「次の選挙では当選できないから、維新の会に鞍替えする無能な連中ばかり」と断言する。結論は「官僚と互角で戦える政治家がいなくなった」と結ぶ。

 なぜそうなったのか。それは、「この30年間の日本の教育が悪い」からだそうだ。何がそんなに悪かったのかと言うと、「個性を大事にせよと言って、人間をダメにしてしまった」と。日教組の教育が悪いといつも言うけれど、個性の尊重は文部省が進めてきたことではないか。個々の人間性を大事にする教育は、民主主義社会の構成員として必要なことから生まれた。国民が全員等しく教育を受けるようになったのは産業革命からだ。工場労働者を育てるためと言ってもいい。こうして各国は躍起になって子どもを教育し、急成長を成し遂げてきた。

 登校拒否や社会になじめない「うつ病」など、江戸時代には絶対になかっただろう。人はそれぞれ自分に与えらた場で生きていればよかったのだから。けれども決まった身分に縛られたままで本当によいのかという疑問も生まれた。今、自由と平等が法的に保障され、しかし、江戸時代よりも多くの苦難を抱え込んでいる。これが人間の歴史なのだろう。どう解決していくか、解決できなくても1歩踏み出す、その道を人は見出していくだろう。ゆっくりでいいじゃーないかと思う。

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