友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

芥川賞作品『共喰い』

2012年02月23日 21時24分47秒 | Weblog

 なじみの書店に立ち寄ってみたけれど、店主は不在だった。女店員に今年の芥川賞作品の話をしていて、「単行本が出たら買おうと思う」と話すと、「皆さん、文芸春秋を買って行かれますよ。値段も安いし、選考委員の言葉も載っていますし」と言う。単行本を買えば作者に印税が入るからと思っていたけれど、文芸春秋を買う人が多ければ出版会社の依頼が増えることは間違いない。「そうか、その方が作者にとってはよいのかも知れないね」。それで、雑誌の文芸春秋3月号を買うことにした。

 

 すると、女店員の隣の、これまでに見たことのないもうひとりの女店員が、私が買ったもう1冊の単行本を指して、「カバーはどう致しますか?」と聞く。「ええ、お願いします」と答える。まだ働き始めて間がないのか、とてもぎこちなかった。50歳前後のキレイな女性だが、カバーを折る指は真っ赤でいかにも水仕事で傷めている様だった。彼女も指先を見つめる私の視線を気にしたせいか、慣れないためか、モタモタして時間がかかり、折り目がピッタリしない、だらしないカバーになった。

 

 色白で、私の好きなタイプの女性だったのに、なぜか惹かれなかった。指がアカギレで痛々しいこともあるが、心にときめくものを感じなかった。全体から受ける印象は痛々しく貧相だった。貧相で痛々しいのも、一種のエロっぽさだけれど、彼女は何か足りなかった。女性は70歳や80歳になっても、どこか色っぽいところのある人がいるが、彼女は自分の魅力を自ら放棄してしまっている。周りの男が彼女の魅力に蓋をしてしまったのだろうか。

 

 そんなことを思い返しながら、文芸春秋3月号の芥川賞作品を読んだ。円城さんの『道化師の蝶』は最初の1ページを読んで、ダメだ、分からないと手を上げた。受賞の知らせを受けた時や、授賞式の時の奇怪さで話題の人になっていた田中さんの『共喰い』は、小説らしい作品で読みやすかった。作家の高橋源一郎さんが原発をどんな風に書いているのかと思い、『恋する原発』を買って来たけれど、アダルトビデオの監督がしゃべっているのだけれど、何だかよく分からない。脈絡が読めないのだ。そうした実験的な小説と比べると『共喰い』は分かりやすい。

 

 川が海に注ぎこむ小さな町に住む、ちょっと変わった家庭の高校生が主人公である。母は右手が義手で、魚屋を営んでいる。父はどんな仕事をしている人は分からない。父は右手のない母を差別することなく嫁に迎えたが、まぐあいの時に相手を殴ったり締めたりする性癖の持ち主で、そのため母は家を出た。父は後妻を家に入れたけれど、他にも女がいた。そして悲しいことに性癖は度し難いものだった。主人公もまた欲望を抑えきれず、嫌がるガールフレンドとの最中に首を絞めてしまい、父と同じ血が流れていることを知る。

 

 結末は母が父を殺してしまう。そこが私には合点がいかない。なぜ母は父を殺したのか、確かにそれで父による被害者は出ないだろうけれど、じゃあ、息子は加害者になることはないのだろうか。血は争えないというけれど、時代や環境や教育で変わっていくものだ。作者は何を描きたかったのだろう。宿命は変えられないけれど、運命は変えられると誰かが言っていた。父と母と、その子どもはどのように親を乗り越えることが出来るのか。

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