友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「幸い」と「辛い」

2014年01月23日 17時25分33秒 | Weblog

 中日新聞のコラム『中日春秋』に、詩人の吉野弘さんの詩があった。「幸い」と「辛い」の漢字は横棒があるか否かで、意味が全く違うことに注目した詩だった。「幸いの中に人知れぬ辛さ そして時に 辛さを忘れてもいる幸い 何が満たされて幸いになり 何が足りなくて辛いのか」。幸せも辛さも横棒1本のこと、ただの紙一重ではないか、そう言っているようだ。

 幸いも辛いも象形文字で、幸いは手枷の形がもとになっている。辛いは罪人に刑罰を加えるための鋭い刃物の形がもとになっている。旺文社の『漢字典』を調べるとそう書いてあった。全く意味が違うと思っていたが、幸いも辛いも刑罰にかかわって生まれた漢字なのだ。幸いは、手枷の刑から逃れられてよかったという意味となり、辛いは罰せられる苦しみからつらい、からいとなったとある。

 いつだったか、子育ての話の時、友だちが「生きるって辛いことね」と言った。彼女は子どもが生まれ一生懸命で育てた。キャリアウーマンだったから、夜寝る時は、母親らしく絵本を読み聞かせた。勉強についても口喧しく急き立てた。その娘さんは今、母となり、母親を反面教師にして子育てをしているという。孫娘は自分から絵本を読み、進んで勉強したいと塾へも通っているそうだ。

 とても活発でいい娘さんに育ったのだから、決して彼女の子育てが間違ったわけではない。子どもは親の思い通りにいかなかっただけだ。娘さんも結婚し子どもを持って、母親が何を子どもに求めたのかを理解できたのだろう。親は子どもにあれもこれもと多く期待する。でも結局、健康で思いやりがあれば他はどうでもいいのだ。それが分かるのは子どもたちが成人し、子育てが終った時である。

 子どもは親の期待や心配をウルサク思う。けれど、大人同士になった今は、親の期待や心配がよく分かる。親はいつまでも親を務めたいし、子どもは親の限界を認めながらも、「甘え」を拒否する子どもに戻ってしまう。私は高校生で両親を亡くしたから、もう少し親に「甘え」たいと思う時がある。

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