友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

お互いを知ることが信頼につながる

2012年08月18日 19時06分23秒 | Weblog

    親しくしていたチェロ奏者が亡くなって、そのメモリアルコンサートが行なわれた。34人によるチェロの合奏は荘厳で美しかった。生前の彼が企画したチェロ教室の修了者や彼の仲間が集まっての演奏である。彼の好きなものを紹介した彼の妻は、「イタリア、ワイン、カプチーノ」と読み上げて喉を詰まらせた。粋な男で、美食家だった。何年か前、マンゴーを届けると、「マンゴーの食べ方を知っていますか?」と言って、その場でサイコロ状に切って見せてくれた。この夏はルーフバルコニーに招待して、一緒にビールを飲むつもりだったのに残念だ。

 コンサート会場で知り合いの女性に会った。彼女は市の国際交流の推進役を務めている。一緒に帰ってきたが、その道すがらの話は面白かった。彼女も私も同じ昭和19年生まれで、戦争の記憶はないし、戦後のひもじさも知らない。けれど、彼女の夫は11歳年上なので、私たちとは違う体験をしている。「お昼ご飯を食べたばっかりなのに、晩ご飯は何かと聞くの。私はお腹いっぱいでそんな夜のことまで考えられない。でも彼は心配なのね。やはり食べられなかった記憶が今でも働くのね」。

 また、ひとり息子を連れてアメリカに行った時のレストランで食事も面白かった。アメリカ人は日本人の2倍くらい食べるので、レストランで出る料理も多い。夫が「美味しかった。お腹いっぱいになった」と言って食事を終えた時、9歳の息子は半分も食べられず、「もう残していい?」と母親に尋ねた。するとダンナは、「それなら私がいただく」と言って食べ始めた。息子は「お腹いっぱいって言ったのに、どうして食べられるの?」と不思議に思って父親に聞いた。私たちの世代では、「出されたものは全部食べなさい」としつけられたが、彼女の夫は食べ残すのはもったいないと思ったのだ。

 そんな話から、時代が違うと食べ物についての考え方も変わるという話になった。今なら、食べ過ぎは身体によくないとなるけれど、食べられなかった体験のある人は、食べなくてどうするということになる。私はイタリアに行った時、イタリア人と日本人では生きる意味が全く違うと感じた。イタリア人は「人生は楽しむためにある」と言い、楽しむために働くのであるから、暮らしていければそれでいいようだ。実際、お昼時間は長いし、夜はもっと楽しんでいる。ワインを飲み、デザートを食べ、歌い、歌は日常生活の中に常にある。

 日本人は生真面目過ぎるし、そればかりか気を使い過ぎる。日韓の交流を進めている我が市であるけれど、竹島問題が起きて、余り先走りすぎない方がよいではないかと思っている人がいる。こういう時だからこそ、日韓交流を進めていくべきだと私は思うけれど、慎重にしていた方が得策と言うのだ。お互いを知ることこそが信頼につながるのに残念だ。

 彼女は、「外国のことも、戦争のことも、私たちは知らないことが多い。戦争のことは、その立場や流れた時間や、いろんなことから言うことも変わって来る。だから本当にことが知りたいと思って、読んでみたい本がある。読めるかどうか分からないけどね」と言う。若い人たち、私たちの孫や曾孫が、これからの日本の主役だ。いや、世界につながっていく世代だ。彼らに期待する前に、私たちの責任を果たさなくてはならない。どうやって!?

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おかしなことは暑さのせい? | トップ | 奔放な恋に憧れた人々 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事