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無党派市民派の首長・議員を

2007年04月07日 21時04分48秒 | Weblog
 いよいよ明日は県議会議員選挙の投票日である。
 私は1995年(平成7年)に首長選挙に立候補して以来4回の選挙を戦ってきたが、ずっと無党派・市民派として政党とは線を引いてきた。それは今日の事務所経費の問題一つを見てもわかるように、既成政党の腐敗と堕落は極めていると思うからだ。

 この地区でも今回、無党派で県議選挙に立候補している人がいる。私としてはぜひ、この人に当選していただき、政治のあり方を地方から変えていってもらいたいと思う。彼とはこれまでもいろいろ議論したことがあるが、政治のスタンスは全く違い、一致する部分は少なかった。たとえば彼は自治体は20万人くらいがベストだと言い、私はもっと小さい方がいいと言う。いろんな分野で話し合えばさらに意見の違いが出てくると思う。それでも応援しようと思ったのは、真面目に議論できる人だからである。

 議員になると、国会議員を初め各地方議員まで、議員の仕事は行政への口利きだと思ってしまう。実際、いろんな人がいろんなことを頼みに来る。国会議員の秘書をしていた時もそれは仕事だと割り切ってやっていたが、片隅で疑問が残った。役所も議員が圧力をかけてくるのは当然と思っている。どこで譲歩し、どこで借りまたは貸しをつくるかである。特定の地域や特定の団体や挙句には特定の業者の利益を代弁し、行政へ働きかけることが「できる議員」だと思い込んでいる。こういう議員が何期も続けていくと、政治を食い物にする利権屋となる。

 市民は自分たちのために税金は使われると信じているから、税金を納める。ところが利権政治が暗躍するところでは、特定の業者や地域や政治家のために、正当な理由をつけて税金が使われる。高い金額の設定や使途のわからない補助金や業者からのリベートとなって税金は霧散していく。こんな政治は政治ではない。こんな政治を食い物にする連中は政治の舞台から追放しなくてはならない。

 「愛知は豊かで安定している。それなのになぜ変えようとするのか」と主張する候補者たちがいる。政治は何のためなのか、社会から落ちそうな人がいるのに切り捨ててよいのか、どういう社会、どのような地域づくりを進めるのか、豊かな社会ならばその豊かさが公平に分配されなくてはならないし、安定だけを求めたなら下積みの人に日は当たらない。分かち合える社会にするためには絶えず検証する必要がある。

 明日の投票で、東京都知事をはじめとする政治の流れが決まる。どうなるのか楽しみであるが、また絶望的な事態にならないかと心配でもある。
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