友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

何かに似ている

2015年10月03日 18時30分04秒 | Weblog

 運動会・体育祭の季節。大阪府八尾市の中学校の体育祭で人間ピラミッドが崩れ、6人の負傷者が出た。テレビでその瞬間が映されていたが、一番上の子が立ち上がっていたなら、彼は死んでいたかも知れないと思った。10段のピラミッドで、立ち上がったなら地上8メートルはあるのではないだろうか。この時は、立ち上がる前に真ん中あたりから崩れだしたから、この子はそこに吸収される形になって助かったが、その中心にいた子たちはかなりの重圧だっただろう。

 『教育という病』を書いた名大の内山良先生は、一人にかかる重さは2百キロと計算していた。過去のピラミッドの崩壊で負傷した生徒の中には元にはもどらない大怪我の子もいた。確かに8メートルの高さから飛び降りたら大事故になる。崩壊という形だから中心の子に集中的に圧力がかかり、骨折する子が出た。こんなに危険な人間ピラミッドなのに、各学校が競争するように大型化し、「10段やった」「11段までやった」と広がっているという。

 テレビでは「リスクのないスポーツはない」と司会者が豪語していた。指導した先生たちも同じ気持ちだろう。子どもたちも卒業してしまうと、「膝に砂がめり込んで辛かったけれど、いい思い出」と語る。「団結の成果を実感できた」と言う子もいた。人間ピラミッドは見に来る保護者や地域の大人に感動を与える運動会・体育祭の花でもある。だから、やめられない。見に来る人は「もっと大きく」と期待し、やっている子どもたちも「大きなピラミッドを」と望む。

 これだけ求められ期待されると、「危険度が大き過ぎる」と言いにくくなる。現場の先生がそれを口にすれば、「逃げている」と非難される。日本の祭りの中にも、ものすごく危険度の高いものがある。危険度が高いほど、見物客は喜び興奮する。「やれ!やれ!」と声が飛ぶ。担ぎ手の側から「危険だからやめよう」と声が上がることはまずない。たまりかねて指導者が注意するくらいだ。

 何かに似ている。危険な目に合うのはピラミッドを組み立てる人であり、祭りの担ぎ手である。観衆や指導者や発案者は安全な場所にいる。そしてみんな興奮している。何かに似ていると思うのだが‥‥何か分からない。

コメント
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