全国学力テストのことを昨日は書いた。
書いているうちに、いつの間にか学力テストから外れてしまった。外れてしまったばかりか、人が発言してきたことについて始末をしないことに非難しているような書き方になってしまった。確かに私には固執クセがある。でも、そういう自分は完全なのかと問われれば、とても胸を張ることはできない。だから私に非難する権利など無いし、批判する力も無いと充分にわかっている。
16歳の頃だったか、正確な表題は忘れてしまったが、『この人を見よ』(?)というような題の本を図書室で見つけた。内容は太平洋戦争を進めた人々が、その後どのようにしているかといったものだった。戦争で亡くなった人々がいる。大黒柱を失い惨めな生活を強いられた人々がいる。その反面で、戦争を進めた人たちの中には再び国家の中枢へ戻った人たちもいる。戻ったことが悪いのではなく、この人たちが何一つ自分を語らないことが、私には理解できなかったし許せなかった。
戦争直後はジッとしていた人が、世の中から非難されないとわかると大手を振って、過去のことに何をこだわるのかと開き直る。世間も過ぎたことは忘れようとする。いつもいつも、こんなことで本当にいいのか、というのが私の思いだ。
またまた、学力テストの問題から外れてしまった。学力テストをやっても、どのよう生きることが人間の道なのかはわからない。どうして皆さんがそんなに学力にこだわるのか、私には理解できない。学力が並ではなぜダメなのか、学力を高めることになぜそんなにこだわるのか、なぜ世界で1番にならないといけないのか、どうしてもわからない。1番がいるなら30番もいるし、いちばん最後だってあるはずだ。どこだっていいじゃないかと考えるのはおかしいのだろうか。学力テストを行い、弱点を克服するのだという。
極端な言い方だが、分数の割り算ができない大学生がいるそうで、それは驚きだが、分数の割り算ができないことがそんなになぜ問題なのか。大学生ができないことが問題なのか、それとも分数の割り算ができないことが問題なのか、どちらなのだろう。分数の割り算ができなくても生きていけるし、そのことでこれからの人生に希望が持てないわけではない。
人はなぜ勉強するのか、そして勉強で何を身に付けようとするのか。確かに宇宙論的な数学を探求している人もいるし、その人の功績を受け継ぐ人もいるだろう。天才はいるが凡人もいるし愚直な人もいる。それでいいのではないか。何もすべての人が天才になる必要はないし、天才になる教育を受ける必要は無い。人は皆それぞれ違う。違っていていいのだとまず教育すべきだと私は思っている。足の早い人もいれば、遅い人もいる。歌のうまい人もいればへたな人もいる。それは皆、個性なのだからそれでよいのだよと、まず教えることが大事だと私は思っている。
だから私は、学力テストなど全く必要性を感じない。私が一番嫌いなのはみんなが同じでなくてはならないという考え方だ。統一した規律が一番イヤだ。個々人が自由に動きながらも個々人自らが一致していく過程こそが私が望むところで、強制して統一すべきではないというのが私の一番の希望だ。
書いているうちに、いつの間にか学力テストから外れてしまった。外れてしまったばかりか、人が発言してきたことについて始末をしないことに非難しているような書き方になってしまった。確かに私には固執クセがある。でも、そういう自分は完全なのかと問われれば、とても胸を張ることはできない。だから私に非難する権利など無いし、批判する力も無いと充分にわかっている。
16歳の頃だったか、正確な表題は忘れてしまったが、『この人を見よ』(?)というような題の本を図書室で見つけた。内容は太平洋戦争を進めた人々が、その後どのようにしているかといったものだった。戦争で亡くなった人々がいる。大黒柱を失い惨めな生活を強いられた人々がいる。その反面で、戦争を進めた人たちの中には再び国家の中枢へ戻った人たちもいる。戻ったことが悪いのではなく、この人たちが何一つ自分を語らないことが、私には理解できなかったし許せなかった。
戦争直後はジッとしていた人が、世の中から非難されないとわかると大手を振って、過去のことに何をこだわるのかと開き直る。世間も過ぎたことは忘れようとする。いつもいつも、こんなことで本当にいいのか、というのが私の思いだ。
またまた、学力テストの問題から外れてしまった。学力テストをやっても、どのよう生きることが人間の道なのかはわからない。どうして皆さんがそんなに学力にこだわるのか、私には理解できない。学力が並ではなぜダメなのか、学力を高めることになぜそんなにこだわるのか、なぜ世界で1番にならないといけないのか、どうしてもわからない。1番がいるなら30番もいるし、いちばん最後だってあるはずだ。どこだっていいじゃないかと考えるのはおかしいのだろうか。学力テストを行い、弱点を克服するのだという。
極端な言い方だが、分数の割り算ができない大学生がいるそうで、それは驚きだが、分数の割り算ができないことがそんなになぜ問題なのか。大学生ができないことが問題なのか、それとも分数の割り算ができないことが問題なのか、どちらなのだろう。分数の割り算ができなくても生きていけるし、そのことでこれからの人生に希望が持てないわけではない。
人はなぜ勉強するのか、そして勉強で何を身に付けようとするのか。確かに宇宙論的な数学を探求している人もいるし、その人の功績を受け継ぐ人もいるだろう。天才はいるが凡人もいるし愚直な人もいる。それでいいのではないか。何もすべての人が天才になる必要はないし、天才になる教育を受ける必要は無い。人は皆それぞれ違う。違っていていいのだとまず教育すべきだと私は思っている。足の早い人もいれば、遅い人もいる。歌のうまい人もいればへたな人もいる。それは皆、個性なのだからそれでよいのだよと、まず教えることが大事だと私は思っている。
だから私は、学力テストなど全く必要性を感じない。私が一番嫌いなのはみんなが同じでなくてはならないという考え方だ。統一した規律が一番イヤだ。個々人が自由に動きながらも個々人自らが一致していく過程こそが私が望むところで、強制して統一すべきではないというのが私の一番の希望だ。