友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

理想に向かって

2007年04月21日 18時04分20秒 | Weblog
 私がキリスト教に関心を持ったのは小学校の5年か6年の時だ。
 日曜日の夜、ラジオ放送で『ルーテルアワー』という番組あり、よく聞いていた。福沢諭吉の『学問のススメ』の冒頭にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まった。差別がないことになぜか心惹かれた。

 それからストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を読んで、聖書を読んでみたいと思った。実際に聖書を読んだのは中学生になってからだ。学校へ行く途中に教会があり、水曜日に聖書研究会が開かれていたので参加した。やがて友だちを集めて中学生だけの聖書研究絵会ができるようになり、そのまま高校生聖書研究会へと膨らんでいった。

 キリストの言葉は、私にはとても衝撃的だった。キリストは「もし、誰かがあなたの右の頬を殴るなら、左の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(略)求める者には与えなさい。(略)敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(略)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛するだけなら、税金取りでも同じことをしているではないか」と言う。

 人間は皆、自分のためにしか生きていないと思っていた私にはとても新鮮な響きだった。これらの言葉は、旧約聖書のレビ記にある言葉を覆すものだ。当時のユダヤの人々はローマの支配下にあり、独立のための救世主を待ち望んでいた。各地で反乱も起きていたようだ。だからモーゼが示した神との約束を守り続けることで、いつか神が自分たちを救ってくれると考えていたのだろう。こうした人々に対し、キリストは説いているのだ。私は東洋にはない、何という積極性かと思った。

 孔子は「自分がいやなことを人にしてはいけない」と説いた。それは最低のルールだと思っていたが、やはり消極的だ。孔子の『論語』は読んでみるとなかなかおもしろい人生訓だ。東洋人である私にはすっーと入ってくる。孔子の時代も戦乱が続いていた。大きくは望まず、静かに生きていくことの中に幸せを見出しているようにも見える。人の上に立つ人はこうでなければならないと説いているが、人の上に立てる人は限られていると悟ってもいる。

 キリストは全ての人々が平等な「神の国」を創ろうと説く。それがどういう形のものなのかは定かではない。キリスト教国が一度として、人々が平等な国とはならなかったことを考えれば、理想国家の建設は人間にはできないことなのかもしれない。けれども、理想に向かっていくことはできるだろう。フランスの大統領選挙は人々がこれから何をしていかなくてはならないかを示してくれるものになるかもしれないし、まだまだ千年も2千年も先のことになるかもしれない。それでもキリストが言うように「求めよ!」なのだろう。

 地方議会議員選挙に立候補している無党派市民派の皆さんの健闘を祈る。
コメント
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