蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

旅の視点

2010-02-18 | 趣味
最近、愛読しているブログは、イギリス在住のアクティブな方の、あちこちお出かけ日記。
旅日記にも本当に、いろいろある。
どういうところに、どういう風に行ったか、というのは、旅の参考になるが、
ガイドブックに載っているようなことばかりでは、ガイドブックを読む方が効率がいい。
やはり、旅人の、個人的目線が面白い。

別の方で、世界中に素晴らしい旅行をされている旅ブログを読んだ。
それはそれは、あちこちに行かれている。
西洋美術、歴史がお好きということで、特にヨーロッパが多い。
確かに、時間、労力、準備など、膨大なエネルギーとお金が費やされていることだろう。
ただ、読んでいて、素晴らしい感動、その人独自の感性を感じることはなかった。
これなら、ガイドブックのほうがいいかな、と。
しかしながら、ガイドブックは、有料だが、ブログは無料で閲覧できるところがいい。

切り口、テーマが必要だ。
単に旅をつらつら紹介するだけなら、ガイドブックで十分。
世界中のあちこちに行かれている場所を、そのブログ内で詳しく追って行っても、
これという目を引くオリジナル写真や、記述はされていない。
さらさらと心に残らない、オーソドックスな、ごくあっさりした説明と写真。
ホテルや旅行社の、PRがぺたっと貼ってあるだけ。
これって、ヤラセか?と思うぐらい。
ご本人にとってみると、単なる記録、備忘録のために作っておられるのだろう。
おそらく時間が経っているものもあるのだろう。
なので、しっかり見ごたえのある鮮明な写真や、イキイキとしたリアルな描写などはないので、
読む側には、臨場感や、感動は全く伝わってこない。
(文章もさることながら、一瞬で伝わるや写真の効果は絶大だ)
充実した旅を楽しまれたと思うが、
行った都市の多さはわかるが、ブログにアップされると、表現としては途端につまらなくなる。
文章のティストから察すると、そこそこご高齢になられているようなので、
年齢的にも体力的にも、過ぎた旅の記録をあれこれ加工する作業は面倒くさいのだろう。
残された時間も限られているので、
室内でのそんなチマチマした後作業より、旅の実践を最優先されるのだろう。

それはそれとして、自分に必要な情報だけをピックアップすればいい。
自分はこういうスタンスの旅を求めているのではない、ということに気付くには、有意義だ。
何事も、なにか、たたき台のようなものがないと、自分の考えをまとめたり、検討できないから。


人気ブログを読むと、読む人を楽しませる要素が盛りだくさん。
そういうブログを楽しむ一方で、
書きたいことや、言いたいことだけを連ねる自分のブログは、
サービス精神ゼロ、と、再認識した。
書くだけ書いたあとで、ナンなんですが。

適度な、ピリリ

2010-02-16 | 時事&世の中
2/14に放映された「エチカの鏡」では、
専門家である医師の松川先生が、認知症を防ぐ7つの生活習慣の紹介をしていた。

ボケないための7つの心がけ
1、ウォーキング(散歩)をする
2、新聞を声を出して読む
3、料理をする
4、社会とつながりを持つ
5、バス・電車を使って外出する
6、日記をつける
7、恋をする

「このようなライフスタイルを続けていた○○さんは、80歳の今も、ボケていません」とのこと。
しかし、80歳からが心配なのでは?
機械などもそうだが、保証期間が過ぎたころに、故障する。
「90歳を過ぎた今も、ボケていません」に、変更してもらわないと、いまいち、説得力に欠ける。

仕事をしている現役の人は、今の生活のまま、当然のことばかり。
新聞は普通、黙読するだろうけれど、ここでは、舌や喉の運動のためらしい。
ただし、男性は、「料理」については、いかがかな?
仕事をリタイアしたら、ボケそうな予備軍があちこちにいそうだ。
「恋」。これは、程度の差こそあれ、軽いものなら、なんの努力もしなくても
素敵な人をテレビ越しに眺めるのでもいいわけ??
映画とかも?
いや、それはだめだろう。
せめて、生き物として実感できるぐらい、1メートルぐらいの至近距離ぐらいには近づきたい。
好きな役者や歌手の公演なら、20~30メートルぐらいでも、まあ我慢しようか。
相手は、大勢のファンを持つ、恋の公人のようなものだから。
でも、体が動かない人には、無理は言えないが、第一、体が動かなくなったら、
恋をしろ、なんて言われても、実践しにくい。
かなり崇高な精神メカニズムを持っていないと、至難の業だ。

カンタンにいうと、体と、脳を使いなさい、ということのようだ。
リタイアしても、遊びが大好きな人なら、ボケそうもない。
遊ぶために、色々工夫したり、時間やお金を工面したり、知恵を絞り出すから。

遊び好きでなく、働き者でボケてない人も身近にいるが、でも、ボケている人も知っている。
反対に、遊び好きだけれど、ボケている人も知っている。
ということは、「遊び」はキーワードにならないのか。
実在のボケている知人の共通点を探すと、運動不足と、生活の心配がないこと。
お気楽な、好き勝手し放題はだめのようだ。
キーワード追加は、「ピリリとする、人とのかかわり」。
少々、耳に痛いことをズバズバ言う、うるさい人との接触も、(嫌であっても)大事。
ただし、あくまでも、適度に。過度になるとストレスの原因になる。
やはり、専門家がおっしゃるように、体も神経も、適度に緊張させることが必要なようだ。

さて、私。親を見て、自分の30年後を想像する。
健康さえ害さなければ、今のところは、大丈夫のようだ。
(実のところ、健康維持も、大変らしい・・・。健康な体に生まれて、親に感謝)
が、思わぬことで、どうなることやら。
今、ピンピンしている世界中の誰しもが、自分の最後は見えない。




今さらですが

2010-02-15 | 人々の風景
電車内、携帯電話で延々と続くおしゃべり。
アジア系の若いオンナの人。アジア語ペラペラ。
ひそひそ、なので、どこの国の言葉か、はっきり限定できなかったけれど。
つまり電話相手も、同胞アジア人?
まわりの人は、耳障り、うんざり顔。彼女は、おかまいなしで、ニコニコ顔。
彼女の隣に座る女性は、露骨に彼女の顔を何度も見る。
二人隣の人も、三人隣の人も、そして、斜め前に立っている私も、迷惑目線。
不愉快光線、いらいらビームを浴びせるが、いっこうに効き目なし。
日本の常識は、彼女には通じない?

最近は、以前より多くの外国人を見かけるが、
行動を共にする人数が多くなったり、同胞の人同志で群れる時は、
自国のルールを適用する傾向があるようだ。
鎖国が長い日本は、他国の異質な人と、混ざり合う経験が少ないからか、
その島国根性は、閉鎖的で良くない面も多々あるが、
国際ルールの常識も、各国、微妙に差があるのだろうか。

でも、基本的なルールというものは、共通しているのでは?
個人的資質の問題なのかしらん?
いくら若いお嬢さんでも、皆さんは不快のようですよ。


今回のほやきの内容は、インパクトに欠けた。ヒネリなし。
本日は、雨で、ぱっとしない日。
私の感性も、頭も、どんより。
金曜日夜、ハナキンの、電車内でのぼやきを今頃、今さらアップしても、なんなんですが・・・。
ぱっとしない、ついでに、なんなんですが。

ブログ一人遊び

2010-02-14 | 趣味
その方は、とても頭のいい、年上の「後輩」だ。
いったい何の後輩かというと、ブログ。
私は、「先輩」と言われるほど、ブログ歴が長いわけではないし、
手作りでもなんでもない、既成品のフォームに、のっかっているだけだし。
特別のオリジナルでもなく、工夫も、特徴も、特化したことも何もない。
(それが、「先輩」であって、「先生」ではない所以)
別にたいした考えもなく、ただただ思い浮かんだことを文字に置き換えて、遊んでいるに過ぎない。
というか、置き換えるのではなく、いきなり頭の中で、文字がダイレクトに踊ることが多い。
指でそれを追いかける。

英語を聞いて、日本語に訳し、日本語で考え、それを英語に訳して、英語を話す、というのではなく、
英語を聞いて、英語で考え、英語で話す、という流れに近いものがある。
モノを見たり、感じることがあると、直接文字が出る。
むしろ、口に出して述べるほうが、不得意。
ただ、おそろしく、「死語」の羅列が続くそうで、
いまどき、そんな表現はしない、という例題にいくつも当てはまる。
オヤジ語が、実に流暢に流れ出る。
平成の時代に生きているなかで、いちばん、ダサい世代だろうと我ながら思う。
古典の域に達するには、まだ月日が必要だ。

それはそれとして・・・
そのお方(後輩)は、思慮深い、勉強家タイプ。
何事も、全体を把握し、すべておおよそ理解してから、行動に移られる。
それに比べ、私は、もともと、まずやってみよう、という、行き当たりばったり、
走ってから考える、恥を恥とも思わない、厚顔無恥、典型的勉強嫌い、劣等生に多いタイプだ。
最近はさすがに、あちこち頭を打って、走りながら考えることも、走る前にも少し考えたりすることもある。

その逆は、失敗はかっこ悪い、完璧を目指す、優等生タイプ。
私の夫や息子も、それに属する。
英会話とか、いわゆる、現場で失敗して覚えるような「習うより慣れろ」的なものが、大嫌い。
大胆なファッションなんて、とんでもない。
たった一人でも、くすっと笑う人がいるような、そんな個性的な服装は、絶対に避ける。
近年、息子は、ちょっとそういう路線から脱皮しようとしているのか、
今はまだ試行錯誤の段階のようなので、
他人から見ると、変人的色彩が色濃く、退かれているかも知れない。

またまた話は脱線。それは、こっちに置いて・・・
その方も、「ブログとは何か?」から入られたと予想する。
構造、機能、そういったベースからスタート。
私は、未だにそういうあたりは、いい加減。
どうでもいい、といえば、言いすぎかも知れないが、正直、どうでもいい。
どっちがいい、という答えはないところが、おアソビのいいところだ。
人それぞれ、好きなように、好きな分野で、好きなスタンスで、好きな感覚で、好きな更新頻度で。
自己表現は、なにも書くことだけではないのだし。
自由。
ためになることや、面白いもの、人に、偶然、出会うこともある。
楽しみや発想のヒントをつかむこともある。


ブログ後輩のTさん、私もあなたのブログ、しっかり盗んでます。確信犯です、ごめんなさい。
お互い、楽しく、ブログを活用出来たらいいですね。


アナタノ、セナカ

2010-02-13 | 人々の風景
お二人の女性は、アルコールを飲んでいる。
もう一人、「ガメラ」というニックネーム(悪意のかたまりのような、あだ名)の女性がいて、
合計三名の仲良し飲み友達。
ガメラは、別のお店にちょっと行って、退席。
このガメラさん、「女性らしい人」とは真逆のタイプで、そのキャラのえげつなさから、
いわゆる、ガメラという怪獣をイメージし、他のお客さんにそうネーミングされた。
私も、ガメラは大嫌いな人の一人。
品のカケラもない。

会社の愚痴をそれぞれ、こぼし合う。
二人だけだと、ガメラがいないので、比較的おとなしい。
年嵩(としかさ)のいったOLのようだ。
愚痴は、どんな愚痴であっても、美しいものなんてない。当たり前。
愚痴って、その日の膿、毒を吐いて、明日への労働の再生産へ備える。
場所は、職場帰りの馴染みの店。
でも、彼女たちの仕事の愚痴を聞いていると、
私には、全く魅力のない職場だと、感じずにはいられなかった。
彼女たち、なんだか、スレてる。(→死語??)
ああいう女性には、なりたくない・・・って思ってしまう。

話題は、職場から、子供のことに移って行った。
「うちの上の子、中学生なんやけど、全然勉強しなくて。
先日も中学校から呼び出しがあって、授業中にうろうろ歩くんで、
他の生徒に迷惑がかかるから、やめてほしい、って言われてん。
うちの子、めちゃめちゃ非常識やわ、考えられへんわ。そう思えへん?」
「もうすぐ受験やのに全然勉強しないで、遊んでばっかり。
ジャニーズ系のアイドルのことばっかりで、フラフラしてる。
なんで、あんなに勉強しないんか、全くわからんわ」

「うちも、そう。
上の子がそうやったわ。しょっちゅう、呼び出し。
下二人は、そうでもなかったけど」

家庭では夕食時、そんな時間にタバコをぷかぷか、アルコールをぐびぐび、女性たち。
家で待ってるお子さん達は、どうしてるのかな?
お母さんたち、そんなことやってて、いいのかな?
一秒でも早く家に帰って、子どもたちに食事の支度をしなくてもいいのか?
ご主人の話は、全く出てこなかったから、心の中では、居ないのと同じなのかな?
父親不在。権力、権限、威厳ゼロ。
かあちゃんも、飲まないとやってられないよ、ってこと?
なんか、あんまり素敵なお母様方ではなかった。
仕事がデキそう・・・とは、程遠かった。
仕事も大して重いことをさせられてないんだから、早く帰ればいいのに、と。

子供は、ほっておいても勉強するなんて、ありえない。
親の背中を見て育っている。
なぜ、そんな単純明快なことがわからないのだろう。
勉強させるには、幼い時からの環境を整える、
環境づくりが、子育てでは一番大事だと思う。(ただし、やりすぎは、だめ)

もちろん、ガミガミ「勉強しなさい」は、絶対にNG。
お話の中での、その悩みのフラフラ長女さんは、私の予想では、まず、今、思春期、プラス反抗期。
お母さんが下の子(おぼこい小学生)ばかりを可愛がっているようなかんじなので、
それもあって、おもしろくないのだろう。
ほんの数分、話を聞いただけでも予想できるが、本人にとっては、なにも気づかない。
そういうものなんだろう・・・・。

親の顔が見たい。
この親にして、この子あり。
人のことは言えない。
反省の渦で心が痛むが、そういう親子、家庭を垣間見る。

パリ、パリ、パリ

2010-02-12 | 脳内パリ

私のなかで、パリ熱が再燃した。
去年の夏に、パリのガイドブックを買ったが、そのまま、放置していた。
最近、なぜか、脳内パリが復活、活況を呈している。

とりあえず、ツールから。
昨日は延々と、インターネットで、各メーカーの「電子辞書」をあれこれ調べた。
買うっ!!! フランス語、少しでも取り組むっ!!!!
フランス語に特化した、音声付のものをチョイス。
さっそくネットバンキングでお金を振り込み、あとは、届くのを待つばかり。
もう、フランス語を勉強した気になっているから、こわい。

ここのところ、旅行会社のパンフレットや、
インターネットのパリ紹介(ホテル、アパート)を何気なく、ちらちら見ていた。
ほったらかしのガイドブックも、
実際は読まないのに、読もうという気持ちだけで、外出時に持ち歩いていた。
やはり、持ち歩くと、重いだけ。読まないから、本当に重いだけ。
なら、読めばいいじゃない??なのだが、なぜか持ち歩いて、パワー充電。
やっと充電の効果が出てきたようで、昨日あたりから読み始めた。

まず、これ。
電車の乗り方。
メトロって、ややこしそう。
大阪の地下鉄を、拡張して、文字、言語をまったくチンプンカンプンにしたようなもの。
3年半前、娘にパリのメトロで置き去りにされそうになって、真っ青になった恐怖体験が蘇ってきた。
(ロシアの、ものすごく深くて速い、そして荘厳な地下鉄も、すごいものがあったけれど)
このドア、閉まるのは自動だけれど、自分で開けないと、開かない。
そんなこと知らないで、ただただ、娘に着いて行っただけの無知な私だった。
さっと降りる娘。娘の後姿にぼんやり、一テンポ遅い私。
あれ? ドア閉まったまま?? 私、どうなるの??
慌てる私に、どなたかが親切に、ドアを開けてくださったんだっけ??
(頭、真っ白で、それも覚えていない)
あと数秒遅かったら、あのまま、地下鉄車内に残り、それが今生の別れとなっていたかも。

娘は、一度も行ったことがないパリの地下鉄に、なんの下調べもせずに、どんどん歩いていく。
通路が2つ、3つに分かれた時、どうして、こっちの通路を選ぶんだろう?
瞬時の選択、決断が、とても不思議だった。
なにしろ、着いていくだけ。言葉もわからない。
幼児の気分。幼児の力。乳児のアタマ。
私の腰に(見えない)ロープを巻いて、はぐれないように、娘と繋いでいた気分。

今度こそは・・・(本気で一人で、パリの地下鉄に乗ろうとしているのか???)
自分でも、ありえないのかも。。。と思いつつ、一生懸命、ガイドブックを読み込んでいる。





フホウの文字に、ぎくり

2010-02-11 | 
「訃報です」
義母からのメールが入っていると、ぞっとする。
この時期、寒暖の温度差が激しいからなのか、また訃報。

またまた参列せよと?
今度は、どこ? 遠くではありませんように・・・。
どうせ、よく知らない人なんだろうし。

不安のなか、そう念じていたら、
今回は、葬儀は義母の家の近く(ご近所の人と車に乗りあわせて行く距離)で行われるとか。
夫は昨夜、お通夜に列席、そして本日、体調が良ければ、告別式は義母が行くそうだ。
亡くなったのは、親戚でもなんでもない、地域、地元のお方。
私はその地域に住んでいないので、それこそ、無関係に近い。
その人の顔は、多分あの人か??ぐらいのおぼろげ記憶。
地域こぞって、参列。ぞろぞろぞろ。

行けと言われたら行きますが、私は、葬式が嫌い。
誰しも好きな人なんてないだろうけれど。
(万が一、運悪く、自治会長職をくじ引きで当たってしまって、やらされていたら、
任期中は、参席しないといけないのだろうけれど)

当然、自発的に参列する葬儀もある。
が、指令発動の場合は、任務。これ以外にはない。
私自身はなんのつながりもないのに、身代り列席。

義母の住む地域では、年がら年中、葬儀話を聞くような気がする。
(葬儀の前後も、行事が続くようだし。日常生活と葬儀は切っても切り離せない地域??)
現に、今回の訃報のお方も、義母宅の隣家では、お通夜はご主人、告別式は奥さん、と、
分業して行っているようだ。(亡くなった人とは、親戚ではない)
義母の立場の人(姑)は、引退。
義母は、一日も早く引退することを願っている。
私は、義母に一日も長く現役のままでいてもらうことを願っている。
年齢からすると、私の思いは、通常、叶わないことだろう。

そんな駄々っ子のようなことは通らないと思うので、せいぜい、死者の数が減ることを望むのみ。
葬儀列席担当は、私の職務と割り切って、言われるままに従う。嫌だけど、避けられない。
養ってもらっている以上は、ね。
嫁の役割を理解し、遂行?
しかし、家がどうとか、ああとか、って、何?
この場合、家って、家屋(HOUSE)の意味ではない。
社会学では、「イエ」と表記される? ふーーん・・・?

嫁って、非常に厄介なポジションにある。
(小林麻央チャンも、これから、梨園の呪縛が待っている・・・)
投げ出したい気持ち100パーセント。
結婚式は招待される人だけが出るが、お葬式は、自由参加。自由度が高いはずなのに、
義理で固められたガチガチのお付き合い。それが家の嫁の務めなんだって。
農家に、外国から嫁に来た女性、大変だろうなあ。
農家でなくても、文化や考え方が違うところに、嫁に来る人は、価値観がぶつかり合うだろう。
といっても、ぶつかるような自由な雰囲気はなく、強制的に従わさせられるのだろうけれど。
外国でも、宗教の違う人同士の結婚は、大きな亀裂を生じるので、避けるのが普通だ。
日本でも、「宗教の違い」が離婚原因として認められる、裁判の判例が出ているし。
葬儀は、ある意味宗教行事だが、日本で、宗教上の理由で参列している人は、どれだけいるのだろう?


へんに知識や知恵を持っても、どうすることもできないのなら、そんなもの、持たないほうがマシ。
どうすることもできないのか、志気が上がらず、する気がないのか、
反旗を翻す計画を着々と推し進めているのか、はたまた飼い馴らされていくのか、
まあ、それは、ちょっと今のところは、サイドに置いておいて、
「へーへー、そうですか」と、割り切って、葬儀に馳せ参じるのも、ひとつの暫定的手法だ。

がっかり、しょんぼり

2010-02-10 | わたし
ブログ閲覧数に、振り回されている。
こんなに小さなことに振り回されている自分は、いかにヒマ人か。
でも、なんだか、がっかりして、モチベーションは、ぺちゃんこに。

へんに一時期(1月11日~1月30日)好調だっただけに、
にわか景気に浮かれていた反面、いつ落ちるのかと不安でもあった。

数値が落ちたら、まあ、気持も落ち込むけれど、
一旦、自分も底まで落ちて、また元々のペースで地道にやっていこう。

そもそも、ブログ中毒になりかけていた。
これを機会に、自分を律しながら、楽しみながら、
他のジャンルのことも充実させて、バランスよくいこうと思う。

とはいうものの・・・やはり、こたえます。

揚げ足取りは、嫌われる

2010-02-09 | ささいな事
国際結婚されて、海外で住まわれている方のブログを拝見した。
日本の文化である着物をお召しになって、あちこちにお出かけになる。
年齢よりもずっとお若く見えるが、なんと実年齢は私よりも上。

お住まいは、イギリスだが、パリに小旅行に行かれたり、なかなかの行動派。
憧れがぎゅっと詰まった、とても素敵なブログだ。

それは、それとして・・・
私が少し感じるのは、お出かけ先の会場や、お店で、お着物を召された方をお見かけすると、
そのお着物の質や格に対して、
「勝った!」とか、正直な反応をブログに何気なく綴られること。
もう、そこそこのお年なのだから、あまり、人と比較して優越感を感じたり、
そういうことは、卒業されてもいいのではないかと思う。
単に着物を着ることが好きで着物を着る、自分のために着る、それだけでいいのではないかと。
しかし、人と比較し、競争心を煽られるということは人間の本質のひとつで、
それを感じたままブログに綴るということは、正直な、あけっぴろげで気さくな方なのだろうけれど。

着物を着て出かけると、人々の視線を感じて、気持ちが高揚するとのこと。
日本でさえも、着物を着ている人は少ないのだから、海外だとなおさらのことだろう。
しかも、ストリートや地下鉄などの、誰もが自分の所要でいる場所だけではなく、
芸術を愛好する人たちが寄り集まる場所、ホールでのお披露目なら、さらに人々の目を引くだろう。

日本文化の発信と同時に、ご自分の自己顕示欲?のようなものも満たされるので、一石二鳥。
私もそういうライフスタイルは素敵だと思う。非難する気は、全くない。
ただ、同じ行動を取る日本人同士、勝った、負けた、は、ちょっとがっかりした。
若い人ならいざ知らず、ある程度の年齢に達すると、そういうのってどうだろう。
せっかくの素晴らしいブログなのに、底流にそういう思いが感じられると
本質的に、違うものを感じる。
ひょっとして、日本での生活や評価に、満足を得られなかった人なのではないかと。
それで、海外で注目を集めたいのかと。
旅の紹介のところにも、確かに素晴らしいのだが、「いかに、普通の人では味わえないか」
というところあたりに、ちょっと引っかかるニオイを感じることもある。

しかし、海外で暮らし、しかもそこで仕事をされるのは、並大抵のことではないだろう。
それなりの能力がおありだと思う。
人に勝ちたいという負けん気がないと、大成しないのだろうし。
まあ、細かいところを、重箱の隅をつつくように、目くじらを立てたら、
世界中のどんな人にでも、文句をつけかねない。
その小さな部分が、さらっと流せる部分か、どうしても、流せない部分か、それにつきると思う。

私のブログも、おそらく(いえ、100%)、他の人が、スミからスミまで読んでみると、
気に入らない部分が多々あると思う。
(スミからスミまで読んでくださるような、そんな殊勝な方は、いないだろうけれど)
お互い様。人のことは言えない。
そういうことをわかった上で、自分が欲しい情報だけを取得すればいい。
なんやかんや言っても、私はそのブログのファンである。
今日も、その人のブログを見に行っている。



お葬式セレモニー考

2010-02-08 | 時事&世の中
式場の場で、親戚の方々とご挨拶。
一生に1回か、2回しか、会わないんだろうなあ・・・と、思いつつ。
私が結婚した時に、挨拶回りで数名の方とはお会いしたことがあるが、
あとの方は、義母から、話は聞いているものの、お会いしたことがない方々。
次にお会いするのは、ご本人のお葬式の時か、うちのお葬式の時だろう。
先方の方がこの先まだまだお達者であれば、うちのお葬式にも来てくださるだろうが、
あの年齢では、それは望めそうもない。
つまり、生きているうちでは、最初で最後のご挨拶となる。

親戚って、冠婚葬祭の時しか会わないんだなぁと、つくづく実感した。
最近は、結婚式も、あまり親戚を呼ばないことが多いので、
「婚」はちょっとだけ、メインは「葬」のお付き合い。
義母から話はたっぷり聞くものの、お付き合い薄く、ほとんど実生活には関係ない親戚、
されど、親戚。
お互いに、葬儀に出席し合える、一種の保険のようなもの?
お互いが、絆と誇りを感じ合える、血族アクセサリー???

厳かに行われる盛大な葬儀もさることながら、その一方で、代理出席や、義理出席などのない、
こじんまり、ごく身近な人だけでの「家族葬」もいいかも・・・とも、思った。
葬儀を身内ですまして、あとから年末に喪中葉書でお知らせするというシンプルなパターン・・・
「水くさい」と、不満を感じる人もなかには、いるだろうけれど。
あるいは、後から後から、香典が次々届いたら、煩雑でややこしい、と困る遺族もいそうだ。
でも、出席する側となれば、香典を送るだけのほうが、楽だし、
(さらに、喪中葉書に、「香典は辞退させていただきます」と追記してあると、香典を送る負担もなくなる。)
知らされていないのなら、
義理を欠くことを嫌がる人にとっても、葬儀に出席しないことは失礼にもならない。
冠婚葬祭を重んじる田舎の場合、
なかなか、従来の価値観、慣習を打ち破るのは、並大抵ではなさそうだが。
日本人の精神には、「義理」というものは、かなりウエイトを占めていると感じるから。


死にゆく人は、どんどんこの世からいなくなり、
新しい家族がまた創出され、新しいお付き合いが始まる・・・
はずなんだけど、結婚する年齢になっても、新しく家庭を築かない人が増えてきている。
なので、減りゆく一方。
それなりに結婚して家庭を持ち、家族を増やしてほしいものだ。


葬儀後、セレモニーホールに頼んで、タクシーを呼んでもらった。
そのタクシーの運転手さんのお話。

「1~2人ぐらいのごく少人数しかご遺族がいない葬儀があって、
私は、その度に、棺桶担ぎをやらされてますんや」
人には、それぞれ、いろんな事情を抱えているようだ。