蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

断捨離したくない魂の叫び

2019-04-04 | 人生
立ち読みをした。
人生本みたいなもの。
心の断捨離のススメ。
持たない贅沢を極めよう、らしい。

最近、こういうのが多い。
断捨離本やDVDを買わせようと急ぐあまり、過度のタイトルを取っ替え引っ換え、付け替えて目を引こうとするネットCMもある。

直近のタイトルは、「貧乏人ほどモノが多い」。
これはない、乱暴すぎる。
いくら買わせようという意図が強くても。

むやみに目に飛び込んでくるネット広告ではない、平積みされた書店の新書。
手に取って、ちらと見てみる。(俗に「立ち読み」という)
断捨離人生、クルマも家も持つな。
所有すること、そのものが意味がない。
著者は、成功者なので、何を言っても成功への布石と捉えられる。
いいなあ〜。
失敗した人の著書など誰も読まない。

成功した人がとった行動を真似しても、成功するとは限らない。

しかし、今日読んだ、米国在住女性のブログ。
(ブログの存在もはじめて知った)
正真正銘、本当の意味での断捨離。
強く賛同した。
捨てられないものの一つである、義母さんのおばあさん(祖母)の赤ちゃんの頃の肖像画。なんて素敵なんだろう。
が、断捨離決行。
断捨離先の、手に渡るのはアカの他人ではなく、義母さんの妹さん。
妹さんにとっても、血の繋がったおばあさん。
素晴らしい収まり先に、唸った。
昔、昔の、彼女の夫の直系の世帯主(曾祖父さんあたり?)が射止めたキジの剥製も、ちょっと不気味ではあるが、直系筋となると、夫への遠慮もあるだろうし、夫自体が執着している場合は、無理やり断捨離すると、かえって逆効果。
これまた、骨董屋さんのご主人が商品として扱わずに、自分の趣味で納めてくれるとの話。

実は、わたし、夫の実家の蔵にある、お気に入りのモノを少し、持ち帰っている。
かさばらなく、量は多くないモノ。
漆塗りに金箔で絵物語が施されている絵巻物図柄小箱をこのお彼岸の日に、こっそり持ち帰った。
漆塗り小箱が縦に5つに分かれて、5つの小箱が連なっている。
スマホの充電器ポーチに一緒に入れたぐらいの、手のひらサイズ。
他にも、何時代かわからないが、人々の日常風景や景色、花鳥風月など金色(材料は、なんだろう?)を用いて繊細な筆致で描いた、湯呑みサイズの焼き物だとか、わたしには、垂涎もの。
小さいことと、扱いやすいこと、モチーフ、色、素材が大のお気に入りである。
手近に置いて、時々手に取って愛でている。
アニメキャラのフィギュアフェチみたいなものか。
違いは、過去に、実在した家の関係者が実際に使っていたものである、ということか。
その品は時空を超えて、ちょこんと、わたしの手のひらに乗っているのが、とても不思議である。

ちなみに、ネットで私物を売りに出せる「メルカリ」が今、シニアの断捨離に一役買っているらしい。
お金に換えられる、というのは付属的なもので、自分の不用なものを他人が欲しがる喜びがあると、捨てる後ろめたさもなくなるそうだ。

有名経済評論家?のMさんみたいに、断捨離の逆で、がんがんマニアックなものを買うばかりの人もいるようだが、彼の自宅、きっと奥様とは完全分離しているか、別宅を確保しているのだろうと想像する。
この年齢、減らすことを視野に実践すべきなのに、逆流して増やす側の行動は、一緒に暮らす人にとっては、耐えられないだろう。
ただ、うちみたいに、夫婦共々、減らす気なく、まだ日夜、アマゾンで買い物している、時代逆行人間もいる。
娘たちは、諦めているようだ。

残す、捨てる、要る、要らない、に分別するとすれば、趣味や好みに左右されないで容易に換金できる、小さな、普遍性価値があるもの以外は全部、捨てる方向性。
我々が老人ホームに入るか、あの世に行ったら、吟味せずに一切がっさい、捨ててもらう。
じゃぁ、自分でやれば?となるが、「残された家族に迷惑はかけたくない」と優等生のようにはいかない。
借金が山のように出てきたり、自らが巻き起こす電車事故トラブルなどで世間を巻き込み多大な迷惑をかけたりしなければよしと、している。
ガラクタ処理代は、別会計で確保している。
モノは仕分けする必要がない。全て廃棄。
(欲しいモノがあれば、持っていっても可)
廃棄業者に発注するのが、自分なのか、子供なのか、の違いである。
業者にすっかり全てを処分してもらう日まで、まだ時間はあるので、ガラクタに囲まれた生活を楽しむ予定である。


家は人間の入れもの。
住んでいた人間がいなくなると、モノも命を失う。
が、失われた命のモノをわざわざ、夫の実家や、わたしの実家から拾いあげて、ガラクタの中に混在されている。

モノは、まだまだ、わたしに語りかけてくる。
もう光を放たなくなれば、捨てる旬、時期なのだろう。
が、モノたちが、「捨てないで」と、ある時は朗らかに、力強く、ある時は哀しげに、しつこくアピールしてくる。

彼らモノたちを擬人化しているうちは、まだ捨てられない。
自分の魂が萎んだ時、生きることにも執着心を失い、モノを捨てられてもきっとなんとも思わないことだろう。

生きているだけ、息をしているだけの時期をある程度の期間経て、その後、肉体も消滅する。
「生きているだけの時期」は、生かされているだけで、さぞや悲惨かと思いきや、達観、諦観、脳の働き低下によって、元気な人間が想像しているほど、悲惨ではないように思う。
あるいは、元気な人間以上に脳内には神がかりの光が射しているのかも知れない。

肉体は命があっても、魂が萎えていても、魂は完全に停止はしない。
その状態なら、無反応、無関心?
モノから離脱しているか?
しかし、それはモノから解放されたといえるのか?
モノに執着している時の方が、人間臭く、活力があると感じてしまう。
たんに、モノが好きなだけか。



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