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一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

そらウェルは生きる幸せ〜はたらく幸せ研究会研究報告会が終わったよ

2024-03-16 20:35:54 | コトバ・ニッキ
幸福学でお馴染みの前野先生が立ち上げられた「はたらく幸せ研究会」。本年度の最後のイベント、研究報告会が本日開催されました。

はたらく幸せ研究会

はたらく幸せ研究会は、幸福経営学やウェルビーイングの科学における学術的知見をもとに、皆で力を合わせて「はたらく幸せ」について学び、実践し、よりよい社会を構築して...

はたらく幸せ研究会

 


慶應日吉キャンパスと、全国をオンラインで繋ぎ、関西と福岡はサテライト会場も設置。今年も福岡会場の運営(と言っても会場の準備して、zoomに繋いで、モニターに映しただけ)を担当して、福岡、山口、広島からお集まりの皆さんと楽しく参加してきました。





はたらく幸せ研究会は2ヶ月に一度の定例会があり、最新の知見や企業の事例など、良質なインプットの機会があることに加え、誰もが自分の関心のあるテーマで分科会を立ち上げて活動することができる。研究報告会は、その分科会の1年間の活動の発表の場、でもある。と言っても、きちんと分析、検証しているチームから、やりました!って報告のチームまで様々。でもこの多様さとそれを受け入れてくれる寛容さこそが「幸せ」研究なんだろうなーとも思う。




わたしもそらウェル活動(空の写真を撮り続けると幸福度が上がる)について発表してきた。
きちんと調査、分析するにはサンプルが必要だよなーってことで、今年度はとにかく仲間を増やす、体験してくれる人を増やす、をテーマに活動したので、全くプレッシャーもなくゆるりと分科会を続けることができて、発表もそんな感じでゆるりと行ってきた。


もともとは大学院の修了研究の内容でした。修了したあとも研究員として残って研究を続ける選択肢もあったけど、そこまでガチにやらなくてもいいかなー、自分たちのペースでできればいいか、とチームメンバーと割とあっさり合意して、大学とは別の場所で活動をし始めた。それぞれが忙しくもあるので、活動のペースはダウンしているけれど、一つのことを始めると割と長く続けるわたしは(まぁそんなに忙しくなかったり、時間の自由度が高いってこともあるけど)、学会入ったり、はたらく幸せ研究会に入って活動している。


個人の主観的Well-beingを高める小さな習慣「そらウェル」の提案|早川ゼミ|研究|学際デザイン研究領域|芸術環境専攻|京都芸術大学 通信制大学院 芸術研究科

「個人の主観的Well-being(以下WB)をどのように高められるだろうか?」という問いのもと、研究を進めた。 【観察・共感・洞察】として、アンケートを実施した。Dienerの「...

京都芸術大学 大学院 芸術研究科

 


大学院を修了した後に、いろんな調査に協力いただいたお礼も兼ねて、報告会をやった中で、何人かから(主にアカデミア界隈)いただいた感想、コメント。
「そらウェルの何がどう幸福度に寄与したんだろうね」
「ひめさんたちの問題意識はこれ(そらウェル)で解決できたの?」
が、小骨がささったかのようにずっと気に掛かっていて、それを解明、解決したい、という思いが根底にある。
(この「問い」を大学院で研究しているときに投げかけられたらまた違っただろうな。なんでこの本質的、根源的な問いが出てこなかったんだろうな。出てきてたら研究員として続けていたかもしれないなぁ、なんてことを随分経ってから思ったりもした。大きな声では言えないけれど。)


そらウェルは楽しい。上を見上げることで一息つけたり、気持ちが切り替わったりとリフレッシュの要素もあるし、コミュニティの中でやり取りをすることで繋がりを感じられたり、きれいな空を見た時にはお裾分けをしたくなる気持ち(利他)が生まれたり、といろんな効果や変化も感じられた。これをちゃんと調査して、効果検証したいなーというのがこれからの野望。


今日、前野先生から、そらウェルは「はたらく幸せ」というかもはや「生きる幸せ」だから、もっともっと広めていっていいんじゃない?とありがたいお言葉をいただいた。
そらウェルが広まっていったら素敵だけど、でもガツガツと広めたくはないんだなぁ。これいいね、楽しいね、気持ちが軽くなるよね、なんだか幸せな気分になるよね、そんなふうに効果を実感しながら静かに広がっていくのが理想。とはいえある程度のボリュームやインパクトは必要だから、今年はもうちょっと外向きに発信していこうかなーとも思っている。


今年のテーマは「続ける」だから、そらウェルもゆるりと続けていきますよ。




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こんなに星がきれいに見えるんだねぇたまには

2024-03-15 21:18:29 | コトバ・ニッキ
ここ最近は、目的地に行ったら寄り道せずにサクサク帰る、っていうのがデフォルトになっていて、夜のお出かけはことさら。電車に乗るのにダッシュして、バスに乗るのにダッシュして(1時間に1本しかないもので)、ちょうど良い時間帯のバスがなかったらタクシー乗るのにダッシュして、って感じで忙しない。当然、周りの景色を見る余裕なんてないし、ましてや空を見上げることもない。


今日、たまたま、いつもとは違う路線のバスがちょうど良いタイミングでやって来たので、それに乗って帰宅。最寄りの停留所から、いつもの散歩コースでもあるのどかな田んぼの中をてくてくと歩いて帰宅した時に、


こんなに星が見えるんだ!


とちょっと感激した。高いビルなんて何にもないし、なんなら田んぼの中だから民家だってまばら。一面が夜空。そして下弦の月と星がきれいに見えた。オリオン座しかわかんないけどね。


で、そらウェル(空の写真を撮って貯めて見返すことで幸福度が上がる?を研究中)やってることでもあるし、と今日は夜空の写真にするかなーと写真を撮ってみたんだけど、スマホの性能の限界ってだけじゃなく、やっぱりね、生で感じた空とは全然違うのよ。昼間の空もそうで、補完被写体や構図によってイケてる写真になることもあるけど、空の青さ、雲の白さ、夕日や朝日の絶妙なグラデーションは写真では再現できないのよ。


そらウェルやっててなんですが、写真を撮ることに夢中になってしまって、大事な何かを見落としていることもあるかもしれないなーって、そんなふうに思った。


空の写真を撮る、ってことが目的になってしまって、空の青さや星の煌めき、そういったものを体で、五感で感じられなくなってしまっているかもしれない。


たまにはレンズ越しではなくて、素のままで空を眺めてみよう。






と言っておきながら、夜空も撮ってるっていうね 真っ黒でもはやこれが星空なのかなんなのか全くわかんないけど。











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節目に思い出してもらえるってありがたいこと

2024-03-12 22:52:34 | コトバ・ニッキ
ここ最近、「ひめに話を聞いてもらいたい」「ひめと話したい」とお誘いいただくことが立て続けに起きている。何年ぶりかしら?って懐かしい方や、定期的に「お茶しましょう!」な方からのお声かけは嬉しいし、ありがたいし、光栄。気の利いた話ができるわけでもないし、ビシッとアドバイスができるわけでもなく、ただただ「そうなんだー」って聞いて、「ひめさんはどうだったんですか?」に答えてるだけなんだけどね。


つい先日も、新しいことを始めようと思っている若者をサポートしたいんだけど、どこをどうやったらいいのか広がりすぎちゃって困ってる、壁打ち的に話を聞いてもらえたら!と学び直しの修了生の方からお声かけいただいて、個展を覗かせてもらって、ご本人とも少しお話しして(才能に溢れて明るくてキュートなお嬢さんだった!)、近所のカフェでダラダラとおしゃべり。


これといって気の利いたことを喋ったりもしてないんだけど、なんだかスッキリした!ちょっと見えてきた気がする、ひめはやっぱりひめだ、と不思議な褒められ方をして帰ってきた。

役に立つことがずばっと言えたり、その道のプロの方をご紹介できればいいんだろうし、なんならわたしが手伝いましょうか?って言えればいいんだろうけど、それもできずに、ただただ話を聞くだけなのに、節目や困ったときに思い出してもらえて、話を聞きたい、したいって思ってもらえるのは本当に光栄なことだ。


わたしの何がどう作用して「話を聞きたい」「話をしたい」って思うのかは謎なままだけど、節目や困った時に思い出してもらえる人でありたいし、あり続けられるように、しっかりしよう。どこをどうしっかりさせればいいのかわかんないけど。安心感や安定感を与えられるように、恥じない生き方をしよう。







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ほんとにこれはわたしが書いたものなのかしら? 昔の自分の熱さに驚いた

2024-03-10 18:53:52 | コトバ・ニッキ
2006年のお誕生日に始めたgooブログですが、過去の記事に批判的なコメントをいただいたことがあって、2006年から2013年ごろの記事をいっとき全て非公開にしておりました。その時に何を間違ったのか、2006年から2008年ごろの記事の多くを下書き(非公開)ではなく、削除してしまっていて、あの頃のわたしが何を考えていたのか、どんなことをしていたのかがわからなくなってしまった。ちょっと残念。


批判的なコメントについては、確かにその通りだよな、って納得する部分もあった。自分が学び手だった時代に、学びの提供側に対する不満や違和感を綴ったものだったんだけど、立場が変わって学びを提供する側、しかも公の機関で行う立場になったこともあったので、こういったネガティブな記事を誰もが読める状態にしておくのはよくないよなぁ、と非公開にしたんだっけ。


時間ができた時に過去の記事を読み返しつつ、公開しても問題なさそうな記事を公開設定に変更しているんだけど、いやはや昔のわたしは熱い、暑苦しい。そしてちょっと怖い笑
そうだった、当時(2006年から2008年ごろ)にブログを通じて知り合った人とリアルで会うと、イメージが全然違う!って驚かれた。ブログでは強いバリキャリに見えてたんだって。実際に会うと、ふわふわしてて頼りなく見えるらしい笑


確かに、自分で読み返しても、あの頃のわたしの暑苦しさにびっくりするし、正論を吐いているんだけど、それじゃあ隙がなくてみんなしんどいよ、って思っちゃうくらい。もっと上手く立ち回っていたら、今頃はまだ組織にいたんだろうなーなんて思ったよ。


誰かに読んでもらうことを意識して書いていたわけじゃないから、盛ってはいないんだろうけど、とにかく活動的だし、誰かのために、って思って動いているのが健気だった(自分で自分に言うってどうよ笑)。でね、仕事や会社、メンバーのことが好きで好きで、だからもっと良くしたい(良く、の定義は曖昧ですが)、そのために何ができるんだろう?って相当真剣に考えていたことがわかって、我ながらちょっと感激した。


それにひきかえ今の自分はどうだろう?歳をとったから、とか、組織に属してないから、とかそんなの言い訳だよな。どこか過去の遺産で食い繋いでる感じで、真剣味が足りなくて、情けない限り。


当時は女性性も大事にしながら、言いたいことはちゃんと言って、言いにくいこともちゃんと言ってた。上司には嫌われちゃうこともあったけど、それでも信念を曲げたくない、みんなのために、な思いで行動してた。その頃のわたしが強み診断をやったら「志」とか「義」とか「勇」とか「誠」とかが出てたんじゃないか、「柔」とか「包」とかは間違っても出てこないな、って思うくらい。


今のわたしは、誰とでも軋轢なくそれなりに関係性を作ることができて、場を和らげることもできるようにはなっていると思う。けどね、なんだろう、この頼りなさ、おぼつかなさ。いい年になっているのだから、言いにくいことでも年の功で上手く包んで言えるようになりたいけど、なんだか今のわたしは自分に自信がないからすぐに迎合しちゃう。昔のわたしの方がよっぽどしっかりしてた。


環境や立場によっても強みは変わるし、自分自身の振る舞い方も変わる。それは当然のことだし、今のわたしにも、人様のお役に立っていることはあるだろう。昔のわたしも今のわたしも同じわたしなんだよな、大事にしていること、譲れないことはあんまり変わってないけど、出し方が違ってきているのかもしれない。どっちがいい、悪いってことではない。それでも、昔のわたしの暑苦しさがなんだか愛おしいのですよ。


あぁ、でも今の年齢で暑苦しさ出しちゃったら、きっと上手くいかないこともたくさん出てくるんだろうなーと思う。適当にかわして、いい塩梅でやり過ごして、でも大事な時にはピシッと言える、そんなおばちゃんになりたい。









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インターネットの海の中に自分のやってきたことが残るって素敵だと思う

2024-03-09 18:19:56 | コトバ・ニッキ
午前中からせっせと報告書書いたり、企画書作ったりするつもりだったのに、朝からお片付けに精を出したので、なんだか「やり切った」感を感じてしまって、結局ダラダラしちゃった午後5時。今日はまだあと6時間以上もあるんだもの。ここから頑張ろう。


昨日の「不適切にもほどがある」でエゴサでメンタル病んじゃって、書けなくなっちゃった昭和な脚本家エモケンのエピソードがあったけど、一般人でもエゴサってする人いるのかしら?
以前(3年くらい前)、グラレコ講座を企画してくれたおともだちが、わたしのプロフィールを探そうとググったら、なんと名古屋の名門大学の経済学部の先生に同姓同名がいたことがわかった。先生の名前、経歴に何故かわたしのプロフィール写真がついていた、っていうね。ウケるー!って笑ってたんだけど、先生は迷惑だよね。格式高いアカデミックの世界の先生のプロフィールに、大口開けて笑ってるわたしの写真(笑) Googleに通報して半年くらい経ってやっと解消されたけど、面白い体験だった。


当時は、わたしの名前で検索すると、wikiは先生のプロフィールを表示するんだけど、記事や写真はわたしで埋め尽くされる、というなんとも不思議な現象が起きていた。おそらくはオンラインのイベントでグラレコをよく描いていた時期だったから、開催レポートとともに名前がたくさん露出してたんだろうな、と推察している。


今は5番目くらいにやっと出てくる感じ。一般人だもの、それでもすごい。「名前+グラレコ」で検索するとありがたいことに過去の講座やイベントの開催レポートや、中原先生のところで講座をやった時のラップアップの資料が出てきたりして、こんな感じで自分のやってきたことが、インターネットの海の中にある、っていうのはいいなぁ、素敵だなぁ、って思った。
ブログを始めた当初(2006年ごろ)、ブログの世界は、まだまだ多くの人に向けての発信というよりも個人的な日記を誰でも読める状態しているだけ、って感じだった。コメント欄で交流したり、お互いのブログのリンクを貼りあったり(トラックバックって懐かしい!)と、今のSNSっぽい使い方もあったけど、記録を残す、ってことに重きが置かれていたように思う。時折、荒れる記事もあったけど、共通の趣味や関心で繋がっているゆったりとした世界だった。


今、インターネットの世界には誹謗中傷も少なくないけど、それでも、こうやって自分が感じたこと、経験したことを残しておけて、それを読み返すことで過去の自分に教えられたり、記憶がありありと戻ってきたりするのは素晴らしいことだと思っている。自分が書いたものでなくても、誰かが記録してくれていたものを検索することで、5年、10年と時間を経てもその時の自分の活動に触れられる、っていうのはいいよね。こんなふうにひそやかに、静かに残るような活動をしていきたい、と思ったよ。







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会場と駅の往復だけなんてもったいないよねぇ

2024-02-25 22:52:00 | コトバ・ニッキ
1ヶ月前に福岡で開催した強みカフェ。東京、福岡を飛び出して初の遠征をしてきました。東京も遠征っちゃ遠征だけど、板谷さんのホームだし、わたしにとっても長年住んで仕事した場所でもあるし。
今回は静岡。静岡市役所の食堂(市民にも開放されている)をお借りしての強みカフェ。違った、これから板谷さんと一緒に強み+グラレコやるときは強みフェスって呼ぶことにしたんだった。


そんな強みフェス自体の振り返りはまたあらためて行うとして、久しぶりに地方にお招きいただいて(押しかけた、とも言う)思った。


せっかく行くなら1回くらいはちゃんと名物食べたいし、一箇所くらいは名所旧跡巡りたい。


コロナ禍もあって、最近は遠出をしても目的地と駅(空港)しか訪れてない。まぁ、そのきらいはコロナ前からあってタッチアンドゴーな滞在は日常茶飯事だったけど、ここ最近は真次郎が待ってるから!!!と最短滞在時間で遠征している。


それでいい、って思ってたけどそれはやっぱりもったいない。思い出を作りたいってのもあるけど、まだまだ日本には先人たちの知恵がつまった素敵な場所がたくさんあるのだから、体験体感しないのはもったいないよなぁーって。
これからはちょっとだけでもいいから、先人たちの残したものに触れていこう。城下町静岡に行ったのに残念すぎる。


ビールで乾杯!だけして20分で中座して帰路についてから早4時間半。まだ着かない、、、
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自分がやってることを端的に説明できないのってもったいないよね

2024-02-24 23:01:00 | コトバ・ニッキ
静岡での強みフェス開催に備えて(っていうか合わせて)実家に帰ってきている。
月曜に仕事を入れて前泊するか、金曜に仕事を入れて後泊するか、がいつものパターン。日曜に静岡で仕事なので、土曜に泊まらせて、って連絡したら、なぜ日曜に?と大層不思議がっていた。そうだよね。


強みカフェ(強みフェス)は仕事と言えば仕事だし、プロとしてコンテンツを提供してるけど、まぁなんというか、好きで楽しくてやってるから、仕事してる感覚はないけど、説明がなかなか難しかったので、ざっくり「仕事」って言っちゃったけど、そうね、なぜ日曜に大人が集まるのか謎だよね。研修でもないし、勉強会でもないし、さりとてワークショップなんて言葉も概念も馴染みがないし。


自分がやっていることを端的に説明できないのもったいないなぁーってしみじみ思った。グラレコにしろ、女子大の仕事にしろ、やってることがなかなかわかりにくい。特に親世代には尚のこと。
わかんなくても仕方がないや、って言っちゃうのは簡単だけど、どんなふうに説明すれば伝わるのか、ちょっと探求してみよう。
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お気に入りのお店は長く続いて欲しい 存続させるためにできることってなんだろう

2024-02-19 20:17:34 | コトバ・ニッキ
珍しくランチが取れる時間帯にお出かけしていて、その後も急ぎの予定がなかったので、久しぶりにのんびりとランチ。ランチって言うとなんだかオサレな感じがするけど、単にお昼ごはんを外で食べた、ってだけではある笑


近所の手打ちパスタのお店。もちもちの手打ちパスタが美味しくて、太さが選べたり、ソースの種類が豊富だったり、ランチタイムが終わってもパスタが頼めたり、と自由度が高いのが気に入っていた。わたし的にはカルボナーラが複数種類があって選べるのがとっても気に入っていた。ちょっとあっさり目のソースと、ちょっとコッテリこっくりなソース。


カルボナーラ食べたい舌になっていたので、いそいそとメニューを開くと、、、、
なんとなんと、これまでは50種類くらいあるレギュラーメニュー(そんなにはなかったかもしれないけど、そのくらい豊富にある、って意味)から自由に選べたのが、あらまぁ、ランチタイムは予め指定された10種類ほどのメニューの中から選ぶ仕組みに変わってた。まぁ、それでも10種類くらいの中から選べるのは嬉しいし、ありがたい。でも、カルボナーラがないのよ(涙)カルボナーラ食べたい舌になってたのに。


昨今の物価高で飲食店のみならず、どこも大変で価格が上がることは仕方がないし、そこは無理をしてほしくない。メニューを絞ることも理解はできる。けど、寂しい。


そうなのよ、コロナ禍も飲食店やサービス業が閉店していく様を見てきたけど、ここにきてまた閉店ラッシュ。たまたまわたしが日頃行っていたお店が何店か閉店になっただけのことかもしれないけれど、寂しいなぁ。お疲れさまー!と乾杯したくなる時によく行ってた焼き鳥屋さんも43年の営業に幕を下ろしてしまったし。


行き始めると割と長く通うタイプなので、行きつけのお店がなくなると選択肢も無くなってしまって本当に悲しくて困っている。飲食店だけじゃなく、美容院とかネイルサロン、真次郎のトリミングサロンとか、動物病院とか、なくなると困るお店がいっぱいある。長く続けて欲しいなぁ。せっせと通うしかできないけど、長く続けてもらえるように、これからも足繁く通いますよー。
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毎日コツコツ←→まとめて一気に。田中先生のVoicyをまとめ聞きしてみた

2024-02-16 21:42:34 | コトバ・ニッキ
会計士の田中先生が今年から始められたVoicy。初回と2回目、3回目まで毎日聞いていたんだけど、どうにも習慣化できなくてそのまま放置、積読ならぬ積聴(つんちょうw)状態でしたが、ここのところ車移動が多かったので、CarPlayに繋いで一気に聴いた。


#0019 脱力系フリーランスと必死系フリーランスのちがい | 田中靖浩|作家・公認会計士|フリーランス塾・塾長「脱力系フリーランス塾」/ Voicy - 音声プラットフォーム

#0019 脱力系フリーランスと必死系フリーランスのちがい | 田中靖浩|作家・公認会計士|フリーランス塾・塾長「脱力系フリーランス塾」/ Voicy - 音声プラットフォーム

こんにちは、田中靖浩です。フリーランスにも2種類の人間がいます。それが脱力系と必死系。そのちがいを解説しつつ、必死系から脱力系へ向かうためのコツをお話しします。

Voicy - 音声プラットフォーム

 


面白かった!
勉強会やコラムなどで聴いていた話も多いけれど、あらためてまとめて聴くことで、塊となって「なるほど、そういうことか!」「先生が言いたいこと、伝えたいことってこういうことなんだな」というのがうっすらとわかった気がする。あくまでうっすら。心底わかったかと、問われると、まだまだ咀嚼と深掘りが足りないもの。


でね、聴いていて、あれ?と思った表現があったので、自分メモとして残しておく。


「言語化」
そういえば、以前も「言語化」についてfacebookに投稿されていて、その時はSO!インコを引き合いに出して、単に言語化すればいいってもんじゃないよ、ちゃんとわきまえようね、なメッセージだったんだけど、Voicy聴いてて、田中先生の言わんとする「言語化」と、わたしがよく使っている「言語化」とはちょっと意味合いが違う、似て非なるものなのかもしれないなぁ、と思った次第。


これがSO!インコ 
孔子先生によれば言葉を使うに3つの過ちがあるそうです。
・言うべきでないことを言う「躁(そう)」
・言わねばならないことを言わない「隠(いん)」
・相手や周りを見ずに言う「瞽(こ)」(盲目の意)




田中先生の言わんとする「言語化」は、自分の考えや思いはちゃんと言葉にして発信することがだいじ、ってことで(超絶意訳)、わたしがよく使っている「言語化」は頭の中でモヤモヤしていることや、まだ明確に形や言葉になっていないもの(こと)を言葉にしていくことを指している。さっと耳に入ってきた時に、話の展開が予想できないし、あれ?なんでこんなに解釈、理解ができないんだろう?と不思議だったけど、そうか「言語化」の意味するところが微妙に違っているからなんだ、と気づいた。


これは多分、まとめて聴いたからこそわかった違いだったのかもしれない。それまでの放送で積み重ねられた内容があったから、なるほど、先生が言わんとする「言語化」はそういうことなんだ!だからこのメッセージなのね、このテーマなのね、とストンと理解ができた。


毎日コツコツやることも大事。夏休みの宿題をまとめてやって怒られていた三つ子の魂はまだまだ抜けきれないけど、まとめてやるといいこともあるなぁ、という発見。


まぁ、意味の違いなんて小さなことであって、大事なのは田中先生からの「自分の考えをちゃんと言葉にしなさい、そしてそれを適切に発信していきなさい」ってメッセージ。毎日、ダラダラと思考を垂れ流しているだけのブログではあるけれど、考えを言葉にしていく訓練にはなっているかも。そう信じてもうちょっと続けてみよう。
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さよならのあとで

2024-02-14 23:10:40 | コトバ・ニッキ
お友達の愛犬が虹の橋を渡った。


具合が悪くなってからのこと、入院、検査、手術、術後の様子などを仔細に毎日レポートしてくれていて、それがたまらなく切なく辛かった。
我が家の真次郎はまだ6歳半で元気いっぱいだけど、その日が来ることを考えるだけで胸がキュッとなるくらい、わたしはその日が来ることが怖い。きっと正気ではいられない。お友達の愛犬の闘病の様子が我がことのように思えて、もし真次郎がこの状況になったらわたしたちはどうするだろう?って考えるだけで胸が締め付けられる思いだった。
辛い、痛い、苦しい、そんな状態を伝えることはできないし、どうして欲しいのかを伝えることもできない。だから、ちょっとした変化をちゃんとわたしたちがキャッチしていかなきゃならないし、いつかその日は訪れるから、ちゃんと考えて、ちゃんと話し合っておかないと、と思った。


安らかに眠ってね。
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