わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

知ることで覚悟も生まれる~『寄り添う障がい児ケアの未来。私たちにできること。』キックオフイベントに参加して

2019-07-11 23:21:03 | オトナの学び
早くも1週間が経ってしまいました(汗)
7月4日(木)、いろんなタイミングと奇跡が重なって、フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPANが主催するイベントに行ってきました。





たまたま、その日の午後に東京で仕事のご依頼をいただいていて、日帰りするつもりでいたのですが、Facebookからエトー先生がモデレーターを務めるイベントがある!と流れてきて、これはいつもの朝イチ便コースに変更しなければ!と参加を決めました。ちょうど、その日の仕事はグラレコ絡みだったので、お道具を持っていることも手伝い、グラレコも描かせていただきました。


このイベントは、ラオスの障害児ケアを支援するクラウドファンディングのキックオフも兼ねていました。
病院はつくった。けど、つくっただけじゃダメで、次は育成だってことで次なるチャレンジへ。
クラウドファンディングの詳細はこちら。


ちょうど1年前、授業の合間のエトー先生と弾丸トークランチ会をしたときに、フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN代表の赤尾さん、杏林大学の加藤先生との不思議で素敵な出会いのお話しや、ラオスの障害児ケア、病院のお話をお聞きしていたので、微力ながらクラウドファンディングにも協力させてもらった。
サンキューレターやアニュアルレポートも送っていただいていたので、活動については理解しているつもりだった。けど、字面で読むことと、実際に現地で活動している人の話を聞くのとは、大きな違いがある。温度感というか、臨場感というか、「生」の声、生きてるんだ、という熱量が違う。


医療従事者、医療関係者でなくても十二分に理解できる平易な言葉でお話しくださったし、何よりも赤尾さん、加藤先生のお話がリアルで熱くて、グラレコ描くのは本当に楽しかった。楽しいという表現はあまり適当ではないんだけど、“フロー”状態とか、没入感、という意味に近い。夢中で聞いて、夢中で書いて、そして、いろいろなことに思いを馳せ、いろいろなことを考えさせられた。


医療が遠い、というお話。
字面だけを見て、わたしが受けたイメージは「経済的な理由や、医療を受けるという選択肢を持っていない」、貧困や無知から生じるものだった。それだけではなく、すべてにおいて「遠い」のだ。病院までの距離、距離だけではなくて悪路を行かなければならない。例えば薬を〇時に飲んでください、と言われても、時計を使う生活をしていないので時間(〇時)の概念がないといったことも起こる。


そんな中で、障害児のケアに取り組むのは本当に容易ではないはず。
何度も赤尾さんがおっしゃっていたけれど、「障害」という概念がなかったから「〇〇ができない▽▽ちゃん」というラベルだけで終わっていた。病気をして、医療にかかっても、病気に対する対処だけで終わってしまい、障害についてはケアがなされない。ラオスには障害を認定したり等級を表したりするような制度はないため、赤尾さんたちが評価を行った。でも、それで終わりではない。そこからが長い長い葛藤とケアのスタートになる。


「障害」を認識してケアをしようとする。けれどもラオスの実情では、できないケアも当然ある。家族、住環境、リソース・・・・様々な要因が重なって、できないことが出てくる、選択肢を提示することもできいないときがある。それでも、何ができるか?を考え、一緒に迷い、一緒に悩むことが大切だ、と赤尾さんはお話しされていた。


医療が進歩したことで、我々の寿命は飛躍的に伸びた。これはとっても幸せなことだけれども、一方では静かに弱って自然に命が終わっていたものを、医療の力で伸ばしている、とも言える。経済的、技術的なリソースがふんだんにあれば、医療の進歩による寿命の長期化は嬉しいことだし、喜ばしいことだ。けど、経済的、技術的なリソースがない場合には、せっかく灯った明かりを消されてしまうような、そんな無為な状況にもなり得る。
知ってしまったからこそ生まれる痛みなのかもしれない。


ふだんのわたしは、新しいこと、知らないことを知ることは楽しい、と無邪気に言っている。それって恵まれた環境にいるからこそ言えることなのかもしれない。久しぶりに無力感を感じた。東日本大震災の時に感じた無力感と同じ。恵まれた環境にいて、痛みを知らずにいて、でも、飛び込んでいくには技術も度胸も思いも備わっていない。
そんなわたしができることはただひとつ。知らないでいることをやめること。知ってしまったからアクションを起こさなきゃ、と思うのは自然なことだけど、でも、そんなに簡単に行動を起こせるわけじゃない。だったら、知らないでいることをやめる。表面的にしか理解できないかもしれないけれど、それでも、知ろうとする気持ちが大切なんじゃないかと思う。


知ってしまったことで生まれる苦しみや悲しみ。そんなつらい思いも全部飲み込んで活動し、凛とされている赤尾さんは本当に素晴らしいし、ステキだ。


「ひとりひとりができることを無理なく」
最後のフレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPANからのメッセージ。
わたしも無理はせずに、でも、知らないでいることをやめよう、と思う。そして、この活動のことを知った以上は細ーく長ーく、できる範囲で支援し続けようと思う。


あらためて、こんなことを深く考えるきっかけをつくってくださったエトー先生、赤尾さん、加藤先生、フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPANのスタッフの皆さん、会場でお会いしたみなさん、本当にどうもありがとうございました。



















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「Bの学び」は感染する?~「Dの学び」と「Bの学び」

2019-07-06 08:13:33 | オトナの学び
孫子女子勉強会という「孫子の兵法」を参考にしながら、会計士の田中先生を中心に働き方や生き方をあれこれ語らいながら学ぶ不思議で楽しい会があります。
その孫子女子勉強会ではおなじみのワードに「D」と「B」があります。


マズローのD動機(欠乏の不安から生じる動機)とB動機(こうありたいという欲求から生じる動機)にあてはめて学びや働き方、身の処し方などなどを分類(?)しています。


ここ最近の孫子女子勉強会でのホットワードは「Dの学び」と「Bの学び」。
これについては、孫子女子勉強会メンバーの岩山さんがとってもわかりやすくまとめてくださっていますが、「Dの学び」がわかりやすく役に立つことを求めていて、学び=情報獲得になっている。対して、「Bの学び」が何を学んでいるのかよくわからないけど、確実に“何か”を学んでいるし、何より楽しみながら学んで知る。たぶん、「Bの学び」の最中にいるときには、学んでいるという感覚すらないのかもしれません。


わたし自身は、わりとどんなことでも楽しめちゃうし、内省が好物なので(!)、どんなことからも学べると自負しているんだけど、これって実は意外と難しいことなのかもしれないな、と最近つらつらと考えているのであります。


ありがたいことに、グラフィックレコーディングの講座はいろんなところからお声をかけていただいています。これまでに(一斉授業を除くと)700人近くの人に受講していただいて、「楽しかった!」「やってみます!」という嬉しい感想を頂戴している。
基本的には、個人向けの講座(やりたい!って人が自発的に参加する)がメインなので、そりゃー、そういう感想になるでしょうよ(笑)


けどね、講座を始めてからずっと、20人~30人にひとりは「つらそう」な人がいることが気になって仕方がなかった。
ほとんどの人が「これ楽しい!」「あっという間だった!」と自然に笑顔になって描いて帰っていくのに、なぜ自分でやりたい!って思って参加した講座でこんなにつらそうなんだろ?


  やっぱり絵を描くのが苦手だから?
  人の話を聞くのが嫌いだから? 
  集中できないから?(飽きちゃうから?)


いろんな理由を考えていたんだけど、この孫子女子勉強会での「Dの学び」「Bの学び」の話、やり取りを重ねながら、ぼんやりとわかってきたことがあります。


それは、参加者の中の「目的」が違うんだなーってこと。参加者にはおおむね3つのパターンがあって、
  1)楽しそう、グラレコやってみたい!(B動機)
  2)グラレコが流行ってるみたいだから知っておかないと(D動機)
  3)授業や研修で必須参加だから仕方なく参加してる
このうち3)は致し方ないとして(でも、意外とみんな楽しそうに取り組んでるし、実践してたりする。)、どうも苦しそう、つらそうなのは、この2)のD動機の人たちのようなのです。


毎回、グラレコ講座では、今日のルールとして次のことをお願いしています。

  絵が描けない、できないはNGワード。
  うまいへた、ルール、正解はありません。
  自分自身が描いたものが「正解」です。
  とにかく今日は楽しくたくさん描きましょう!



大抵、みなさん「絵心ないんだけど…」「絵は苦手だから不安…」と言いながらも、途中からそんなの嘘でしょ?ってくらい楽しそうにペンを走らせます。ほかの人に見せるのも恥ずかしがらなくなる。


たまにいらっしゃるのですよ。
感じたままに記録することが何よりなのに
  「うまく描けません。」
  「(●●のイラストの)描き方のコツや書き順を教えてください。」
  「正しい書き方があるはずだから、それを教えてくれ。」
というリクエストを頂戴することが。


気持ちはわからなくもないんだけど、それじゃあ、これまでのノートや議事録となんら変わらないわけでしょ?
グラレコって、わたしはその場の雰囲気や空気、温度みたいなものを聞き手であり描き手である自分が感じたままに描くのがいちばんいいと思ってるし、そうお伝えしている。だから、正解もうまいへたもない。あなたが描いたものが最高だし、正解なのよー。


  グラレコ、おもしろそう!
  こんなふうにノートがとれたら楽しいだろうな
っていうB動機でスタートした人は、ほんとに好き勝手にカスタマイズして、自分の好きなように思うように描いてくれる。すぐにわたしなんかのレベル?技量?を超えてしまう。それでいいし、それがいいし、それが何よりも嬉しい。


一方で、
  グラレコ流行ってるみたいだから知っておかないと
  自分も描けるようにならないと
  〇〇さんが描いてるのを見て、自分も…
みたいなD動機で受講している人は、「うまくできませんでした」「難しい」という感想をおっしゃる。わたしの力量不足が原因なんだけど、でも、つらい思いをしてまで学ばなくてもいいんじゃない?と思わずにはいられない。


こんなこと言うと怒られちゃうかも、だけど、グラレコなんて世の中からなくなっても何も困らない。寂しくなるかもしれないけど(笑)
だったら、好きなように楽しんでやればいいのに。特にわたしがお伝えしているグラレコは「自分のノートを楽しくする」なんだから、無理に取り入れる必要は全然ないし、誰かと競うものでも、比較するもの
でもない。


最近、ほんとにいろんなところからグラレコ描いてほしいと依頼をいただく。残念ながら、キャパとスケジュールが合わなくてなかなかお受けできないのですが、D動機の人たちの中には「グラレコ描けたら、スキルとして活用できるかも?(仕事になるかも)」的な色気をお持ちの方もいるのかもしれない。その気持ちは否定しないけど、それじゃあ、ほんとにつらいだろうなぁ、と思わずにはいられない。楽しいはずのグラレコが修行になっちゃってるんだもの。
ゼミや授業、講座などでグラレコを体験して「グラレコ、楽しい!」「もっと描きたい!」って思った人たちは、ほんとにいろんなところで描いている。これが何よりも嬉しいし、そうやって広がっていくのがいいなぁ。


最近、学生が企画してくれて、小倉で講座を開催しました。たくさんの方にお集まりいただいて、大盛況だったんだけど、何がいちばんよかったかって、企画して運営してる学生たちが何よりも楽しんでたってこと。自分たちが学びたい、やってみたい、もっとやりたいって思ったことを企画して、自分たちも楽しむ。そして、学んだことを早速いろんな場で使ってみる。
「グラレコやりたい」という動機は「D」だったかもしれないけど、その場の過ごし方やその後の展開の仕方を見ていると、彼彼女たちの学びは間違いなく「B」だ。
でね、「B」は感染するんだよね。楽しそうにやってる人の周りには人が集まるし、〇〇さんがが楽しそうにやってるグラレコ、わたしもやってみたい!って気持ちになる。


なんてことをつらつらと思っていたら、主催のゆきぽんがとっても素敵なブログ(開催レポート)を書いてくれてました。
ほんと、こういうのがとにかく嬉しい。こうやって広まっていくことが何より嬉しい。


ノウハウ流出しちゃうじゃん、とか、ひめさんならではのものなんだからもっとブランディングしたら?的なことはよく言われるんだけど、いや、むしろ、わたしの講座に参加してくれた人が自分なりのカタチでどんどん広めていってくれた方がよっぽど嬉しいでしょ。Bの学びってそういうもんでしょ。
これからも「やりたい」「やってみたい」って思いには、応えていきたいなーって思ったよ。


あらためて、idea+のみなさん、繋いでくださった下田先生、ご参加くださったみなさん、ありがとうございました!またご一緒しましょう!
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