わくわく記録帳

一日に見聞きすることをすべて記録すると文庫24冊になるらしい。
そんなに!?
記録しておかないのはもったいないよね。

≠起業物語。大学院OB交流会イブニングダイアローグ第3夜が終わった

2012-10-20 09:14:08 | オトナの学び



去年の秋に思いつきと勢いと怖いもの知らずにはじめた大学院OB交流会。かたちを変えて勉強会ちっくな仕立てにしてから昨日で3回目。


毎回、修了生にゲストで登壇いただいて、キャリアと学びロードを語っていただく。それを「キャリア論的に言うとね」とドクター石山が解説してくださって、みんなでダイアローグ、とそんな仕立て。
次のゲストはテレフォンショッキング的に指名していくスタイル。


昨日は購買戦略研究所の古市さんがゲスト。8月の終わりにインタビューをさせていただいたんだけど、とにかく刺激的でおもしろい!ってことで、今回はゲストが一方的にお話しするんじゃなくて、イシヤマさんに徹子のごとく(いや、むしろ田原総一郎?)突っ込んでインタビューしてもらおう、ってことになりました。


ご両親が先生だったこともあって、教師になりたかった古市さんは、その夢が断たれた時に、「どうせやるならナンバー1に」と教職からビジネスの世界にかじを切ります。
でも、それって、採用試験に落ちたことはきっかけで、学生時代に40種類くらいのアルバイト経験をしながら、社会の、ビジネスの仕組みをつぶさに見て感じて、不都合や不具合をご自身なりに把握されていたからこそ、なのです。


起業しよう!と思い立つターニングポイントは確かにあるし、そのお話しはいわゆる立身出世な取り上げ方をすればもっともっと深掘りできると思う。特に古市さんのような起業家の場合には、起業のエピソードだけでもめちゃくちゃおもしろい。
日経ビジネスとかが古市さんに取材にいったら、そこがメインの記事になるんだと思う。


でも、大学院のOB交流会で、あたしたちが手作りでやっている意味はそこじゃないって思った。
これね、最後のラップアップのときにうまく伝えきれなかったんだけど、古市さんのキャリアは起業物語ではない、ってこと。もちろんそれがメインではあるけれども、子ども時代、学生時代、採用試験に落ちて、新卒なのに中途枠で入社して、転職して、大学院行って・・・・っていう「ピース」が持つエピソードがつなぎ合わされてキャリアヒストリーになる、って思う。で、あたしたちはここをだいじにしたい。


一人ひとり、そりゃー、規模も違うし、みんながみんな古市さんみたいなド派手なキャリアなわけじゃない。けど、一人ひとりにキラキラ☆なエピソードはたくさんあって、それがその人のキャリアや人生(と言うと大げさだけどwww)を作っている、って思うのです。
で、あたしはそれを聞きたいし、聞いて、自分に投影して、自分のことを振り返ることができるんじゃないかなー、と思う。


これがこのイベントの核、な気がするのです。


だから、昨日の最後にもちょこっとお話ししましたが、産能限定(通教の人も、在学中の方も含めて)にしているのはそれ。
自分のエピソードを語るってそんなにセキララにはムリだよー。でも、同じ産能という文脈を持つ仲間の中でなら語りやすい。それは、二足のわらじを履いてるしんどさを体感できてたり、課題に追われる実感値、仕事との両立やりくり、学費とか経済的な負担とか・・・・そういうベースを共通に持っているからこそ、のゆるさ、とあたたかさ、な気がするのですよ。


なので、しばらくはこのスタイルは維持していきたいなー、と思っています。
キラキラじゃなくても、一人ひとりのエピソードをだいじにしたい。


あとね、これまたちょこっとお話ししましたが、やっぱり集まってくる人の顔ぶれが固定化しちゃうこともちょっと懸念。中にいるあたしたちは居心地よくって愉しい。けど、それだと単なるぬるいコミュニティになっちゃうんじゃないかなー?と。
昨日はこの春に入学された現役の大学院生もたくさん参加してくださいました。そのことがあのコミュニティにどう寄与したかはわからないけれど、新陳代謝、というか、常に新しい風は必要な気がする。
特権階級、っていうか、閉鎖された場になっちゃうのはもったいない。言ってること矛盾してるかもしれないけれど、産能という大きな枠の中にいながらその中では自由に泳ぐ、みたいな。え?それっていけすってこと?大海に出なきゃダメかなぁ(汗)


でもね、いちばんだいじなことは、昨日のような場に集まってきて、ゲストの話、一緒のテーブルになった人との対話、二次会…なんでもいいから、「愉しかった―」「明日からがんばろ」って思えること、な気がする。
元気になったあたしたちが、また別のだれかを元気にすればいい。そうやって連鎖していくひとつのきっかけ、になればいいなぁ、と思うのです。


あらためて、超多忙な中でお時間作ってくださった古市さん、ありがとうございました。お忙しい中たくさんの方に集まっていただいて、幹事一同本当に嬉しく思ってます。
心配していたかつサンドもちゃんと食べれたし(え?そこ?)


次回は、誰がこの人につなぐんだろ?とみんなが思っていたイタヤさんの登場です。フィナーレ感が漂っていますが、そんなことはありません。まだまだ続きますよー。
これまたいつも言ってますが、教室の空き状況とイタヤさん、イシヤマさんのご都合、そしてあたしのやる気で日程は決めまーす。しばしお待ちをー。っつか、イタヤさんがゲストだったら、11番教室入りきらなくね?(笑)


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グループワークオチ、な話。さぁ、あとは皆さんでお話ください、って乱暴じゃね?

2012-10-07 02:23:16 | オトナの学び
大学院教育を巡る修了生情報交換会なるものに行ってきました。
大層な名前がついてるなぁ、代官山だけなんだー、具体的に何するかよくわかんないしなー、OB交流会とか企画してて行かないのもなんだしなぁ、とちょいと後ろ向きな気持ちでいたんだけど、言いたいこと言ってきたらいいよ、と言われたので行ってきました。


何かを変えたくて、そして、そのための意見が欲しくて、ああいう場をつくったんだろうな、と思うんだけど、あのかたちがベストだったかのかどうかはわからない。言いたいこと言えたか?と言われたら、言えるわけないじゃん、ってのが答え。


教員職員、在校生が居並ぶ中で否定的なことは言いにくいし、こちらのお粗末な私見は論破されそうな空気がぷんぷんと。


それはさておき。


大学院で学んでよかった―、という声の中で多く出ていたのが、グループワークがイマイチ、って感想。


へぇ~。
グループワーク、グループディスカッションこそが大学院の授業スタイルなのにそれを否定されちゃあねぇ。


曰く、
メンバーの構成による
世間話の延長で終わる


これって、いくつかの理由/事象によるものだと思っていて、ひとつは参加者のレベルが合っていないこと。このあたりはサイトウヒロミチさんがよくおっしゃっているけど、参加者の知的レベルが一定水準以上だから、ガチな議論もできるし、グループワークとして成り立つ。
参加者のレベルを下げてたあたしが言うのはなんですが、これは確かにあると思う。言葉の意味や文脈を理解、共有できていないと議論にまでは至らない。


もうひとつは、ワークショップを実践する側としての自戒も込めて。
グループワークオチ、ってあると思う。レクチャーして、てきとーなお題だして、さ、あとはグループで話しあって、っていうスタイル。
さすがに大学院レベルだとそこまで強引なのはないけど、ここ1年くらいの間、セミナーや講習会でこのスタイルによく遭遇した。


それでも参加者のレベルが均質で、それぞれが目的意識なり、ゴール設定なりをした上で参加してれば、それなりの場にはなる。


それは非常に稀なことで、やっぱりきちんと設計していないと場はどんどんと流れ、歪んでいきます。設計していたって、思い通り、設計通りにはならないんだもの。


少なくとも、アウトプットに何を求めているのか、の指示は明確にすべきだし、議論が進むように事前のインプットを行う、対話が誘発できるような仕掛けを埋め込む、など工夫はできると思う。大学院の授業なのだから、「いっぱい話せたねー」で終わっていいはずがない。きちんとアウトプットできてこそ、だと思う。


ただ、これまた最近感じていることではありますが、アウトプットにこだわると、せっかくグループワークのプロセスが活発で、いいこと言ってんなぁ、と思ってても、発表したりまとめたりすると、しょぼーーーいものになってしまうことがある。結構ある。


最近、経験したワークショップがまさにこれ。交流メインの会だったのに、お題が出されたら、仕切りたがり屋さんが「どんなふうにまとめましょうか?」と”答え”を出したがった。さらには「絶対に発表させられるから、発表しやすいようにまとめておいた方がいい。」とまで。


きょーれつな違和感。


大学院のグループワークは、対話ではなく議論だし、なんらかの・・・それもある程度のレベルのアウトプットを出すことが要求されているので、ワークショップのそれとは違うけれども、「さぁ、皆さん、グループで話し合ってください」っていうのは確かに多かった。
組織課題を解決する、というシナリオで、会議設計をする、というケース/グループワークのときに、アウトプットがよくわからなくて(つまり、会議の設計をするのか?組織課題を解決するのか?)しつこく質問したら、そんなこともわかんないの?的なことを言われたことがあったなぁ。苦い記憶です。
(この場合、あたしの理解が浅かったせいもあって、課題を解決するなら会議にこだわる必要はないんじゃない?という疑問をもったこと自体が間違いだったのですがwww)



グループワークがイマイチなことを、メンバーのせいにするのはやめよう。
アウトプットの形は明確にする。けど、それにとらわれすぎちゃうと、多様な意見が出にくくなっちゃうから、プロセスでどんな話がなされたのかをきちんと記録しておくことがだいじな気がするなー。


何にしても、設計は怠らず。始まったら、場を見てチューニングする、これに尽きます。
気をつけよ。


ここからは余談です。


グループワークの話とは離れますが、3月に人材育成学会で話されたという「MBAとして得たもの」に
「社内の仕事経験もだいじだが、その限界もわかった」
というのがありました。うまく解釈しきれていないんだけど、これが”越境学習”の本質な気がするのです。特にミドル以上になると社内では教えてもらうこともなくなっちゃうし、自分にとって楽な方法、楽な立ち位置で仕事しようと思えば仕事できちゃうわけで。リスクを取らないことがリスク、変わらないことは退化を意味する、みたいなことはよく言われるし、しんどいなーとも思うけど、企業の目的、存在意義がごーいんぐこんさーん、であるならば、”成長”し続けるために、中にいるあたしたちも”成長”し続けなきゃならないわけだ。若いうちは仕事からの学びだけで十分だったかもしれないけど、おぢになるとそうもいかない、ってことなんだろうな、と。だから他流試合をするのだな、と。





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そんなこと、な仕事をしてみて思ったこと。労働とは尊いものなのだ。

2012-10-02 23:02:46 | カイシャ・シゴト
ちょっと前になりますが、親会社の分社や、ロゴ変更を控えて、当社の事業部門がてんやわんや(古)ってことで、我々スタッフもちょっとばかりではありますが、お手伝いに行きました。
入館証の差し替え、封入作業など。ボリューム対応ですから、単純作業っちゃあ単純作業です。


そんなこと、な仕事かもしれませんが、そんなこと、な仕事をしてみて思ったこと、感じたことがいくつかあります。


あたしは封入作業のお手伝いに。1500部、6種類のペラやとオーダーシートを封入する、って作業。この仕事を通じて、最近、ことごとく言っている労働の尊さをあらためて実感した。


ひとつは、
目の前の仕事がどんどんと減っていくってことがとても嬉しいんだ、ってこと。1500部、絶対に終わらないと思ってたと、当該部門のリーダーが言ってたけど、終わらせたっていう達成感は確かにある。それも強固に。


もうひとつは
工夫のしがいはいくらでもある、ってこと。
50部ずつ仕分けした束を、封入する順に作業机に並べる。そしてそれを封筒に入れる。
封筒の向きを、封入口を上にすれば封入しやすいのはもちろんだし、移動/稼働距離を短くするように、封入物を横一列に並べるのではなく、L字に並べたり、きちんと6種類の封入物が入っているかを確認できるように6種類を少しずつずらして封筒に入れる、とかとか・・・。
これねぇ、結構、クリエイティビティ発揮できます。


もともと手先はそこそこ器用だけど、2時間もやっていると熟達していって、左手をスライドさせながら紙を掴んで、その厚みで「あれ?もしかして足りない?」なんてことに気付けるようになっていく。この過程が、自分でもおもしろかった。1500部3時間ちょっと。異様に速い、まさか1500部全部終わるとは思わなかった、と褒められました、いぇい(*^^)v 


さらにもうひとつ。
作業だ、って思うと、封入物の向きや汚れは気にならないし、封入した封筒をばさっと投げたりすることもどーってことなくなっちゃう。
けどね、シューカツ中の学生さんに渡ったときに、中身を見て「リ●ナビの登録用紙が入ってなかった」とか「パンフレットが折れてきたなかった」となったら、そりゃー凹むと思うのですよ。縁起悪い・・・と思ったりね。そりゃ、責任重大だ、間違えちゃならねぇ、と思い至るわけです。
そういう想像力(妄想力ともいう)を働かせると、単なる封入物ではなくて、学生と社会をつなぐお仕事をしているんだなぁ、と思えるわけです。そりゃ、毎日毎日やっていたらそんなに思いは馳せられないだろうけどね。


さらにさらにもうひとつ。
リ●ナビ登録用紙が入っていたので、「ねぇねぇ、後学のために教えて。これって、この登録はどこでやってるの?」と訊いてみたら、
「僕が就活中の大学生だとするでしょ、説明会に行きます・・・・」と流れを細かく説明してくれたのです。
アタリマエなのかもしれないけど、あたしは結構、感激したのです。ちゃんと自分の仕事が全体の中のどの部分を担っているのか、ということを知っている。知っていて、派遣スタッフさんはじめメンバーに指示を出しているんだってことが。


てな具合に、そんなこと、って言われる仕事をしてみて、あたし自身はとってもたくさんのことに気づいた。そして、あらためて、労働の尊さ、みたいなことを実感したのです。


ところが、おつぼーねさまは、声を震わせて「ねぎらいの言葉がなかった」「手伝いたい気持ちはあるけど、派遣スタッフの代わりならわたしは行きたくないし、行かせたくない」と仰っておりました。
ふーん。わからなくもないけどね。
確かに、あたしやおつぼーねさまの人件費で、こういう軽作業をやるのはバランスが悪い。もっと企画チックな仕事をしろ、ってことは重々承知。でもね、現場のことはわかるし、役にたってる感はあるし(実際にもちょっとは役に立ったわけだし)、自分自身にとっても「働く」って意味を再認識できるわけだし、あたしはそんなに構えずに、工数に余裕があるならいつでも手伝いに行きたいなぁ、と思った。んで、もうちょっと図々しく、ここはこうしたら?的に口出してこれたら尚よいんだと思った。


ついでにいうと、派遣スタッフやアルバイトの代わり・・・って表現は彼・彼女らの仕事をバカにしとるぞ。こういう地道な仕事をやっている人がいるってことを忘れちゃいけないし、そういう人に支えられているんだと思うのですよ。


なんでしょうね?この、作業を軽視する風潮。そんなに文系ホワイトカラーが偉いんかい?


知的障害のメンバーと一緒に仕事をしていて常々感じていることがあります。
うちの部署にいるHくんは、朝は8時20分には出社して40分からの仕事に備えています。日中は常に小走りで仕事をし、17時半のチャイムと同時にそそくさと、ときにダッシュで帰ります。
お母様曰く、家に帰るとご飯を食べて、テレビを見て、早めに休む、それだけのシンプルな生活です。休日は、お給料日の直後だと時刻表や路線図が好きな彼はひとりで遠くに出かけて、時には豪華に鰻を食べたりするそうです。一方、給料日前になると、コンビニ弁当で済ませるとか。りそーすべーすどびゅー、そのものだ。


とてもシンプルな生活です。
これでいいんじゃないか?と思うのです。ウィークデイの日中、彼は力を100%発揮できる仕事をして、そこでは一生懸命、自己ベストを尽くしています。


がつがつ働くのは嫌だ、とか、もっとのんびり行こうよ、とか、それもわかります。
あたしだって競争はキライだし、ガチで切った張ったな世界は苦手です。
でも、だからと言って、自分のフィールドから、自分が100%の力を発揮することから、降りちゃダメなんだと思うのです。
彼らがすごいのは、常に100%だ、っていうことです。


思考したり、もやもやしたり、という喜び(苦しみ?)を知らない彼らは、ホワイトカラー文系な目から見たら不幸かもしれない。けど、毎日毎日、自分の仕事を全力でやりつくす、そんな喜びを知っている彼らはとても幸せなんだろうな、と思うのです。そして、自分の仕事を全力でやりつくせないあたしたちの方がずーっとずーっと不幸なのかもしれないなぁ、と。


そう、額に汗して、愚直に労働している人は美しい。あたしもそうありたい。



いちお、補足、追記しておきます。
上記の彼らの話は美談ではあります。実際には、加齢によって「できていたことができなくなる」こともあるし、時には「あれ?この前はできていたのに・・・」ということもあります。人それぞれだし、状態も状況も日々違います。すべてが彼のように100%の力を発揮して働いているというわけでもありません。サボることを覚える人もいます。それもまた事実です。
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愉しいって経験は学びの入り口になるんじゃない?って話。

2012-10-02 00:10:19 | オトナの学び
昨日、参加したMALL★ドラムサークル、振り返ってみようとつぶやき始めたらものすんごい量になってしまったので、あらためてまとめておきます。多少加筆修正しとります。
TLうざくてごめんなさい。


午前中にもワークショップに参加していて、最近感じている「ワークショップここがイマイチ」の最上級???って状態だったせいもあるけど(この件に関してはまたどこかで)、研ぎ澄まされて、削ぎ落とされたワークショップだなぁ、というのが率直な感想でした。
そして無条件に愉しかった、とにかく愉しかった。

昨日のお題でもあった、ドラムサークルをジンザイイクセイにどう取り込むか、ドラムサークルは研修に使えるのか?を考えながら参加してたら、きっと愉しくなかっただろうなと思うのです。これって何に活かせるんだろう?と合目的に”音楽”や”アート”を考えると学びや気付きは通り一遍のものになってしまうような気がするのです。音楽やアートみたいに正解がない、感じ方は人それぞれでよい、って類のものはまずは愉しむ、体感することなんじゃないかなと。


太鼓っていうのはとってもオープンな楽器。叩けば音が出る。弦楽器や管楽器のように音を出すことが難しい楽器とは違って、ハードルが低い。この簡単さ、一歩の踏み出しやすさ、が「学び」には必要な気がする。で、やってみたら愉しかった、という経験もね。


とは言え、最初はみんな真剣。慣れないものを扱うちょっとしたビビりと、うまくやらなきゃっていう構え。オトナになると無心で遊ぶってできなくなっちゃう。どこかでうまくやろう、という意識が働いちゃう。
でも、ビートに身を預けて、グルーブ感に身を委ねる・・・それって根源的なことだと思うのですよ、音楽を聴けばカラダが揺れる、鼻歌を口ずさむ。
学びのデザインもそうでありたいよねー。


新人研修にははまる。一体感が醸成できる、と既に導入されている企業の方からのお話しがありました。ドラムサークルを導入してるってだけでもものすごい先進的で自由な発想のカイシャだと思うのです。


ふむ。新人研修は何をやっても結構はまると思うのです。新人や若者は素直だし、人事に好かれたい、という下心もなくはないwww 


問題は凝り固まったおぢらにどう太鼓をたたかせるか。
むしろおぢらの方が、太鼓を叩くと愉しいという体験が必要なんじゃないかと。その場は愉しかった、ストレス発散できたでよくて、意味づけは後からやればよい。おぢらへの研修は、一体感とかクリエイティビティとかではなくて「内省」。


今、体験したことをあなたはどう意味づけますか?


経験豊富なおぢならば、自分が体験したことを意味づけ、和文和訳することはできると思うし、そうやって学びほぐしていくことこそがおぢらの学び、な気がするのです。


例えば
叩き方ひとつで音が変わる⇒接し方ひとつで相手も変わる
とか、
ドラムを床から離して底に空間を作ると音が抜けやすくていい音が出る⇒ちょっと配置を変えると活躍するかもね、
とか、
力いっぱい叩くこと=音が大きいことではない、ヒットポイントにあたると驚くほどキレイな音が出る⇒ストレッチ効かせることだけが成長ではない、その人にいかにフィットした仕事や経験をアサインできるか?
とかとか…。


あとは、合わせることの心地よさ。みんなで一斉に音が鳴る、止まる…でも、そこに指示はない。手を下に向けて静かに動作を止めただけ、それでも伝わる。
上意下達だがすべてではない、いいからやれ、な指示じゃあ伝わらない。音を止めたくなるようなアフォーダンスを設計することが大事なんだねー、とかとか…。


ちょっとネガティブなことを言っちゃうと、一体感は醸成されるけど、一方で「合わせる」ことの快感っていうのはいわゆる組織社会化ではないのかなー?知らず知らずのうちにカイシャに、上司に合せる、そんなイイ子ちゃんを無意識(もしかして意識的?)に作ってる。なんてねー。


とつぶやいたらRitaさんから、
ドラム叩いて下心計算の余裕はないと思う。化けの皮はすぐ剥がれちゃう。みんな違ってみんないい、体験。違うことを認め違う皆がでないとハーモニーにならないを体で覚える
とリプライをいただきました。


確かに!叩いている間は無心に近い。


ただ、あれ以上長くなると「もっとうまく叩けるようになりたい」と思っちゃうかも。それだと楽器教室になっちゃうんだよね。もうちょっと叩きたい、くらいの1時間っていう時間設計は絶妙だ、と思った。


なんだかんだと言ってますが、とにかく愉しかったのです。で、この「愉しい」って感覚が学びには必要だとあらためて思ったのです。愉しくなかったら、やってみようと思わないでしょ?


板谷さんが「意識しないと笑顔になっちゃう」とおっしゃっていたけど、ホントにそう!ふつうは逆でしょ?意識して笑顔つくったりするのに、自然に笑顔になるってすごいなー。やっぱりね、音楽の力ってあるよね。


本編とは関係ないところで、あたしにとってのいちばんの学び、気付きがありました。
ディレクターのコイケさんへの潤さんの指導を間近で拝見したこと。自信なさそげに進行の確認をするコイケさんに「あなたが指示を出すんだから自信持って言いなさい」と。
任せること信じること見守ること。
あたしのいちばんダメなとこだー。ひとりでなんでもやっちゃう。社内のイベントでは特にそう。っつか、ひとりしかアサインされないからしょうがないんだけど、次回からは誰かを一緒にアサインしてもらうようにお願いしよう。


最後に、中原先生プレバースデイのサプライズ。
申し込むときに、「中原先生お誕生日前夜祭サプライズもしなくちゃ!」とコメント欄に記載したのはわたしです(^_^;) そんなこと書く人いねーだろ、と思ったら、潤さんが拾ってくださって、秘密裏にサプライズ企画が進行しておりました。
プレゼントは、妄想の神様が降臨してきて、一年分のブログとツィート読み返して作成したマニア垂涎のナカハラジュンコトバアートカレンダー。おっかけの本領発揮な一品です(笑)

 

妄想はさらにスパークして、MALLの公式グッズにできるんじゃね?とか中原先生のサイン付きで著書特典にしたらどう?とか、解説付き裏カレンダー作っちゃお、とか、そしたら妄想が高じて、グッズラボができちゃうかも?な展開。すごい、妄想は現実を凌駕するwww 


とにもかくにも、貴重で良質な場に参加できたことに力一杯の感謝を。
本当にありがとうございました。
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